森の奥へ、迫る影
古びた祭壇のある聖域のような場所で短い休息を取った後、ウィルとエリスは再びささやきの森の奥深くへと足を踏み入れた。祭壇の周囲だけが、まるで忘れられた奇跡のように清浄な空気を保っていたが、そこを一歩離れると、再び森は淀んだ、不穏な気配を色濃く漂わせ始めた。空気が重く、木々の葉の色も心なしかくすんで見える。陽光は厚い枝葉に遮られ、森の床は常に薄暗い影の中にあった。まるで、森全体が深い病に侵されているかのようだ。
「ウィル、隠れ家ってどんな場所なの?」しばらく歩いた後、エリスが尋ねた。
「そうだね」ウィルは頷いた。「今使っている小屋とは違う、もっと森の奥にある別の古い隠れ家なんだ」
「別の隠れ家?」エリスは意外そうな顔をした。「そんな場所があったのね。どうしてそちらへ?」
「昔…そう、僕がまだ若かった頃に使っていた場所さ」ウィルは少しだけ遠い目をした。「鍛冶の腕を磨いたり、色々なものを試したりするのに都合が良くてね。人目も気にせず済むし。あそこには、今の小屋にはない、もっと本格的な鍛冶設備があるんだ。それに、昔の研究資料や、もしかしたら腕輪に関する手がかりになるような物も残っているかもしれない。まずはそこで装備を整え、情報を整理したいんだ。この先の旅に備えるためにもね。それに、古い結界も張ってあるから、少しは安全なはずだ」
「昔の研究資料…腕輪に関する…」エリスはウィルの言葉にますます興味をそそられた。彼がただの鍛冶師ではないことは明らかだったが、その過去は謎に包まれている。「わかったわ。そこへ行きましょう」
ウィルは頷き、再び先頭に立って歩き始めた。エリスもその後ろを追う。彼の古い隠れ家、そしてそこに眠るかもしれない秘密。彼女の胸は、不安と期待で高鳴っていた。
彼の言う通り、森の異変はさらに顕著になっていた。巨大な木々の中には、幹が不自然にねじ曲がり、まるで内側からの力で引き裂かれたかのように裂け目が入っているものがある。その裂け目からは、黒く粘ついた樹液のようなものが滲み出て、異臭を放っていた。表面には黒い脈のようなものが血管のように浮き出ており、触れるのも憚られるような禍々しい気を放っていた。地面には、昨日見たような黒い粘菌だけでなく、紫色や深紅色の、見るからに毒々しい茸が湿った場所に群生している。それらは時折、燐光のような妖しい光を明滅させ、周囲の空気をさらに淀ませているようだった。ウィルはエリスに、それらには絶対に触れないよう、そして胞子を吸い込まないよう、繰り返し注意を促した。
「こんな…こんな酷い状態になっているなんて…」エリスは愕然として呟いた。王宮で読んでいた報告書だけでは、これほど深刻な汚染が進んでいるとは想像もできなかった。美しく神聖なはずのエルフの森が、内側から静かに腐っていくような光景に、彼女は強い憤りと悲しみを覚えた。「どうしてこんなことに…誰がこんなことを…」
「冥王の石の力は、ただ物理的に破壊するだけじゃない。生命そのものを歪め、腐らせていくんだ。大地も、水も、そこに生きるもの全ての魂に影響を与える。精神にもね。だからこそ、厄介なんだよ」ウィルの声には、苦々しさが滲んでいた。彼は五百年年前、その力の恐ろしさを身をもって知っている。マルゴスは、ただ破壊するだけでは飽き足らず、生命を弄び、歪めることに喜びを見出す存在だった。その邪悪な意思が、五百年経った今もなお、この森を蝕んでいるのだ。
森の静寂も、以前とは質が違っていた。生命の営みが織りなす穏やかな静けさではなく、まるで何かに怯えるかのように、全ての音が押し殺されたような、不気味な静寂。鳥の声はほとんど聞こえず、リスや兎といった小動物の姿も全く見えない。時折、風もないのに木の枝が大きく揺れたり、背後で何かが高速で移動するような気配を感じたりすることがあったが、姿は見えなかった。それはまるで、森全体が病的な神経過敏に陥っているかのようだった。
ウィルは立ち止まり、目を閉じて神経を集中させた。左腕の腕輪が、微かに、しかし確実に反応している。警告のように、あるいは近くにある強い魔力に共鳴するように。
「…どうしたの、ウィル?」エリスが小声で尋ねる。彼の真剣な表情に、彼女も緊張を強いられる。背中の弓にそっと手をかける。
「…いや。何か大きなものが近くにいる気配がする。強い魔力を持っているようだ。敵意は…まだはっきりとはしないが、良いものではないだろうね」ウィルは目を開け、険しい表情で周囲を見回した。木の幹に残る新しい、巨大な爪痕。不自然にへし折られた太い枝。そして空気中に漂う、濃密な獣臭と、微かな腐臭。「おそらく、この辺りの主のような存在が、石の影響で変質してしまったのかもしれない」
「主…? 森の主ってこと?」
「ああ。古い森には、そういう存在がいることもある。精霊に近いような、強大な力を持った獣や古木がね。普段は森の守り手なのだが…石の影響は、そうした存在をも歪めてしまうことがあるんだ」ウィルは苦々しげに言った。
その時だった。
ズシン…!
地面が、わずかに、しかし確実に揺れた。遠くではない。かなり近い。
「…まずいな。どうやら避けられそうにない。来るぞ!」
ウィルが叫んだ瞬間、前方の木々がバリバリと凄まじい音を立ててなぎ倒され、巨大な影が姿を現した!
それは、熊だった。しかし、尋常な熊ではない。体高はウィルの背丈を優に超え、まるで小山のような巨体だ。その毛皮は所々が抜け落ち、黒ずんだ、岩のように硬質化した皮膚が覗いている。両目は赤黒く濁り、狂気に満ちた光を放ち、巨大な口からは絶えず黒い涎と、低い唸り声が漏れていた。そして何より異様なのは、その肩や背中から、まるで黒い結晶のような、あるいは歪んだ骨のような鋭い突起物が何本も突き出していることだった。明らかに、冥王の石の影響で変異し、異常なまでの力と凶暴性を得た魔獣――『ブライテッド・ベア』とでも呼ぶべき存在だ。その体からは、周囲の空気を歪ませるほどの邪悪なオーラが放たれている。
「グルオオオオォォッ!!」
ブライテッド・ベアは、二人を認識すると、耳をつんざくような咆哮を上げ、その巨体に見合わぬ俊敏さで突進してきた! 地面が揺れ、周囲の木々が震える。太い爪が地面を抉り、土くれを跳ね上げる。
「エリス、下がって援護を!」ウィルは叫びながら、エリスを背後の大木の陰へと押しやる。同時に、腰の剣を抜き放った。五百年ぶりに、彼は本気の戦いのために剣を抜いた。鞘から現れた刀身は、森の薄暗がりの中でもなお、月光のような清冽な輝きを放っている。それは彼自身が鍛え上げた、業物中の業物だ。
「はい!」エリスは即座に応じ、大木の陰から弓を構えた。心臓は激しく高鳴っていたが、恐怖よりも、ウィルの隣で戦えるという高揚感が勝っていた。狙うは、突進してくる巨熊の、赤黒く濁った眼!
「フッ!」
短い呼気と共に放たれた矢は、風を切る鋭い音を立てて、正確に熊の顔面へと飛んでいく。しかし、熊はそれを予期していたかのように、巨大な前足で薙ぎ払った。バキン!という硬質な音と共に、矢は硬い毛皮と異常なまでに発達した筋肉に阻まれ、あっけなく弾き飛ばされてしまう。
「硬い…! 矢が通らない!?」エリスは驚愕する。彼女の矢は、先のシャドウ・クロウを一撃で仕留めたほどの威力があるはずだ。だが、この魔獣には通用しない。
その間にも、熊はウィルの目前に迫っていた。巨大な爪を備えた前足が、薙ぎ払うように振り下ろされる! その一撃は、大木すら容易くへし折るであろう威力を持っている。
ウィルは冷静だった。彼は突進の勢いを殺さず、むしろ利用するように身を翻し、熊の側面へと回り込む。彼の動きは、まるで風に舞う木の葉のように滑らかで、常人には目で追うことすら難しい。同時に、左腕の『力の腕輪』に意識を集中させた。
(力を…!)
腕輪の月光石が、今度ははっきりと青白い光を放つ。力が、ウィルの全身に流れ込み、彼の感覚と身体能力を飛躍的に高める。彼は熊の振り下ろされた前足を紙一重でかわすと、その勢いのまま懐に飛び込み、右手の剣を熊の脇腹へと突き立てた!
グギャアアアッ!
熊は激しい苦痛に咆哮し、ウィルを振り払おうと暴れ狂う。だが、ウィルの剣は深く突き刺さったまま抜けず、さらに傷口を抉るように捻り込まれる。
「ウィル!」エリスが援護しようと再び矢をつがえるが、暴れる熊に狙いを定めるのが難しい。下手に射れば、ウィルに当たってしまうかもしれない。
「来るな、エリス! こいつは危険だ!」ウィルは叫ぶ。熊の体からは、黒い瘴気のようなものが勢いよく立ち上り始めていた。石の力が、傷を負ったことでさらに活性化し、暴走しようとしているのだ。
熊は、脇腹に突き刺さったウィルごと、近くの大木に体を叩きつけようとする! その怪力は凄まじく、ウィルほどの達人でもまともに受ければただでは済まないだろう。
(まずい…! いや、これで終わりにするか)
ウィルは咄嗟に剣を引き抜き、後方へ跳躍すると同時に、腕輪の力をさらに引き出した。今度は斥力ではない。凝縮された純粋な力が、彼の右手に集束する。
「…眠れ」
ウィルは短く呟くと、熊の額――先ほどエリスの矢が弾かれた箇所――目掛けて、力の奔流を放った。それは目に見える光線などではない。純粋な力、意志そのもののような衝撃波だ。
ゴッ!という、空気が破裂するような音と共に、力の奔流は熊の額に直撃した。熊の巨体が、まるで巨大なハンマーで殴られたかのように後方へと吹き飛ばされ、数本の大木をなぎ倒しながら地面に叩きつけられた。地響きが起こり、土煙が舞い上がる。
「グル…ォ……」
熊は、もはや咆哮にもならない苦鳴を漏らし、ぴくりとも動かなくなった。赤黒く濁っていた瞳からは完全に光が失われ、体から立ち上っていた黒い瘴気も、霧のように掻き消えていく。その巨体は、まるでただの大きな獣の骸のように、静かに横たわっていた。
あっという間の出来事だった。先ほどまでの激しい戦闘が嘘のように、森には再び静寂が戻ってきた。エリスは弓を構えたまま、何が起こったのか理解できず、ただ呆然とウィルを見つめていた。
「え…? 今のは…一体…? 魔法…じゃないわよね…? あんな力…」
ウィルは腕輪の輝きが完全に消えたことを確認すると、静かに息を吐いた。彼の表情は穏やかだったが、その瞳の奥には、倒れた魔獣への哀れみと、冥王の石への静かな怒りが宿っていた。
「…少し強くやりすぎたかな。だが、仕方ない」
彼はそう言うと、倒れた熊に近づき、その巨大な頭部にそっと手を置いた。
「…すまない。君も、石の力の犠牲者なのだろう。安らかに眠ってくれ」
その姿に、エリスは再び胸を打たれた。彼はただ強いだけではない。圧倒的な力で敵を打ち倒した後でも、相手への敬意と慈しみを忘れない。彼に対する興味と尊敬の念が、そして彼が何者なのかという疑問が、さらに深まっていくのを感じた。
ウィルは手早く熊の素材(汚染されていない爪や牙、そしてわずかに残った正常な毛皮など)を回収すると、再び周囲を警戒しながら言った。
「長居は無用だ。この騒ぎで、他の何かが寄ってくるかもしれない。隠れ家はもうすぐそこだ。行こう」
「は、はい…」
エリスはまだ少し呆然としながらも、力強く頷き、ウィルの後を追った。先ほどの戦闘の疲労は残っていたが、彼の圧倒的な強さを目の当たりにしたことで、不思議と不安は薄れていた。彼がいれば、どんな困難も乗り越えられるのではないか。そんな確信に近い感情が、彼女の中に芽生え始めていた。
やがて、二人の目の前に、少し開けた場所が現れた。そこは、周囲の鬱蒼とした森とは対照的に、柔らかな陽光が降り注ぎ、穏やかな空気に満ちていた。中央には、巨大な古木が天に向かって聳え立ち、その根元に寄り添うようにして、あの質素な小屋が建っていた。
五百年の歳月を経ても、それはウィルが去った時の姿とほとんど変わらず、静かに森の中に佇んでいた。ただ、屋根や壁にはさらに多くの苔や蔓が絡みつき、まるで森そのものに還ろうとしているかのようにも見えた。煙突からは煙は出ておらず、人の気配はない。しかし、ウィルが張った結界のおかげか、建物自体は奇跡的に朽ちることなく形を保っていた。周囲には、ウィルが手入れをしていたであろう小さな畑の跡や、今はもう水が涸れてしまった井戸の跡も見えた。
「ここが…?」エリスは、そのあまりにも簡素な小屋を見て、少し意外そうな顔をした。
「ああ。僕の古い隠れ家だよ」ウィルは、どこか懐かしそうな、そして少しだけ寂しそうな、複雑な表情で、その小屋を見つめていた。
五百年ぶりの帰還。それは、彼にとって新たな旅の始まりであると同時に、忘れていたはずの過去との再会でもあった。この小屋で過ごした鍛冶師としての日々、ここで作り上げたもの、そして、ここから最終戦争へと旅立っていった時の記憶が、彼の胸に静かに蘇ってきていた。彼はゆっくりと小屋の扉に手をかけ、軋む音と共にそれを開いた。