夜明けと森の道
森の夜は、静かに、しかし油断なく更けていった。ウィルは焚き火の傍らで、剣の柄に手を置いたまま、ほとんど眠らずに夜を明かした。時折、燃えさしがパチリと音を立てる以外は、深い静寂が支配している。彼の鋭敏な感覚は、闇の中に潜む複数の不穏な気配を捉え続けていた。それは獲物を求める飢えた獣の気配とも、あるいはもっと知性的な、悪意ある何かの視線ともつかない、不快な感覚だった。幸いにもそれらが直接襲ってくることはなかった。焚き火の光と、ウィル自身が無意識のうちに放つ微かな、しかし侵しがたい力のオーラを警戒したのだろう。あるいは、まだこちらの様子を窺っているだけなのかもしれない。いずれにせよ、油断はできなかった。エルフの長い夜は、時に人間が想像するよりも多くの危険と、深い闇を孕んでいる。五百年の隠遁は、彼の警戒心を鈍らせてはいなかった。
東の空が徐々に白み始め、濃紺の夜空が柔らかな藍色へと変わっていく。夜の闇を支配していた星々が一つ、また一つとその輝きを失い、代わりに朝の女神の訪れを告げる曙光が、地平線の向こうから静かに滲み出してくる。木々の梢の隙間から、朝の最初の光が細い金色の筋となって差し込み、露に濡れた森の床にまだらな模様を描き出した。夜の間に冷え切った空気が、朝露の匂いと土の匂い、そして木々の放つ清浄な香りと混じり合い、ひんやりと肌を刺す。ウィルは立ち上がり、軽く体を伸ばした。関節を鳴らし、凝り固まった筋肉をほぐす。夜通しの警戒で疲労がないわけではないが、彼の肉体は常人とは比較にならない回復力を持っている。五百年の隠遁生活は、彼の戦闘技術を鈍らせたかもしれないが、その生命力そのものを衰えさせることはなかった。彼はまず、完全に燃え尽きた焚き火の跡を丁寧に消し、灰を土に埋め、周囲から集めた石を元あった場所に戻した。野営の痕跡をできるだけ残さないように、細心の注意を払って後始末をする。それは森に対する敬意の表れであり、同時に、追跡者を警戒する、体に染み付いた習性でもあった。かつての戦いの日々が、彼にそれを教え込んだのだ。
「ん…もう、朝…?」
ウィルが用意した枯れ葉の寝床で、エリスが身じろぎし、ゆっくりと目を開けた。長い睫毛が数回震え、碧い瞳がまだ少し眠たげに周囲を見回す。寝癖で少し跳ねた蜂蜜色の金髪が、木漏れ日を浴びてキラキラと輝いていた。王宮での彼女しか知らなかったウィルにとって、その少し無防備な寝起きの姿は新鮮で、思わず見入ってしまいそうになるのをこらえた。彼女の頬には、枯れ葉の跡がうっすらとついており、それが妙に愛らしく見えた。
「ああ、おはよう、エリス。よく眠れたかい?」ウィルは穏やかに声をかける。
「ええ…ありがとう。あなたがずっと見張っていてくれたおかげね」エリスは体を起こしながら、少し恥ずかしそうに微笑んだ。森での初めての夜は不安だったが、彼の存在のおかげで意外なほどぐっすり眠れたのだ。目覚めた時に彼がそばにいてくれたことが、何よりも心強かった。王宮の侍女たちに囲まれて眠るのとは違う、不思議な安堵感があった。「それにしても、地面で寝るなんて初めての経験だったわ…少し体が痛いかも」
彼女はそう言って、小さく肩を回し、首をこきりと鳴らした。その仕草も、普段の気品ある王女の姿とは少し違い、ウィルの目には微笑ましく映った。
「はは、すぐに慣れるさ。最初は誰でもそんなものだよ」ウィルはくすりと笑う。「それより、朝食にしよう。昨日の肉の残りと、君が見つけてくれた木の実がある。腹が減っては戦はできぬ、とも言うしね」
ウィルは手早く朝食の準備を始めた。残しておいたシャドウ・クロウの肉を再び軽く炙り、香ばしい匂いを立たせる。木の実も、彼が知っている薬草の葉で丁寧に拭き、木の葉で作った即席の皿に盛り付けた。エリスも寝床を片付け、近くの小川で冷たい水で顔を洗い、銀の櫛で丁寧に髪を整えて戻ってきた。その顔はすっきりとして、旅への意欲が再びみなぎっているように見えた。森の清浄な空気が彼女に活力を与えているのかもしれない。
二人は焚き火跡のそばに腰を下ろし、簡単な朝食をとった。森の空気はひんやりとして清々しく、鳥たちの様々な種類のさえずりが、まるで朝の訪れを祝う合唱のように周囲を満たしている。木漏れ日が地面で揺れ、穏やかな時間が流れていた。
「昨夜は、本当に何もなかったの?」エリスが、肉をナイフで切り分けながら尋ねた。眠っている間に何かあったのではないかと、やはり少し心配だった。ウィルの纏う空気が、昨夜よりも少しだけ張り詰めているように感じられたからだ。
「ああ、幸いなことにね。いくつかの気配は感じたが、近づいてはこなかった。おそらく、僕らがここにいることに気づいて、警戒したんだろう」ウィルは正直に答えた。「だが、油断はできない。この森には、まだ何か良くないものが潜んでいる気配がある。昼間とは違う顔を、夜の森は持っているからね。特に、今のこの森は」
「そう…」エリスは少し不安そうな顔をしたが、すぐに気を取り直したように言った。「でも、ウィルがいれば大丈夫ね。昨日の戦いを見て、そう思ったわ」
その真っ直ぐな信頼の眼差しに、ウィルは少しだけ戸惑いを覚えた。彼女はまだ、自分の力のほんの一部しか見ていないのだ。そして、その力の代償も、危険性も知らない。彼女の信頼に応えたいと思う反面、彼女をこれ以上危険に巻き込みたくないという気持ちも強かった。
「僕一人でどうにかなるものでもないさ」ウィルは努めて平静を装い、彼女の不安を和らげようとした。「君の弓の腕も頼りにしているよ。昨日の射撃は見事だった」それは本心でもあった。いくら力があっても、一人でできることには限界がある。信頼できる仲間がいることは、何よりも心強い。
「ええ、任せて!」エリスは力強く頷いた。彼の言葉が、彼女の自信を少しだけ取り戻させたようだった。彼に頼りにされている、という事実が、彼女の心を温かくした。
朝食を終え、二人は再び旅支度を整えた。ウィルは昨夜解体したシャドウ・クロウの毛皮を丸めて背負う。これは後で何かの役に立つかもしれない。例えば、防寒具として、あるいは村で物々交換の材料として。肉も、燻製にして保存食にするつもりだ。森での生活の知恵が、彼の行動の端々に現れていた。エリスはそれを興味深く観察し、一つ一つ学んでいく。
「さあ、行こうか。今日はもう少し森の奥へ進む。僕の古い隠れ家が、この先にあるはずなんだ」
「あなたの隠れ家?」エリスは興味深そうに目を輝かせた。「どんな所なの? ずっとそこに住んでいたの?」
「大したものではないよ。ただの古い小屋さ。昔、少し使っていただけだ」ウィルは言葉を濁す。「だが、雨風はしのげるし、簡単な鍛冶設備もあるはずだ。そこで少し装備を整え直せるかもしれない。君の矢も補充できるだろう」
ウィルはそう言うと、再び先頭に立って歩き始めた。エリスもその後ろをしっかりとついていく。
森の中を進むにつれて、周囲の雰囲気はさらに変わっていった。木々はますます巨大になり、樹齢千年を超えるような古木も珍しくない。その幹には奇妙な模様のようなものが浮かび上がっているものもある。それは自然の造形か、あるいは古代のルーン文字の痕跡か。下草は人の背丈ほどにも伸び、道なき道を進むような場面も増えてきた。ウィルは鉈で草を払いながら進み、エリスはその後に続く。彼女の額には汗が滲み、息も少し上がっているが、弱音は吐かなかった。王宮育ちとは思えぬほどの粘り強さを見せる。ウィルは時折、彼女の様子を気遣うように振り返ったが、彼女はいつも大丈夫だと笑顔で応えた。
時折、ウィルは立ち止まり、地面や木々の様子を注意深く観察する。動物の足跡、折れた枝、苔の生え方、風の流れ。森が発する微かなサインを読み解こうとしているかのようだ。
「これは…」ウィルはある木の根元を指さした。「見てごらん、エリス。この粘菌のようなもの。黒くて、嫌な臭いがするだろう? これは明らかに自然のものじゃない。冥王の石の影響が、ここまで及んでいる証拠だ」
エリスは顔をしかめてそれを見た。確かに、黒いタールのような粘液状のものが木の根元にまとわりつき、周囲の草を枯らしていた。それはまるで、大地そのものが流す血のようにも見えた。微かに、腐敗臭のような、生命を拒絶するような不快な臭いが漂ってくる。
「こんなものが…森を蝕んでいるのね…」彼女の声は震えていた。
「ああ。そして、これに触れた生き物は、おそらく正気を失うか、病に侵されるだろう。注意が必要だ。不用意に触れないように」ウィルは警告する。「この汚染は、見た目以上に深刻かもしれない」
ウィルはさらに進みながら、森の動物たちの痕跡にも気を配っていた。鹿や猪のような大型動物の足跡が、以前に比べて極端に少ない。代わりに、シャドウ・クロウのような、明らかに異常な魔物の痕跡が増えている。森の生態系そのものが、静かに、しかし確実に歪み始めているのだ。鳥の声も、以前より少ない気がする。
「精霊たちの気配も、ほとんど感じられない…」ウィルは眉をひそめて呟いた。「彼らは森の異変を敏感に感じ取り、姿を隠してしまったのかもしれないね。あるいは、石の力に…」そこまで言って、彼は口をつぐんだ。エリスをこれ以上不安にさせる必要はない。
エリスは、ウィルの言葉に静かに耳を傾けていた。書物で読んだ知識とは違う、生々しい世界の現実。そして、それを冷静に分析し、対処しようとするウィルの姿。彼女は、自分がこれまでいかに狭い世界で生きてきたかを痛感すると同時に、この旅に参加できたことへの意義を改めて感じていた。同時に、ウィルの知識の深さ、経験の豊富さに驚きを隠せない。彼は本当にただの鍛冶師なのだろうか? その疑問は、確信へと変わりつつあった。
昼近くになり、二人は少し開けた場所に出た。そこは、まるで意図的に切り開かれたかのように、円形の空間になっており、中央には古びた石造りの祭壇のようなものが鎮座していた。苔むし、蔓に覆われているが、その形状からは、かつては精霊か、あるいは森の古き神々を祀っていた場所であることがうかがえる。祭壇の表面には、風化して判読困難だが、何らかの古代文字が刻まれているようだった。周囲の木々も、この場所だけを避けるように、敬意を払うかのように生えているのが不思議だった。
「ここで少し休もうか」ウィルが提案し、二人は祭壇のそばに腰を下ろした。不思議と、この場所だけは森の淀んだ空気が薄く、清浄な空気が漂っているように感じられた。微かに、心地よい風が吹き抜けていく。
エリスは革袋からレンバスを取り出し、ウィルに差し出した。「これをどうぞ。少しですが」
「ありがとう」ウィルはそれを受け取り、一口かじった。エルフが作る特別な携帯食だ。少量でも高い栄養価があり、長旅には欠かせない。ほのかな甘みと滋味が口の中に広がる。
「ウィルは、本当に色々なことを知っているのね」エリスは感心したように言った。「森のこと、魔物のこと、それに歴史のことも…。ただの鍛冶師とは思えないわ。あなたは一体…?」
今度こそ、彼女は少し踏み込んで尋ねてみた。彼の正体を知りたいという気持ちが抑えきれなくなっていた。昨夜からずっと考えていた疑問だ。
ウィルは、彼女の真っ直ぐな視線を受け止め、しばし黙考した。彼女の瞳は、単なる好奇心だけではなく、真実を知りたいという強い意志を宿している。いつまでもはぐらかし続けることはできないだろう。だが、今、ここで全てを話すべきなのか?
彼はゆっくりと口を開いた。
「…長いこと生きていると、色々と見聞きするものだよ、エリス。それに、僕はただの鍛冶師というわけでもないのかもしれないね」彼は少しだけ微笑んでみせた。その笑みは、どこか寂しげでもあった。「今はまだ、詳しく話すことはできないけれど。…時が来れば、必ず話すよ」
その答えは、やはりはぐらかしているようにも聞こえたが、同時に、何か大きな秘密を抱えていることを暗に認め、「時が来れば話す」という約束をしてくれた。エリスは、それ以上追及することはしなかった。彼の言葉を信じることにしたのだ。だが、彼女の碧い瞳は、強い好奇心と、そして隠しきれない尊敬の念を込めて、ウィルを見つめていた。その視線に気づきながらも、ウィルは黙ってレンバスを口に運び、遠くの空を見上げた。
この先に何が待ち受けているのか。失われた腕輪は見つかるのか。そして、隣にいるこの若く美しいエルフを、無事に守り通すことができるのか。ウィルの心には、重い責任感と、そしてほんの少しの、新たな旅への期待感が入り混じっていた。五百年ぶりの旅は、予想以上に波乱に満ちたものになりそうだ。そして、このエリスという存在が、彼の凍てついていた心に、何か変化をもたらし始めているのかもしれない、と彼は漠然と感じていた。