隠れ家での日々
古い隠れ家での最初の夜。小屋の中は、ランプの頼りない灯りと、炉でわずかに燃える残り火の明かりだけが闇を照らしていた。外は深い森の静寂に包まれ、時折、遠くで獣の鳴く声や風の音が聞こえるだけだ。
ウィルが五百年ぶりに訪れたというこの隠れ家は、思った以上に質素だった。主な部屋は一つ。中央に大きな炉と金床があり、壁際には作業台や棚が並ぶ、まさしく鍛冶師の仕事場だ。そして、部屋の隅に、藁を敷いただけの簡素な寝台が一つだけ。ウィルがかつて一人で使っていたものだろう。
「…寝床が一つしかないようだけど…」エリスは少し困ったように言った。「僕は床で構わないから、君は寝台を使うといい」
「そ、そんなわけにはいかないわ!」エリスは慌てて首を振った。「あなたは大事な使命を帯びているし、それに、私よりずっと年長でしょう? 私が床で寝るわ」
「いや、そういうわけにはいかないよ。君はリンドリアの…いや、僕の大事な仲間だ。それに、慣れない旅で疲れているだろう。遠慮はいらない」ウィルは穏やかに、しかし有無を言わせぬ口調で言った。
結局、二人は譲り合った末、狭い小屋の中で、ウィルが炉のそばの床に、エリスが隅の寝台に、それぞれマントを掛けて横になることになった。それでも、互いの距離は驚くほど近い。手を伸ばせば届きそうな距離に、ウィルがいる。エリスは、寝台に横たわりながらも、緊張で体が強張るのを感じていた。
(男性と、こんなに近くで夜を明かすなんて…)
野営ではそれどころではなかったため意識しなかったが、エリスは久しぶりの寝床で冷静になっていた。今の状態は王宮育ちの彼女にとって衝撃的な状況だった。しかも相手は、ただの鍛冶師ではない、何か計り知れない力と秘密を隠し持っているウィルだ。昼間の戦闘で見た彼の力、そして時折見せる深い瞳。彼が危険な人物だとは思わない。むしろ、彼の人柄は誠実で、信頼できると感じている。だが、それでも不安は拭えなかった。男女が二人きり、狭い小屋で夜を明かす。何かが起こらないという保証はどこにもない。もし彼が、その気になったら…? エルフは人間よりも理性的だというけれど…。
(もし、ウィルが…私に何かを求めてきたら…私はどうすればいいの…?)
そう考えると、心臓が早鐘のように打ち、体が熱くなるのを感じる。怖い。逃げ出したい。けれど、同時に、心のどこかで奇妙な感情が芽生えていることにも気づいていた。彼への深い信頼と、未知の状況への戸惑い、そして少しばかりの恐れが入り混じった、複雑で不安定な気持ちだった。
彼女は隣で静かに横たわっているウィルの気配を探った。彼はもう眠っているのだろうか。規則正しい寝息は聞こえない。ただ、静かに、そこにいる。その存在感が、不思議と彼女の不安を和らげ、同時に緊張を高めた。
(ああ、もう! 考えるのはやめよう…!)
エリスは無理やり思考を打ち切り、ぎゅっと目を閉じた。旅の疲れもあったのだろう、いつしか彼女は、複雑な感情を抱えたまま、浅い眠りへと落ちていった。
*
古い隠れ家での最初の朝は、森の静寂と柔らかな光と共に訪れた。差し込む朝日が、小屋の中に漂う無数の埃を黄金色の粒子のように照らし出し、幻想的な光景を作り出している。ウィルはエリスよりも早く目覚め、小屋の周囲を見回っていた。彼が五百年前に施した結界は、時の流れにもかかわらず、今もなおその力を保っているようだった。結界の内側は空気が澄み、穏やかな雰囲気に満ちているが、一歩外に出れば、そこには依然として冥王の石の影響による淀んだ、不穏な空気が漂っている。その境界は、目には見えないが、肌で感じ取れるほど明確だった。
(結界はまだ生きているか…。だが、完全ではないな。石の力は、確実にこの森全体を蝕んでいる)
ウィルは小屋の周りを歩きながら、地面に残された痕跡や、植物の状態を注意深く観察する。結界があるとはいえ、完全に安全とは言い切れない。常に警戒を怠るわけにはいかなかった。
「おはよう、ウィル」
小屋の中から、少し掠れた、しかし凛としたエリスの声が聞こえた。彼女は少し眠そうな目をこすりながら、寝台からゆっくりと起き上がってきた。長い睫毛が震え、碧い瞳がまだ少し夢現な様子で周囲を見回す。寝癖で少し跳ねた蜂蜜色の金髪が、窓から差し込む朝日を浴びてキラキラと輝いていた。王宮での彼女しか知らなかったウィルにとって、その少し無防備な寝起きの姿は新鮮で、思わず見入ってしまいそうになるのをこらえた。彼女の頬には、枯れ葉の跡がうっすらとついており、それが妙に愛らしく見えた。
「ああ、おはよう、エリス。よく眠れたかい?」ウィルは穏やかに声をかける。昨夜の彼女の緊張には気づいていたが、あえて触れないでおいた。
「ええ…ありがとう。あなたがずっと見張っていてくれたおかげね」エリスは体を起こしながら、少し恥ずかしそうに微笑んだ。彼の気遣いが嬉しかった。森での初めての夜は不安だったが、彼の存在のおかげで意外なほどぐっすり眠れたのだ。目覚めた時に彼がそばにいてくれたことが、何よりも心強かった。「それにしても、地面で寝るなんて初めての経験だったわ…少し体が痛いかも」
彼女はそう言って、小さく肩を回し、首をこきりと鳴らした。その仕草も、普段の気品ある王女の姿とは少し違い、ウィルの目には微笑ましく映った。
「はは、すぐに慣れるさ。最初は誰でもそんなものだよ」ウィルはくすりと笑う。「それより、朝食にしよう。昨日の肉の残りと、君が見つけてくれた木の実がある。腹が減っては戦はできぬ、とも言うしね」
ウィルは手早く朝食の準備を始めた。残しておいたシャドウ・クロウの肉を再び軽く炙り、香ばしい匂いを立たせる。木の実も、彼が知っている薬草の葉で丁寧に拭き、木の葉で作った即席の皿に盛り付けた。エリスも寝床を片付け、近くの小川で冷たい水で顔を洗い、銀の櫛で丁寧に髪を整えて戻ってきた。その顔はすっきりとして、旅への意欲が再びみなぎっているように見えた。森の清浄な空気が彼女に活力を与えているのかもしれない。
二人は焚き火跡のそばに腰を下ろし、簡単な朝食をとった。森の空気はひんやりとして清々しく、鳥たちの様々な種類のさえずりが、まるで朝の訪れを祝う合唱のように周囲を満たしている。木漏れ日が地面で揺れ、穏やかな時間が流れていた。昨日までの緊張感が少しだけ和らぐのを感じる。
「昨夜は、本当に何もなかったの?」エリスが、肉をナイフで切り分けながら尋ねた。眠っている間に何かあったのではないかと、やはり少し心配だった。ウィルの纏う空気が、昨夜よりも少しだけ張り詰めているように感じられたからだ。
「ああ、幸いなことにね。いくつかの気配は感じたが、近づいてはこなかった。おそらく、僕らがここにいることに気づいて、警戒したんだろう」ウィルは正直に答えた。「だが、油断はできない。この森には、まだ何か良くないものが潜んでいる気配がある。昼間とは違う顔を、夜の森は持っているからね。特に、今のこの森は」
「そう…」エリスは少し不安そうな顔をしたが、すぐに気を取り直したように言った。「でも、ウィルがいれば大丈夫ね。昨日の戦いを見て、そう思ったわ」
その真っ直ぐな信頼の眼差しに、ウィルは少しだけ戸惑いを覚えた。彼女はまだ、自分の力のほんの一部しか見ていないのだ。そして、その力の代償も、危険性も知らない。彼女の信頼に応えたいと思う反面、彼女をこれ以上危険に巻き込みたくないという気持ちも強かった。
「僕一人でどうにかなるものでもないさ」ウィルは努めて平静を装い、彼女の不安を和らげようとした。「君の弓の腕も頼りにしているよ。昨日の射撃は見事だった」それは本心でもあった。いくら力があっても、一人でできることには限界がある。信頼できる仲間がいることは、何よりも心強い。
「ええ、任せて!」エリスは力強く頷いた。彼の言葉が、彼女の自信を少しだけ取り戻させたようだった。彼に頼りにされている、という事実が、彼女の心を温かくした。
朝食を終え、二人はそれぞれ今日の作業に取り掛かった。ウィルは小屋の中の鍛冶場へ。エリスは水汲みと食料・薬草の採集へ。
「気をつけるんだよ、エリス。あまり遠くへは行かないように。そして、常に周囲の音や気配に注意を払うこと。何か異変を感じたら、すぐにここへ戻ってくるんだ」ウィルは念を押す。
「わかっているわ。大丈夫よ」エリスは頷き、弓と矢筒、そして採集用の袋を手に、慎重に小屋の周りの森へと入っていった。
ウィルは、彼女の姿が見えなくなるまで見送ると、鍛冶場の整備に取り掛かった。炉を入念に点検し、火床を掃除する。ふいごは革が少し硬くなっていたが、手持ちの獣脂を丁寧に塗り込めば、まだ十分に使えるだろう。金床や様々な種類の鎚、鑪といった工具も、一つ一つ手に取り、状態を確かめていく。五百年の歳月は、さすがに金属にも影響を与えており、錆びついているものもあったが、彼の技術をもってすれば修復は可能だろう。彼は手始めに、いくつかの鎚の錆を落とし、研ぎ直していく。カン、カン、という金属音が、再びこの古い鍛冶場に響き始めた。それは彼にとって、懐かしく、そして心地よい音だった。
(これだけの設備があれば、剣や鎧の修理はもちろん、新しいものを作ることもできるな…エリスの矢も、もっと良いものを作ってやれるだろう)
彼は棚に置かれた金属のインゴットや、用途不明の部品に目をやった。これらは彼が若い頃に集めたり、試作したりしたものだ。中には、ミスリルやアダマンタイトといった希少な金属も含まれている。これらを使えば、強力な武具を作り出すことも可能だろう。だが、今はそれよりも、旅に必要な道具を整える方が先決だ。
彼は作業台の上に散らばっていた古い羊皮紙を片付け始めた。そこには、彼がかつて書き留めた設計図や、魔法の理論、錬金術の実験記録などが、彼の流麗な文字でびっしりと記されている。そのいくつかは、二つの腕輪の製作に関わるものだった。力の根源、物質の変成、古代ルーン文字の解読…。彼はそれらを注意深く拾い集め、奥にある木箱へとしまい込んだ。今はまだ、これらに深く向き合う時ではない。世界の腕輪を見つけ出し、マルゴスの脅威を完全に排除した後でなければ、これらの知識は危険すぎる。
一方、エリスはウィルに言われた通り、小屋の周囲で薬草や木の実を探していた。王宮の書庫で学んだ知識を頼りに、食べられるもの、薬になるものを選び分けていく。森は豊かで、注意深く探せば、様々な恵みが見つかった。甘酸っぱい森苺、滋養のある木の実、傷薬になる薬草、解熱作用のある葉…。彼女は夢中で採集に勤しんだ。それは、王宮での退屈な日々では決して味わえない、充実した時間だった。自分の手で、自分たちの生活に必要なものを見つけ出す喜び。それが、彼女の心を生き生きとさせていた。
しばらくして、エリスは水を満たした桶と、籠いっぱいの収穫物を手に小屋に戻ってきた。
「ウィル、見て! こんなに見つけたわ!」彼女は誇らしげに籠を差し出した。
「おお、すごいじゃないか、エリス」ウィルは鍛冶の手を休め、彼女の収穫物を確認した。「これは…うん、どれも役に立つものばかりだ。薬草の知識もあるんだね。さすがだ」
「ふふん、書庫で勉強した甲斐があったわ」エリスは嬉しそうに微笑んだ。「水も汲んできたわよ。小川の水、とても綺麗だった」
「ありがとう。助かるよ。これで数日は食料に困らないだろうね」ウィルは微笑んだ。「君のおかげで、僕も鍛冶に集中できる」
二人は協力して小屋の掃除の続きをし、寝床にはさらに多くの枯れ葉や柔らかい苔を敷き詰めて快適にした。ウィルは手早く簡単な棚を作り、食料や道具を整理する。エリスはその手際の良さに感心しながら、彼の指示に従って作業を手伝った。王女である彼女が、生まれて初めて行うような雑務ばかりだったが、不思議と苦にはならなかった。むしろ、ウィルと共にこの隠れ家を自分たちの「家」にしていく過程が、楽しくさえあった。二人の間には、自然な協力関係が生まれつつあった。
午後は、ウィルは炉に火を入れ、金床でエリスの矢を作り始めた。彼は手持ちの材料――おそらくは彼が隠遁前に集めていた特殊な金属や木材――から、エリスの弓の強さや彼女の射癖に合わせて、数本の新しい矢を驚くほどの速さで、そして精密さで作り上げていく。その鎚さばき、火の扱い、金属を見極める目は、まさに神業の域に達していた。エリスは息をのんでその作業を見守る。彼の真剣な横顔、鍛えられた腕、額に滲む汗。その一つ一つが、彼女の目に焼き付いて離れない。
「すごい…! こんなに軽くて、真っ直ぐ飛ぶ矢は初めてよ!」試しに完成した矢を一本、小屋の外で射ってみたエリスは、その性能に目を見張った。矢は吸い込まれるように的(近くの木の幹に印をつけたもの)の中心を貫いたのだ。
「まあね。材料はあり合わせだが、少し工夫してみたんだ」ウィルはこともなげに言う。「矢羽の角度や重心のバランスを、君の引きに合わせて調整しただけだよ」
「それだけでも、こんなに違うものなのね…!」エリスは興奮気味に言った。「ありがとう、ウィル! これなら、もっと役に立てるわ!」
「ああ。だが、矢の性能だけ良くても意味がない。使いこなせなければね。油断せず、鍛錬を続けることだ」ウィルは穏やかに、しかし厳しさも込めて言った。
「はい! もっと練習するわ!」エリスは目を輝かせた。彼に認められたい、彼の期待に応えたいという気持ちが、彼女の中でますます強くなっていた。
日が完全に暮れる頃には、小屋は見違えるように片付き、生活の基盤が整いつつあった。炉には再び火が入り、小屋の中を暖かく照らしている。二人は再び焚き火を囲んで夕食をとる。メニューは昼とあまり変わらなかったが、温かい食事と安全な寝床があることは、この森の中では何よりの贅沢だった。
「ウィル」食事の後、エリスが切り出した。「あなたの研究資料…少しだけ見させてもらったのだけど、あれはいったい…? とても古い文字や、見たこともない図形がたくさんあったわ」
ウィルは一瞬、驚いたような顔をしたが、すぐに穏やかな表情に戻った。
「ああ、あれかい? …まあ、若い頃の道楽のようなものだよ。色々なことに興味があってね。錬金術、古代魔法、物質の根源…世界の成り立ちとか、力の法則とか。そんなことを、気の向くままに調べていただけさ」
「でも、とても高度な内容に見えたわ。まるで、失われた知識のよう…」
「そうかもしれないね」ウィルは肯定も否定もせず、ただ静かに言った。「知識は力だ。そして力は、使い方を誤れば大きな災いを招く。あの箱の中には、そういう危険な知識も含まれている。だから、今はまだ、あの箱は開けない方がいい」
彼の言葉には、重みがあった。エリスは素直に頷いた。彼がそれを危険だと判断するなら、そうなのだろう。彼の過去や秘密に触れたい気持ちは山々だったが、焦る必要はない。いずれ、彼が話してくれる時が来るだろう。
「それよりも、明日からのことを話そうか」ウィルは話題を変えた。「まずは、この隠れ家を拠点にして、周辺の森の状況をもう少し詳しく調べる必要がある。汚染の広がり具合、魔物の種類と強さ、精霊たちの動向…。それから、世界の腕輪に関する手がかりを、ここにある資料の中から探してみるつもりだ」
「私も手伝うわ。資料を読むのは得意よ」
「ああ、頼りにしているよ。それと、食料の確保も重要だ。明日からは、交代で狩りや採集に出ることになるだろう。森の歩き方や、食べられる植物の見分け方、罠の仕掛け方なんかも教えるよ」
「本当!? 嬉しいわ!」エリスは目を輝かせた。彼から直接、森で生きる術を学べる。それは彼女にとって、何よりも魅力的なことだった。
その夜、エリスはウィルが用意してくれた寝床に横になった。小屋の中はランプの灯りが落とされ、炉の残り火が時折パチリと音を立てる以外は、深い静寂に包まれている。
(ウィル…)
今日一日、彼の様々な顔を見た。森の知識に長けた案内人、熟練した鍛冶師、そして、いざとなれば圧倒的な力で自分を守ってくれる頼もしい存在。その一方で、時折見せる寂しげな表情や、過去の記憶に苦しんでいるかのような翳り。そして、何よりも、自分に向けてくれる穏やかで優しい眼差し。彼と共にいると心が安らぎ、強く惹かれる自分を否定できなかった。
彼女は寝返りを打ち、隣の部屋の気配に耳を澄ませた。ウィルの静かな寝息。その音を聞いているだけで、不思議と安心できた。同時に、彼の存在をすぐ近くに感じ、言いようのない緊張と期待が彼女の心を支配する。
古い隠れ家での日々は、こうして静かに始まった。それは、来るべき戦いに備えるための、束の間の休息であり、同時に、ウィルとエリスが互いを知り、信頼を深め、そしてウィルが少しずつ過去と向き合い始めるための、大切な時間でもあった。