姫の同行
ウィルと別れた後、エリスは自室へと続く長い回廊を、どこか夢見心地のような、それでいて落ち着かない気持ちで歩いていた。先ほどのウィルとの短い会話が、彼女の心の中で何度も反芻される。彼の穏やかながらも、どこか遠くを見ているような緑の瞳。旅支度。そして、父王フィンロドが彼を直々に呼び出したという事実。
(ウィル…やはり、何かただならぬ様子だったわ。あの旅支度、そして瞳の奥の深い決意の色…父上が彼を直々に呼び出されたというのも気になる。一体、何を託されたというの…?)
自室に戻ったエリスは、侍女を下がらせると、重い扉を静かに閉めた。途端に、豪華だが息の詰まるような静寂が彼女を包む。窓の外には手入れの行き届いた美しい庭園が広がっているが、今の彼女には、それがまるで精巧な鳥籠のようにしか見えなかった。壁には美しい織物が掛けられ、棚には貴重な書物が並び、調度品はどれも一級の品だ。だが、それらは今のエリスにとって、何の慰めにもならなかった。
(最近の父上のご様子…森の異変、原因不明の病…何か、とても良くないことが起ころうとしているのは確かだわ)
彼女は部屋の中央にある大きな書見台に向かった。そこには、彼女が読みかけていた古い歴史書が開かれている。第二紀の終焉、冥王マルゴスとの最終戦争について記されたページだ。彼女は指でその文字をなぞる。
(二つの腕輪…『力』と『世界』。それを用いて冥王を打ち倒したという伝説…)
先ほど会ったウィル。彼が身に着けていた腕輪。父が口にした『世界の腕輪』という言葉。そして、父がウィルに託したであろう重大な使命。断片的な情報が、彼女の中で繋がりそうで繋がらない、もどかしい感覚を生んでいた。
(父上があれほどまでに思い詰め、そしてウィルのあの真剣な眼差し…彼が関わることになったのは、まさか、この伝説に匹敵するような、大変な事態なのでは…?)
思考がそこまで至った時、エリスの背筋を冷たいものが走った。もしそうなら、ウィルはこれから計り知れない危険に身を投じることになる。彼が無事に戻ってこられる保証はどこにもない。
(もし本当に世界が再び危機に瀕しているのなら、私にできることは何?)
自問自答する。王女として、父を支え、民を励ますこと? それも重要だ。だが、それだけでいいのだろうか。書庫に籠もり、遠い世界の出来事を案じ、ただ祈るだけで。
(母のように、ただ美しい鳥籠の中で、外の世界で何が起ころうと知らぬまま、安全な場所から祈るだけで、人生を終えるのは嫌…!)
長年燻っていた想いが、明確な形を取り始める。外の世界へ出たい。自分の目で真実を確かめたい。自分の力で何かを成し遂げたい。王女としての責務を、自ら果たしたい。
(ウィルと一緒に行けば…彼が誰であれ、父上が信頼し、重大な使命を託すほどの人物なら、きっと私を守ってくれるはず。それに、私の歴史の知識や弓の腕だって、きっと役に立つはず…!)
彼の人柄は信頼できる。以前言葉を交わした時の、あの穏やかで誠実な瞳を思い出す。彼の旅がどれほど重要で危険なものか、父の様子からもわかる。ならば、尚更、彼を一人で行かせるわけにはいかない。彼を心配する気持ちが、彼女の心を強く締め付けた。
(決めたわ。父上は絶対にお許しにならないでしょう。でも、私は行く! これは、私が自分で選ぶ道!)
決意を固めたエリスの碧い瞳に、強い、燃えるような光が宿った。彼女は書見台から離れ、衣装棚へと向かった。もう感傷に浸っている時間はない。ウィルに追いつくためには、すぐに行動を起こしなければならなかった。
エリスは、まず侍女を呼ぶためのベルには触れず、自ら衣装棚の扉を開けた。中には、絹やビロードでできた豪奢なドレスが何着も掛けられている。それらは王女としての彼女を飾り立てるものだが、今の彼女には何の価値もないように思えた。彼女はそれらをかき分け、奥に隠すようにして仕舞い込んであった、実用的な旅装を取り出した。
儀礼的なドレスを脱ぎ捨て、肌触りの良い下着の上に、動きやすい革のズボンと麻の上衣を素早く身に着ける。普段、侍女に手伝わせていた着替えも、今は一人で手際よくこなした。次に、体にぴったりと合った緑色の革鎧を纏う。胸当てや肩当てにはリンドリア王家の紋章である星と竪琴の銀細工が施されているが、今はそれすらもどかしい。革の締め付けが、彼女の決意を物理的に固めてくれるような気がした。鏡に映った自分の姿は、いつもの優雅な姫君ではなく、凛々しい女狩人のようだ。悪くない、と彼女は思った。
愛用の白木の長弓と、矢羽根を揃えた矢筒を背負う。腰には、父から護身用に与えられた、美しい短剣を差した。そして、革袋に必要なものを手早く詰め込んでいく。保存食となる干し肉とレンバス(エルフの携帯食)、水筒には清冽な泉の水を満たし、自分で調合した数種類の薬草、火打石と火口、丈夫なエルフ製のロープ、そして小さな羊皮紙と筆記具。最低限だが、数日の野営には十分な装備だ。
全ての準備を終えると、彼女は部屋の大きな窓に近づいた。窓の外には、月明かりに照らされた美しい庭園が広がっている。ここから飛び降りるのは、少し高さがある。しかし、躊躇している暇はなかった。彼女は窓枠に足をかけ、深呼吸を一つすると、鍛えられたしなやかな体で音もなく庭の茂みへと降り立った。着地の衝撃を巧みに殺し、すぐに身を伏せる。
庭園の茂みに身を隠しながら、彼女は城壁を迂回し、東門へと向かう。月明かりと星明かりだけが頼りだ。王城の庭は入り組んでおり、夜は警備の目も光っている。だが、幼い頃からこっそり城を抜け出しては森で弓の練習をしていた彼女にとって、この程度の隠密行動は慣れたものだった。息を殺し、影から影へと移る。時折聞こえる衛兵の足音や話し声に心臓が跳ねるが、冷静にやり過ごし、ついに東門近くの城壁の陰にたどり着いた。
衛兵の交代の時間は把握している。遠くで交代を告げる角笛の音が微かに響くと、門番の注意が一瞬それる。その隙をつき、エリスはまるで風に舞う木の葉のように、あるいは森を駆ける猫のように素早く、音もなく門をすり抜けた。
振り返ることなく、彼女はウィルが向かったであろう、ささやきの森へと続く石畳の道を走り出した。リンドリアの都の灯りが急速に遠ざかっていく。心臓が高鳴り、頬が紅潮する。父を裏切る形になったことへの罪悪感がないわけではない。だが、それ以上に、未知の世界への期待と、自分の意志で未来を切り開くのだという高揚感が、彼女の全身を満たしていた。ウィルはもう、かなり先に行ってしまっているかもしれない。それでも、追いついてみせる。彼女の碧い瞳は、前方の暗い森を、強い光を宿して見据えていた。
*
一方、ウィルはリンドリアの王都を後にし、東門へと続く大通りを歩いていた。先ほど城の回廊でエリスと短い会話を交わしたことが、彼の心に小さな、しかし確かな波紋を広げていた。
(エリス…か。聡明で、芯の強い女性だ。彼女も、この都の異変に気づいているようだったな…。あの真剣な眼差し…何かを決意したような顔にも見えたけど…まさかね)
彼女のような若者が、この先の時代を穏やかに生きていけるようにしなければならない。その思いが、五百年の隠遁で鈍っていたかもしれない彼の決意を、新たにする。フィンロドのためだけではない。エリスのような、未来ある若者たちのためにも、この戦いは避けられないのだ。
東門が見えてきた、その時だった。
「お待ちください、ウィル!」
聞き覚えのある、凛とした声。しかし、先ほど城の回廊で聞いた時よりも、明らかに切迫した響きを帯びている。ウィルは足を止め、ゆっくりと振り返る。彼の胸に、まさか、という予感がよぎる。そして、その予感は的中した。
そこには、息を切らせて肩を上下させている、エリス・リンドールが立っていた。先ほどとは違い、彼女は緑の旅装に身を包み、背には弓を背負っている。その姿は、明らかにこれから旅に出ようとする者のそれだった。
陽光を受けてキラキラと輝く、蜂蜜色の長い金髪。それは走ってきたためか少し乱れ、丁寧に編み込まれた髪の一部が、汗で張り付いた白いこめかみや、形の良い耳にかかっている。大きく見開かれた碧い瞳は、夏の空のようにどこまでも澄み切っており、今は強い意志と、抑えきれない高揚感を浮かべて、真っ直ぐにウィルを見つめていた。長い睫毛が、興奮のためか微かに震えている。
体にぴったりと合った旅装は、彼女のスレンダーでありながら女性らしい柔らかな曲線――引き締まった細い腰、革鎧の下でもわかる豊かな胸の膨らみ、しなやかに伸びる脚線美――を強調していた。白い肌は走ってきたためかほんのりと上気し、普段は気品に満ちているであろう頬が、可憐な薔薇色に染まっている。形の良い唇はわずかに開かれ、はあ、はあ、と速い呼吸を繰り返しており、そのたびに豊かな胸元が小さく上下するのが見て取れた。彼女から放たれる、若く強い生命力の香り、そして気品と決意が入り混じったオーラが、ウィルの感覚を微かに、しかし確実に刺激した。
(…やれやれ、やはりこうなったか。しかし、あのフィンロドの娘とは思えないほどの行動力だな…まったく。これは、フィンロドに後で文句を言われるかもしれないなあ)
ウィルは内心で深く溜息をついたが、表情には穏やかな、親しい知人に向けるような笑みを浮かべて問いかけた。
「エリス? どうかしたのかい、そんなに慌てて。その格好…城を抜け出してきたのか?」
「あなたが行くというのなら、私もお供します!」
エリスは、強い決意を込めた声で言った。
「父はお許しにならないでしょう。ですが、私の決意は変わりません! 王宮の中から書物を読み、世界の危機を憂うだけでは、何も始まりません! ウィル、あなたと一緒なら、きっと大丈夫だと信じています。お願いです、連れて行ってください!」
彼女の白く細い、しかし力強い手には、白木の美しい長弓が握られていた。それは彼女の決意の象徴でもあった。外の世界への憧れ。ウィルへの信頼。そして、世界の危機に対する責任感。それらが、彼女をここまで走らせたのだろう。
ウィルはしばらく黙って、目の前のエルフの女性を見つめた。彼女の瞳に宿る真摯な光、そして、未知への期待と不安が入り混じった表情。
(…確かに、この瞳は本気だ。それに、僕のことを信頼してくれている、か…)
彼は、彼女の覚悟を認めざるを得なかった。王の意向に反することへのためらいはあったが、それ以上に、彼女の真っ直ぐな瞳と、自分に向けられた信頼を無下にはできなかった。しかし、それでもなお、彼女をこの先に待ち受けるであろう過酷な旅に巻き込むことへの強い躊躇が、ウィルの心から消えることはなかった。五百年前の戦いで、守れなかった者たちの顔が脳裏をよぎる。この輝くような生命を、同じように危険に晒して良いものか。
「エリス」ウィルは、先ほどよりも真剣な声で言った。「君の気持ちは嬉しい。でも、この旅は君が考えているような生易しいものにはならないだろう。ただ世界を見て回るのとは違う。下手をすれば、命を落とすことになるかもしれない。冥王の石の影響は、僕らが考えている以上に深刻かもしれないんだ。それでも、本当に行くと言うのかい?」
彼は、彼女の覚悟を試すように、厳しい現実を告げた。ここで彼女が怯むなら、無理に連れて行くべきではない。
だが、エリスの瞳の光は揺らがなかった。むしろ、ウィルの真剣な言葉を受けて、さらに強い輝きを増したように見えた。
「承知の上です、ウィル。だからこそ、行かなければならないのです。私にできることがあるのなら…いえ、たとえ何もできなかったとしても、この目で真実を見届けたい。そして、あなたの傍で、少しでも力になりたいのです」
その言葉には、もはや迷いはなかった。王女としての責任感だけではない、ウィル個人への強い想いのようなものさえ感じられた。
(…困ったな。ここまで言われると、断れないか…)
ウィルは苦笑に近い笑みを浮かべた。
「…君が同行してくれるなら、道中は退屈せずに済みそうだ。それに、君の知識は役に立つかもしれないね」彼はエリスの歴史への造詣の深さを思い出す。「わかった、一緒に行こう。ただし、条件がある」
「条件、ですか?」エリスは少し身構えるように問い返した。
「ああ。これからは『姫』ではなく、ただのエリス。そして僕はウィル。旅の仲間だ。敬称は不要だ。危険な旅になる。王族としての特権は一切ない。食事も野営も、全て自分で行うんだ。それでもいいかい?」
ウィルの緑の瞳が、試すようにエリスを見据える。彼女の覚悟が本物かどうか、最後にもう一度、確認する。
エリスは一瞬息を呑んだが、すぐにその碧い瞳に強い光を宿し、力強く頷いた。
「はい! 望むところです、ウィル!」
その顔が、ぱっと花が咲いたように輝いた。不安の色は消え、希望と決意がその碧い瞳を満たす。ようやく掴んだ外の世界への扉。その喜びが、彼女の全身から溢れ出ているようだった。
こうして、千五百年の時を生きた伝説の鍛冶師――その正体(彼が伝説の大英雄であること)をまだエリスは知らない――と、外の世界へ飛び出したエルフの姫君の、世界の命運を賭けた旅が、正式に始まった。
「じゃあ、行こうか、エリス」
ウィルが促すと、エリスは力強く頷き、一歩を踏み出した。
二人は並んで、リンドリアの東門をくぐり抜ける。彼らの前には、広大なアルクメリアの大地と、そこに待ち受けるであろう想像を超える困難、そして多くの出会いが広がっていた。ささやきの森へと続く道は、まだ陽光に照らされ、穏やかに見えたが、その先に待つものを、ウィルだけは予感していた。そして、隣を歩く若く美しいエルフの存在が、これからの旅に、そして彼自身の心に、どのような影響を与えるのか、それは彼自身にもまだ分からなかった。ただ、五百年ぶりの一人旅になるはずだったものが、思いがけず賑やかになりそうだ、と彼は少しだけ思った。