森での最初の夜
シャドウ・クロウの襲撃を退けた後、ウィルとエリスは足早にその場を離れた。むせ返るような血の匂いが鼻をつき、さらなる厄介事を引き寄せかねないからだ。ウィルは先頭を歩きながらも、常に周囲への警戒を怠らない。彼の五感は鋭敏に働き、風の音、枝の擦れる音、遠くの獣の声、その全てに注意を払っていた。エリスは緊張した面持ちで、しかし必死に彼の背中を追った。先ほどの戦闘の衝撃と興奮、そしてウィルが見せた不可解な力――剣も抜かずに、まるで意思を持つ風のように狼を弾き飛ばしたあの現象――が、彼女の心を強くざわつかせていた。彼は一体何者なのか? あの腕輪は何なのか? 疑問が次々と湧き上がり、頭から離れない。
陽が西の空を茜色に染め上げ、森の木々の影が長く長く伸び始める。深い森の中では昼間でも薄暗い場所が多いが、夕暮れが近づくにつれて、闇は急速にその支配を強めていく。梢を渡る風の音も、昼間とはどこか違う、物悲しい響きを帯びているように感じられた。昼間の鳥たちのさえずりは完全に消え、代わりに夜行性の生き物の気配が濃くなってくる。
「そろそろ野営の準備をしないとね」ウィルは足を止め、辺りを見回した。彼の緑の瞳は、慣れた様子で地形や周囲の植生、風向きなどを素早く観察している。「この辺りが良さそうだ。少し開けているし、近くに水場もある。それに、この窪地なら風も直接当たりにくいだろう」
そこは、数本の苔むした巨大な古木に囲まれた、比較的平らな小さな円形の空き地だった。地面には何百年も積もったであろう枯れ葉が厚く積もり、ふかふかとした絨毯のようになっている。近くには先ほど渡ったような清らかな小川が流れており、せせらぎの音が心地よく耳に届く。ウィルは手早く周囲の痕跡を探り、大型の肉食獣や他の危険な魔物の気配がないことを確認すると、ようやく背負っていた荷物を静かに下ろした。
「エリス、まずは火を起こすための薪を集めてくれるかい? なるべく乾いた細い枝を頼む。それから、火持ちを良くするために、もう少し太い枝もいくつか。それから、この辺りに食べられそうな木の実か茸がないか見てきてくれると助かる。ただし、見慣れないものには絶対に手を出すなよ。この森には美しいが猛毒を持つ植物も多いからね」ウィルは手際よく指示を出す。その口調は穏やかだが、有無を言わせぬ響きがあった。
「わ、わかったわ!」エリスは少し戸惑いながらも、すぐに頷いた。薪集めや食料の採取など、もちろん初めての経験だ。王宮では、望めばどんな料理も果物もすぐに侍従たちが用意してくれた。それでも、彼女はウィルの役に立ちたい一心で、言われた通りに乾いた枝を探し始めた。森の中はすでに薄暗く、足元もおぼつかない。木の根や石につまずきそうになりながらも、彼女は必死に目を凝らし、手探りで薪を集めていく。湿った土の匂い、腐葉土の匂い、そして時折鼻をかすめる甘い花の香り。そのどれもが、彼女にとっては新鮮だった。時折、物陰からガサリと音がして心臓が跳ねたが、それはただの小動物だったり、風の悪戯だったりした。それでも、一人で森の中にいるという事実に、わずかな恐怖と、それ以上の興奮を感じていた。
ウィルはその間に、慣れた手つきで野営の準備を進める。まず、焚き火をする場所を決め、周囲の枯れ葉を丁寧に取り除き、地面を少しだけ掘り下げて石で囲む。次に、寝床となる場所を二箇所、エリスと自分の分を少し離して確保し、地面の小石や木の根を丁寧に取り除いて平らにならす。そこに、さらに多くの枯れ葉を厚く敷き詰め、即席の寝床を作り上げた。革袋から年季の入った小さな鍋と携帯用の木製の食器を取り出し、小川で綺麗な水を汲んでくる。戻ると、エリスが集めてきた大小様々な薪を巧みに組み上げ、風上を考慮して配置する。そして、懐から取り出した火打石と火口を使って火を熾した。カチ、カチ、という硬質な音が数回響いた後、小さな火花が散り、乾燥した火口に移って赤い点となり、ゆっくりと燻り始める。ウィルがそれにそっと息を吹きかけると、細い煙が立ち上り、やがて小さな炎が生まれた。彼はその炎を大切に育て、細い枝から太い枝へと燃え移らせていく。パチパチと心地よい音を立てて燃え上がる炎が、急速に濃くなる森の闇を払い、暖かなオレンジ色の光で二人だけの小さな空間を照らし出した。炎の揺らめきが、周囲の木々の幹や葉に、まるで生きているかのように踊るような影を作り出した。
「すごい…ウィルは何でもできるのね」薪と、いくつか見慣れた木の実――森苺のような赤い実――を両手に抱えて戻ってきたエリスは、焚き火の暖かさにほっと息をつきながら、感嘆の声を上げた。火を熾すという原始的な行為が、これほど頼もしく、そして美しく見えるとは思わなかった。彼の無駄のない動き、自然に対する深い知識。そのどれもが、彼女が知っている「鍛冶師ウィル」のイメージとはかけ離れていた。
「森で長く暮らしていれば、これくらいは誰でもできるようになるさ」ウィルはこともなげに答えるが、その横顔は炎に照らされて、どこか誇らしげにも見えた。「その木の実は食べられるものだね。よく見つけた。ありがとう、助かるよ」
彼はエリスから木の実を受け取ると、懐から小さな布袋を取り出し、その実を丁寧に拭いてからエリスにいくつか手渡した。「少し酸っぱいが、疲れている時にはいいだろう。毒見は僕がしておいたから、安心していい」
「ありがとう」エリスは礼を言い、勧められるままに実を口にした。甘酸っぱい味が口の中に広がり、疲れが少し和らぐ気がした。彼が毒見をしてくれたという事実に、彼のさりげない優しさを感じて、胸が少し温かくなる。
ウィルは次に、先ほど解体したシャドウ・クロウの肉の一部を、拾ってきた丈夫な枝に手際よく刺していく。その手つきは、まるで熟練した料理人のようだ。そして、焚き火の上に渡し、ゆっくりと回しながら炙り始めた。じゅう、という音と共に、肉の焼ける香ばしい匂いが漂い始める。空腹を刺激する、原始的で力強い香りだ。エリスは、その匂いにお腹がぐう、と鳴るのを感じて、思わず顔を赤らめた。ウィルはそれに気づかないふりをして、黙々と肉を焼き続ける。時折、串の角度を変え、火の通り具合を確かめている。
やがて肉が程よく焼き上がり、表面には美味しそうな焦げ目がついた。ウィルは串から肉を外し、近くにあった大きな木の葉を即席の皿代わりにして、それをエリスに差し出した。
「どうぞ。熱いから気をつけて」
「ありがとう…いただきます」エリスは恐る恐る肉の塊を受け取り、腰の短剣で小さく切り分けて口に運んだ。少し硬いが、野性味あふれるしっかりとした歯ごたえがある。噛むほどに肉本来の旨味がじわりと滲み出てきて、ウィルが軽く振りかけた岩塩だけのシンプルな味付けが、むしろその味を引き立てていた。昼間の戦闘の緊張と、慣れない森歩きで空腹だったこともあり、とても美味しく感じられた。王宮で食べるどんな繊細で豪華なご馳走よりも、今はこの無骨な肉の方が、ずっと心が満たされるような気がした。ウィルも隣で黙々と自分の分の肉を食べている。その食べ方もまた、どこか洗練されているようにエリスには見えた。
食事を終えると、焚き火の炎がパチパチと音を立てて燃え、周囲の闇を暖かく照らしている。満腹感と共に、心地よい疲労感が二人を包む。森の夜は、都の夜とは全く違う静けさと音に満ちていた。名前も知らない虫の声が、まるで子守唄のように響いている。風が木々の葉を揺らす音は、時に優しく囁くように、時に何者かが忍び寄る足音のように聞こえる。遠くで聞こえる梟のような鳥の鳴き声が、夜の深さを際立たせていた。そして、それら全てを包み込むような、深く濃い闇と静寂。エリスは少しだけ不安を感じていたが、隣で静かに焚き火を見つめるウィルの存在が、不思議と彼女を落ち着かせた。彼の纏う静かで穏やかな空気は、森の闇の中でも変わらない。まるで、彼自身がこの森の一部であるかのように。
「ウィル…」エリスがおずおずと口を開いた。「昼間の…あの狼たちは、一体…? やはり、普通の狼ではなかったのでしょう?」あの赤黒い瞳と、異常なまでの凶暴性が忘れられない。
「ああ。シャドウ・クロウ…冥王の石の影響で歪められた存在だ。本来の理性は失われ、ただ飢えと憎悪に突き動かされている」ウィルは静かに答えた。その声には、狼たちへの哀れみと、そしてその元凶である冥王の石への抑えた怒りのような響きがあった。「石の影響は、僕らが考えているよりも広範囲に、そして深く浸透しているのかもしれないね」
「そんな…」エリスは息を呑んだ。「では、これから先も、あのような魔物に…?」
「おそらくね。この森を抜けても、荒廃した平原に近づけば、もっと厄介なものが出てくる可能性が高いだろう。あるいは、魔物だけではないかもしれない。石の力に魅入られた人間や、他の種族もいるかもしれないからね」ウィルの声には、厳しい響きがあった。「だから言っただろう? 危険な旅になると」
エリスは黙って頷いた。自分の覚悟が試されているのを感じる。王宮での生活がいかに守られていたかを痛感した。同時に、ウィルがこれから挑む旅の過酷さを改めて認識し、彼への心配が募る。
「でも…ウィルが一緒にいてくれれば、きっと大丈夫よ」彼女は、自分に言い聞かせるように、しかし確かな信頼を込めて言った。今日の出来事で、彼への信頼はさらに深まっていた。「昼間だって、あなたは…その、不思議な力で私たちを守ってくれた。あれは、一体…?」
「あれは…腕輪の力だよ。僕自身の力というわけじゃない」ウィルは、焚き火の炎を見つめたまま、静かに言った。それは嘘ではなかったが、全てを語っているわけでもなかった。腕輪は彼の力を増幅するが、その力を引き出し、制御しているのは紛れもなく彼自身なのだ。それに、腕輪なしでも彼がただのエルフでないことは、いずれ分かるだろう。
「腕輪…」エリスはウィルの左腕にはめられた白銀の腕輪に視線を落とす。それは焚き火の光を受けて、神秘的な輝きを放っていた。「やはり、ただの装飾品ではないのね。一体、どんな…?」
「今はまだ、話す時ではないよ」ウィルはエリスの言葉を遮るように、しかし穏やかに言った。「いずれ、君が知るべき時が来たら話そう。それよりも、今夜はもう休んだ方がいい。明日は早く出発する。少しでも体力を回復しておかないとね」
ウィルはそう言うと、焚き火に太めの薪を数本くべ、火の番をするようにその場に座り直した。エリスは、彼の言葉に少し不満を感じながらも、彼の言う通りだと納得するしかなかった。彼には何か大きな秘密がある。そして、それを自分に話せない理由があるのだろう。今はただ、彼を信じてついていくしかない。彼がそう言うのなら、きっとその方が良いのだろう。それに、彼が「いずれ話す」と言ってくれたことが、少し嬉しかった。
彼女はウィルが用意してくれた寝床――枯れ葉を厚く敷き詰め、予備のマントを掛けただけの簡素なもの――に横になった。森の冷たい空気が肌を刺すが、焚き火の暖かさが心地よい。硬い地面の感触も、慣れない虫の声も、今は不思議と気にならなかった。隣では、ウィルが静かに座り、剣の柄に手を置き、森の闇を見つめている。その横顔は、昼間見た穏やかな鍛冶師の顔とも、先ほど戦闘で見せた鋭い戦士の顔とも違う、何か別の、深い孤独と哀しみを湛えているように見えた。彼は一体、どれほどの時を、何を背負って生きてきたのだろうか。
(ウィル…あなたは、一体どんな時を生きてきたの…?)
エリスは、彼への尽きない興味と、そして言いようのない切なさを感じながら、旅の疲れもあって、いつしか深い眠りに落ちていった。
ウィルは、エリスが規則正しい寝息を立て始めたのを確認すると、静かに立ち上がり、焚き火から少し離れた場所で周囲の気配を探った。森の闇は深く、濃い。月明かりも星明かりも、厚い木の葉に遮られてほとんど届かない。耳を澄ますと、様々な音が聞こえる。風の音、虫の声、遠くの獣の声…。だが、それらに混じって、明らかに不自然な気配も感じ取れた。
彼の研ぎ澄まされた感覚は、闇の中に潜む複数の気配を捉えていた。それはシャドウ・クロウのような単純な魔物ではない。もっと陰湿で、知性を持った何かの気配。息を殺し、こちらの様子を窺っている。距離はまだあるが、確実にこちらに向かってきているようだ。おそらく、冥王の石の影響を受けた、より危険な存在だろう。あるいは、石の力を利用しようとする、悪意ある者たちか。
(…もう追手が? いや、まだ僕らの動きは掴まれていないはずだ。フィンロドも、僕の出発は極秘にしたと言っていた。となると、この森自体が、思った以上に汚染されているということか…? それとも、偶然か…いずれにせよ、厄介だな)
ウィルは左腕の腕輪にそっと触れる。まだその力の全てを解放するわけにはいかない。力の制御は繊細さを要するし、何より、この腕輪の力を無闇に使うことは、更なる厄介事を引き寄せる可能性もあった。冥王の石を持つであろう敵に、こちらの切り札を早々に見せるのは得策ではない。しかし、隣で無防備に眠るエリスを守るためには、躊躇している場合でもなかった。
(彼女を連れてきたのは、間違いだっただろうか…)
一瞬、後悔に近い念が心をよぎる。彼女のあの真剣な瞳に絆されてしまった自分を、少しだけ呪う。だが、すぐに打ち消した。彼女は自分の意志で来たのだ。そして、自分は彼女の覚悟を受け入れた。ならば、守り抜くしかない。それが、今の自分にできる唯一のことだ。
彼は焚き火のそばに戻り、エリスの寝顔を一瞥した。あどけなさの残る、穏やかな寝顔。王宮育ちの彼女にとって、この旅はあまりにも過酷だろう。それでも彼女は、自分の意志でここにいる。その事実に、ウィルは複雑な思いを抱きながらも、わずかな温かさを感じていた。彼は静かに剣の柄に手を置き、再び森の闇へと意識を集中させた。
長い夜になりそうだ、と彼は思った。五百年ぶりの旅の初夜は、決して穏やかなものではなかった。闇の中で、何かが蠢いている。ウィルは、ただ静かに、その気配を探り続けていた。炎の揺らめきだけが、彼の孤独な見張りに寄り添っていた。