勇気
「自殺する人って、勇気があると思う?」
彼がそう訊いたとき、目に感情はなかった。ただ淡々としていて、まるで「今日、雨降るかな」とでも言うように。
でも、それは嵐だ。天気の話じゃない。心の中で吹き荒れる、嵐の話だ。
僕はすぐには答えなかった。彼が何を続けて話すのか、待っていた。彼も焦ることなく、静かに語り続けた。
「みんな『自殺は現実からの逃避』って言うけど、本当に“どうにもならない問題”ってやつを分かって言ってるのかな」
彼の手を見た。指は固く握られ、関節が白くなっていた。それでも声のトーンは静かで、まるで死んだ湖面のようだった。
「選択を間違えたわけじゃない。失敗したわけでもない。ただ、問題の方が勝手に入り込んできた。突然の雷みたいに、ドーンと落ちてきて、避ける間もなく焼け焦げる」
彼の視線はどこか遠くを見ていた。まるで、今でもその雷が空に残っているかのように。
「『共感します』って言っておいて、『もっと前向きになれよ』とか、『お前は弱すぎた』とか、『もっと大変な人もいる』とか、すぐ言い出すんだよね。…...でも、別に誰と比べてるわけじゃない。ただ、もう限界なんだ」
僕は何か言いたかったけど、喉が詰まって声が出なかった。
「解決しようとしなかったわけじゃない。全部、試したんだよ。どの道も通ってみた。でも全部、絶望にしか続いてなかった」
彼は少し息を吐いた。それは、“通った道”をたどるような、重たい呼吸だった。
「死にたいわけじゃない。ただ、生き方がもう分からない。」
その言葉は、針のように胸の奥を鋭く貫いた。僕も、同じ言葉を、同じ場所で言ったことがある。でも、僕は生き残った。じゃあ、彼は?
「問題をサクッと解決できる人が、ちょっと羨ましいよ。別に恨んでるわけじゃない。ただ、なんでそんなことができるのか、分からない。あいつら、きっと本当に“解けない問題”に出会ったことないんだろうな」
彼は皮肉っぽく笑った。でも、それは誰かを責める笑いじゃなくて、自分の不甲斐なさへの嘲りだった。
「理解されないのは、お互い様だよ。あっちは光の中、こっちは穴の底。穴の中にいる人間に『外は明るいよ』って言ってもさ、そこに階段がないんだよ」
僕はようやく、喉の奥から言葉を絞り出した。
「自殺が勇気か臆病かなんて、僕はどっちとも思わない。ただ、それは一つの“選択”だと思う。その選択をする時点で、もう壁際に追い詰められてたんだよね」
彼は静かに頷いた。
「そう。生きるほうが怖いから、まだマシな方を選んだだけ。」
あの言葉が、僕の頭に浮かんだ――「親がどれだけ苦労して育てたと思ってるんだ」ってやつ。
彼はつぶやいた。「でも、頼んで生まれてきたわけじゃない」
僕は目を閉じた。反論できなかった。だって、それは事実だから。
彼は空を見た。陽は出ていたけど、僕たちの心の中のどこかでは、まだ雨が降っていた。
「もしできるなら、トラウマから抜け出したいよ。もし解決策があるなら、諦めない。でもさ、解決したって…...傷跡って、消えないんだ」
僕は何も言えなかった。
最後に彼が言った言葉は、すべてを要約するようだった。
「自殺って、逃げたいからじゃない。痛みが強すぎて、長すぎて、孤独すぎるんだ」
僕は頷いた。
この会話には、慰めも答えも、奇跡もない。ただ、僕たちは、お互いの声を聞いた。それだけだった。雨音の中で。
僕が前に差し出した手は空中で止まり、彼は一歩を踏み出した。
すべての物語に、救いがあるわけじゃない。選んで終わらせた人たちは、努力が足りなかったんじゃない。弱かったわけでもない。
ただ、彼らは――ある瞬間、本当にあまりにも苦しかっただけなんだ。