ささやきの森へ
リンドリア東門をくぐり抜けた二人は、しばらく無言で石畳の道を歩いていた。背後には壮麗なエルフの都。前方には、鬱蒼とした大森林――ささやきの森へと続く道が伸びている。五百年ぶりの本格的な旅の始まりに、ウィルは気を引き締めつつも、隣を歩く存在にどこか落ち着かないものを感じていた。まさか、エルフの姫君と二人旅になるとは、夢にも思わなかった。一方のエリスは、初めて自分の意志で踏み出した外の世界に、緊張と期待で胸を高鳴らせていた。見るものすべてが新鮮で、彼女の碧い瞳は好奇心に満ちて輝いていた。
「すごい…本当に都の外に出てしまったのね」
しばらくして、エリスが感嘆の声を上げた。道端に咲く名も知らぬ野花、遠くに見えるなだらかな丘陵、そして頭上をどこまでも広がる青い空。王宮の窓から見る景色とは、何もかもが違って見えた。風が運んでくる土と草の匂いも、彼女にとっては初めての体験だった。
「ああ。ここからは、君が知っているリンドリアとは違う世界だ。危険も多い」ウィルは淡々と答えるが、その声には僅かながら気遣いが含まれていた。「疲れたらすぐに言うんだぞ。無理は禁物だ」
「大丈夫よ、ウィル。これだけは自信があるの」エリスは少し得意げに胸を張る。その仕草に、ウィルは思わず微かに笑みを漏らした。王女とはいえ、まだ若いエルフだ。その無邪気さが、少しだけ彼の心を和ませた。同時に、この純粋な輝きを守らねばならない、という責任感も強く感じていた。
道は次第に石畳から土へと変わり、周囲の景色も人の手が加えられた庭園のような美しさから、より自然のままの、荒々しい森の様相を呈し始めていた。木々はより高く、太く、下草は深く茂り、時折、森の奥から獣の声が聞こえてくる。空気も、都の中とは違い、土と草いきれの匂いが濃く混じり合っていた。それは生命力に満ちた匂いであると同時に、どこか油断ならぬ野性の気配も感じさせた。
「ここが…ささやきの森の入り口なのね」エリスは少しだけ不安そうな表情で、鬱蒼とした森を見上げた。昼間だというのに、森の奥は薄暗く、木々の影が濃い。「父からは、あまり近づかないようにと言われていたけれど…こんなに深い森だとは思わなかった」
「ああ。この森はリンドリアの中心部とは少し違う。古い森だ。精霊たちの力も強いが、同時に、古くからの良くないものも眠っていると言われている」ウィルは森の奥を見つめながら言った。彼の緑の瞳が、一瞬鋭い光を宿す。「そして、今は…冥王の石の影響も無視できないだろう。森のバランスが崩れ始めている気配がある」
「冥王の石…」エリスの表情が曇る。「ウィルは、その石について何か知っているの? 父上はあまり詳しく教えてくださらなかったけれど…」
「昔の話さ…」ウィルは曖昧に答える。「だが、今の状況については、僕も君と同じくらいしか知らない。これから、それを探る旅になる。だからこそ、常に警戒を怠らないことだ」
彼はエリスに全てを話すつもりはなかった。少なくとも、今はまだ。彼女が知るべき時が来れば、その時に話せばいい。今はただ、彼女の安全を守り、共に世界の腕輪を探すことに集中すべきだ。余計な情報を与えて、彼女を不安にさせたくもなかった。
二人は森の中へと続く小道を進んでいく。ウィルは先頭に立ち、周囲への警戒を怠らない。彼の五感は、五百年の隠遁生活を経ても少しも衰えておらず、常人には感知できないような微かな音や気配――枝の揺れる音、獣の息遣い、風に乗ってくる微かな臭い――をも捉えていた。エリスはそのウィルの背中を追いながら、彼の持つ不思議な能力に改めて感心していた。彼はただの鍛冶師ではない。それは確かだ。では、一体何者なのだろう? その疑問は、彼女の心の中で少しずつ大きくなっていたが、同時に、彼の隣を歩いているという事実に、不思議な安心感も覚えていた。彼が時折見せる、森の知識や自然への深い理解も、彼女にとっては新鮮な驚きだった。
しばらく歩くと、小川が道を横切っていた。丸木橋がかかっているが、苔むし、一部が朽ちかけているようだ。流れは緩やかだが、水は少し濁っているように見える。
「気をつけて渡るんだ」ウィルが先に渡りながら、エリスに声をかける。彼はこともなげに渡っていくが、エリスには少し難しそうに見えた。
「はい」エリスは慎重に丸木橋に足を乗せた。思ったよりも滑りやすく、足元がおぼつかない。バランスを取りながらゆっくりと進む。ウィルは対岸で、黙って彼女を見守っていた。その視線は、心配しているようでもあり、彼女の力量を値踏みしているようでもあった。
無事に渡り終えると、エリスはほっと息をついた。「ありがとう、ウィル」
「いや。これくらいのことは、これから何度も経験することになるだろう」ウィルはこともなげに言う。「疲れただろう。少し休憩しようか」
二人は小川のほとりの開けた場所に腰を下ろした。さらさらと流れる水の音が心地よい。ウィルは水筒を取り出し、エリスに差し出す。
エリスはそれを受け取り、一口飲んだ。森の湧き水だろうか、冷たくてとても美味しい。乾いた喉に染み渡るようだ。
「ウィルは、ずっとささやきの森に?」休憩しながら、エリスは尋ねた。彼の過去について、少しでも知りたかった。彼の纏う雰囲気は、明らかにただの森の隠遁者のものではない。
「ああ、長いことね」
「どうして…その、リンドリアの都ではなく? あなたほどの腕があれば、王宮でも…」
「静かな方が、性に合っているんだよ」ウィルは短く答える。「それに、鍛冶の仕事をするには森の中の方が都合がいいこともある。良い鉱石や木材も手に入りやすいしね」
彼はそれ以上語ろうとはしなかった。エリスは、彼が何かを隠していること、そして、それを話したがっていないことを感じ取った。彼女は少し残念に思ったが、無理に聞くことではないと判断し、代わりに弓を取り出し、弦の張り具合を確かめ始めた。弓は彼女にとって、最も信頼できる相棒だった。手入れを怠ることはない。
「へえ、すごいね。いい弓だ」ウィルが、彼女の丁寧な手つきを見ながら言った。弓の扱い方を見れば、その者の技量はおおよそわかる。彼女のそれは、付け焼き刃のものではなかった。
「ええ、これだけは自信があるの。父上には、もっと淑女らしくしろと何度も言われたけれど」エリスは少し得意げに微笑む。ウィルに褒められたことが、素直に嬉しかった。
「いや、良いことだ。この旅では、その腕が役に立つ場面もあるだろう」ウィルは素直に評価した。「ただし、無闇に射るんじゃないぞ。森の生き物は、必ずしも敵とは限らない。見極めが肝心だ」
「わかっています」エリスは頷いた。彼の言葉には、経験に裏打ちされた重みがあった。そして、森の生き物への敬意のようなものも感じられた。
そんな会話を交わしながら、二人はしばしの休息を取った。エリスはウィルのぶっきらぼうだが根は優しいところに、ウィルはエリスの素直さと芯の強さ、そして予想以上の適応力に、それぞれ新たな一面を発見し、少しずつ仲間としての距離を縮めていた。
休憩を終え、再び歩き出す。森はさらに深くなり、陽の光も木々の葉に遮られて届きにくくなってきた。空気もひんやりとして、どこか湿り気を帯びている。ウィルは時折立ち止まり、地面に残された新しい足跡や、木の幹につけられた鋭い爪痕などを注意深く観察している。その表情は真剣そのものだ。
「何かあったの?」エリスが不安げに尋ねる。
「いや…少し気になる痕跡があっただけだ」ウィルは多くを語らない。「だが、警戒はしておこう。常に周囲に気を配り、いつでも弓を射れるようにしておけ」
「はい…」エリスは頷き、弓を握る手に力を込めた。ウィルの言葉に、ただならぬ気配を感じ取っていた。森の静寂が、先ほどまでとは違う、不気味なものに感じられる。耳を澄ますと、遠くで低い唸り声のようなものが聞こえる気もした。
彼の言葉通り、しばらく進むと、前方の茂みがガサリと大きく揺れた。低い、喉の奥から絞り出すような唸り声が、今度ははっきりと聞こえる。そして、茂みの中から数匹の黒い影が、涎を垂らしながら飛び出してきた。
それは、狼だった。しかし、普通の狼ではない。体躯は通常の狼より一回り大きく、その毛皮は闇のように黒く、不自然な艶を放っている。そして何より異様なのは、その両目だった。赤黒く濁り、飢えと憎悪に満ちた光を爛々と輝かせている。鋭い牙が剥き出しになり、喉からは絶えず低い唸り声が漏れていた。シャドウ・クロウ――冥王の石の影響で凶暴化し、邪悪な力を帯びた狼だ。彼らは明らかに敵意を剥き出しにして、二人を半円状に取り囲むようにじりじりと距離を詰めてくる。その数、五匹。統率が取れているわけではないが、その飢えた凶暴性は、通常の狼の比ではなかった。
「エリス、下がって!」
ウィルは瞬時にエリスを背後にかばい、腰の剣に手をかけた。だが、彼が剣を抜くよりも早く、エリスが反応していた。彼女は恐怖に竦むことなく、素早く弓を構え、矢をつがえる。その動きには一切の無駄がない。王宮での鍛錬の成果が、実戦という場で試される時が来たのだ。
「フッ!」
短い呼気と共に放たれた矢は、風を切る鋭い音を立てて、最も近くにいたシャドウ・クロウの眉間に正確に突き刺さった。ギャイン!という短い悲鳴を上げ、狼はその場に崩れ落ち、痙攣して動かなくなった。一撃必殺。見事な腕前だった。
「やるじゃないか」ウィルは感心したように呟く。王宮育ちの姫君とは思えぬ、見事な腕前と度胸だ。
しかし、仲間が倒されたことで、残りの四匹はさらに凶暴性を増した。血走った目で二人を睨みつけ、唸り声を上げ、一斉に飛びかかってくる!
「ウィル!」
エリスは叫びながら、素早く次の矢をつがえ、別の狼の肩口を射抜いた。矢は深く突き刺さり、狼は苦痛に吠えたが、それでも勢いを失わずに突進してくる。同時に、左右からも別の狼が低い姿勢で迫る!鋭い爪が土を蹴り、牙が剥き出しになる。
ウィルはその全てを冷静に捉えていた。彼はまだ剣を抜かない。代わりに、左腕の『力の腕輪』に意識を集中させた。腕輪が微かに熱を帯びるのを感じる。
(…石の影響で歪んでしまったのか。哀れだが…無闇に傷つけたくはないな。)
心の中で腕輪に語りかけるように念じると、腕輪の中央にある月光石が一瞬、微かに青白い光を放った。
次の瞬間、ウィルは常人には捉えきれないほどの速度で動いた。迫りくる二匹の狼のちょうど真ん中に滑り込むように移動し、両腕を左右に軽く突き出す。特別な技を使ったわけではない。ただ、腕輪から流れ込む微かな力が、彼の身体能力を一時的に強化し、彼の周囲に目に見えない斥力のような場を作り出したのだ。それは、力の流れを微妙に制御する、彼独自の技術だった。
ドンッ!という鈍い音と共に、左右から飛びかかってきたシャドウ・クロウたちが、まるで見えない壁に激突したかのように弾き飛ばされ、地面を転がった。打ち付けられた衝撃に混乱し、狼たちはキャンキャンと情けない声を上げる。
肩を射抜かれた狼も、ウィルの前に迫ったところで同じように見えない力に阻まれ、動きを止めた。その隙に、ウィルはその狼の首筋に素早く手刀を打ち込み、的確に急所を突いて昏倒させる。一切の無駄のない動きだった。
残る一匹は、仲間たちの異様なやられ方を見て完全に戦意を喪失したようだった。ウィルが鋭い視線を向けると、尻尾を巻いて悲鳴のような遠吠えを残し、森の奥へと逃げていった。弾き飛ばされた二匹も、慌ててその後を追う。
あっという間の出来事だった。エリスは弓を構えたまま、何が起こったのか理解できず、ただ呆然とウィルを見つめていた。
「え…? 今のは…一体…? 魔法…?」
ウィルは腕輪の輝きが完全に消えたことを確認すると、こともなげに言った。
「…少し脅かしただけだ。深追いする必要はないだろう」
「すまない」彼はそう言うと、エリスが最初に射止めた狼と、自分が昏倒させた狼に近づき、慣れた手つきで手早く解体し始めた。毛皮は剥ぎ、肉は食用になる部分だけを選り分けて革袋に詰める。その手際の良さは、まるで熟練した猟師のようだった。血の匂いが辺りに漂い始める。
エリスは、ウィルのその冷静さと手際の良さ、そして先ほどの不可解な現象に、ただただ驚くばかりだった。彼が腕輪の力を使ったのは明らかだが、それは一体どんな力なのか。剣も抜かずに、触れることすらなく狼を弾き飛ばすなど、聞いたこともない。そして、彼はなぜこれほどの力を持っているのか。やはり、彼はただの鍛冶師ではない。その確信が、エリスの中でさらに強まった。彼に対する興味と、そして少しの畏敬の念が、彼女の心に芽生え始めていた。
「ウィル…あなたは、一体…」
問いかけようとしたエリスの言葉を遮るように、ウィルは立ち上がり、辺りを見回しながら言った。
「血の匂いを嗅ぎつけて、他の厄介なものが寄ってくるかもしれない。日が暮れる前に、もう少し進んでおきたい。行こう、エリス」
そう言って歩き出すウィルの背中を、エリスは複雑な思いで見つめながら、黙って後を追うしかなかった。彼への信頼と尊敬、そして深まる謎。二人の旅は、まだ始まったばかりだった。