新たなる旅立ち
王城の最奥、謁見の間。
神殿のように荘厳なその空間は、静謐さに満ちていた。天井の瑠璃色のドームには無数の水晶が星々のように瞬き、床には純白の絨毯。壁にはリンドリアの栄光と苦難の歴史を描いた巨大なタペストリー。しかし、その荘厳さの中に、以前はなかったはずの張り詰めた空気と、玉座に座すフィンロド王から発せられる深い憂いの気配をウィルは感じ取っていた。
玉座には、旧知の友であり、現エルフ王であるフィンロド・エレンサールが腰掛けていた。白銀の長髪は肩まで流れ、金のサークレットがその額を飾っている。深い叡智を湛えた瞳は、しかし今は疲労の色が濃く、その表情には隠しきれない苦悩が刻まれていた。五百年前、共に最終戦争を戦った頃の、若々しく覇気に満ちた面影は、見る影もない。時の流れは、王にも重くのしかかっていた。
「…急な呼出しに応じてくれて感謝する、ウィル」
フィンロドの声は、謁見の間の静寂に吸い込まれるように、か細く響いた。
「フィンロド。久しぶり。…顔色が良くないようだけど」
ウィルは玉座の前で軽く会釈する。王への礼儀は最低限に留め、旧友に対するような、率直な口調で語りかけた。フィンロドもまた、その態度を咎めることなく、むしろ安堵したような表情を見せた。この謁見の間では、誰も彼にこのように話しかけてはくれないのだろう。
「ああ…。この国の、いや、この世界の現状を思えば、な」フィンロドは力なく微笑み、ウィルに近くへ来るよう促す。「お前も道中、感じただろう? あの忌まわしき石の影響が、日増しに強まっているのを」
「ああ、嫌というほどね。森の様子がおかしい。精霊たちは沈黙し、獣は牙を剥き、水は淀む。あれは尋常じゃないよ」ウィルは厳しい表情で答える。
「うむ…」フィンロドは重々しく頷く。「もはや猶予はない。ウィルよ、単刀直入に言おう。再び、世界の危機が迫っているのだ」
フィンロドは立ち上がり、玉座の傍らに控えていた侍従に合図を送る。侍従は恭しく黒檀の箱を捧げ持ち、ウィルの前に進み出た。その顔にも緊張の色が見える。王がこの箱を持ち出させた意味を、侍従も理解しているのだろう。
「冥王の石…。その力は我らの想像をはるかに超えているのかもしれない。我らの魔法も、祈りも、石の影響を食い止めるには至らぬ。日に日に、その邪悪な波動は強まり、アルクメリア全土を覆おうとしている。そして、奴の…マルゴスの復活も、もはや時間の問題かもしれぬのだ」
「それで、僕に何を望んでいるんだい? 五百年も隠遁していた僕に」ウィルは静かに問いかけた。その瞳はフィンロドを真っ直ぐに見据えている。その奥には、期待と、そしてわずかな諦めが混じっていた。
「『世界の腕輪』を探し出してほしいのだ」フィンロドの声に、必死の響きがこもる。「かつてヴァレリオンに預けた、もう一つの腕輪を。お前が作りし、対なる腕輪。あれがあれば、あるいは対抗できるやもしれぬ。だが、ヴァレリオン滅亡の混乱の中、腕輪の行方は歴史の闇に消えた。今どこにあるのか、誰が持っているのか、我らにも皆目見当がつかぬのだ!」
侍従が、フィンロドの合図で黒檀の箱を開ける。
途端に、柔らかな、しかし抗いがたいほどの存在感を放つ光が、謁見の間に満ちた。中に収められていたのは、白銀に輝く一つの腕輪だった。ミスリルのように軽やかで、アダマンタイトのように強固な、未知の金属で作られている。その表面には、古代エルフ文字とも、あるいはそれ以前の力の言葉ともつかぬ、複雑な紋様がびっしりと刻まれていた。それは単なる装飾ではなく、強大な力を制御し、増幅するための魔法回路そのものだ。そして中央には、夜空に浮かぶ月そのものを切り取って嵌め込んだかのような、青白い光を放つ宝石。それは星の涙とも、あるいは古代の竜の心臓とも噂される、伝説の『月光石』。
五百年の時を経ても、その輝きと力は少しも衰えていない。それどころか、作り手であるウィルの存在を感知し、まるで再会を喜ぶかのように、その脈動を強めているかのようだ。腕輪から放たれる清浄な魔力の波動が、ウィルの肌を心地よく震わせる。
「『力の腕輪』…。お前が、若き日の情熱と、エルフ族の魔法の粋を集めて作り上げしもの。お前の魂の一部とも言えるものだ。そして、今もお前だけが、その真の力を引き出せる」
フィンロドは腕輪を丁寧に手に取り、ウィルに差し出した。その目は、懇願するようにウィルを見つめている。王としての威厳ではなく、旧友としての、そして世界の未来を憂う一人のエルフとしての、切実な願いがそこにはあった。
「ウィルよ。頼む。もう一度だけ、その力を貸してくれ。失われた『世界の腕輪』を探し出し、冥王の復活を阻止するのだ。これは、もはやリンドリア一国の問題ではない。アルクメリア全土、いや、世界全体の命運がかかっているのだ!」
ウィルは、差し出された腕輪を、そしてフィンロドの必死の形相を、黙って見つめた。緑の瞳の奥で、様々な感情が激しく交錯する。
五百年前の記憶が、鮮やかに蘇る。冥王マルゴスの圧倒的な力。絶望的な戦況。次々と倒れていく仲間たち。そして、この腕輪と、もう一つの腕輪を作り上げるために費やした、若き日の情熱と、払った大きな代償。彼は二つの腕輪の力でマルゴスを打ち倒し、世界を救った。英雄と讃えられた。だが、その代償もまた大きかった。彼は多くのものを失い、そして力を振るうことの虚しさを、その責任の重さを、骨身にしみて知った。だからこそ、彼は世俗を捨て、森に隠遁したのだ。
平和な隠遁生活は、心地よかった。土を打ち、鋼を鍛え、森の静寂の中で思索に耽る日々。もう二度と、あの血塗られた戦場には戻りたくない。英雄などと呼ばれるのは、もうこりごりだ。誰かの期待を背負うのは、もううんざりだった。
だが、目の前には旧友の、そして世界の危機を憂う王の姿がある。そして、この腕輪が持つ力が、自分にしか扱えないことも知っている。ここで断れば、世界は再び冥王の手に落ちるかもしれない。そうなれば、彼のささやかな平和も、愛する森も、全てが失われるだろう。それは、彼が最も恐れることだった。
長い、長い沈黙の後。それは、五百年の重みを持つ沈黙だった。彼は、旧友の憔悴しきった顔と、腕輪の放つ清浄な光を交互に見つめた。
ウィルは、ゆっくりと腕輪を受け取った。ひんやりとした金属の感触が、彼の左腕に吸い付くように馴染む。まるで、五百年の時などなかったかのように。中央の宝石が、主の帰還を喜ぶかのように、ひときわ強く輝きを放ち、彼の内に眠っていた力が微かに、しかし確実に共鳴するのを感じた。力が、身体の奥底から湧き上がってくるような感覚。それは、甘美でさえあった。
「……わかったよ、フィンロド」
ウィルの声は静かだったが、その響きには確かな覚悟が宿っていた。
「この世界を再び闇に落とすわけにはいかない。微力ながら、力を尽くそう」
その言葉は、かつての英雄のそれというよりは、静かに決意を固めた一人のエルフのものだった。
「おお…! おお、ウィル!」
安堵と感謝が、フィンロドの表情に満ち溢れる。彼はウィルの手を強く握りしめた。王としての威厳も忘れ、ただ一人の友として。
「礼を言う…。本当に、礼を言うぞ、友よ…。お前だけが…お前だけが頼りなのだ…」
ウィルは、感極まる王の手をそっと外し、静かに頷いた。
フィンロドは、王としての顔を取り戻し、しかし声には友への気遣いを滲ませて言った。「必要な支援は惜しまぬ。…気をつけていくのだぞ、友よ」
ウィルは短く頷くと、踵を返した。黒檀の箱は、侍従が再び静かに閉じた。
謁見の間を後にするウィルの背中を、フィンロドは複雑な想いで見送る。五百年の時を経て、再び友を過酷な運命へと送り出すことへの罪悪感。そして、彼だけが持つ力への、最後の希望。王はただ、彼の無事を祈ることしかできなかった。
ウィルは、王城の長い回廊を歩きながら、左腕にはめられた『力の腕輪』にそっと触れた。まだ完全に目覚めてはいないが、その奥底で脈打つ強大な力を感じる。それは、彼自身の魂の一部であり、同時に、彼を再び戦いへと誘う呪いのようなものかもしれなかった。
(…また、この力を使う時が来たか)
回廊の大きな窓から差し込む光が、彼の銀髪を照らす。彼はふと足を止め、窓の外に広がるリンドリアの美しい街並みを見下ろした。平和に見えるこの都にも、確実に忍び寄る影がある。
「ウィル?」
不意に、背後から柔らかな声がかかった。振り返ると、そこにはエリス姫が立っていた。彼女は日課の散策中だったのか、あるいはウィルが城に来ていると聞いて探しに来たのか。いつものように、優雅な刺繍の施されたローブを身に纏い、その金色の髪は美しく結い上げられている。
「やあ、エリスじゃないか。こんな所でどうしたんだい?」ウィルは軽く会釈する。彼女とは、彼が時折城を訪れた際に何度か言葉を交わしたことがあった。聡明で、好奇心旺盛な姫君。そして、どこか王宮の暮らしに退屈しているような、そんな印象を彼は受けていた。
「まあ、ウィル! あなたが王城にいらっしゃるなんて珍しい。鍛冶のお仕事ですか?」エリスは嬉しそうに微笑み、近づいてくる。その碧い瞳は、親しみを込めてウィルを見つめている。
「ああ、まあ…少し野暮用で」ウィルは曖昧に答える。まさか王に呼び出されて世界の危機を救う旅に出るところだとは言えない。
「そうですか。…でも、なんだかお顔がいつもより険しいような気がします。何か心配事でも?」エリスは、ウィルの表情の微かな変化を敏感に感じ取ったようだ。彼女の真っ直ぐな視線に、ウィルは少しだけたじろぐ。
「いや、なに…少し考え事をしていただけだよ」彼は努めて穏やかに微笑む。「それより、エリスこそ変わりはない? 相変わらず書庫に籠もっているの?」
「もう、ウィルったら。私だって、たまには外の空気を吸いますよ」エリスは少し頬を膨らませる。その仕草は年相応に可愛らしい。「でも、そうですね…最近は特に、外の世界のことが気になって。父上の悩みも深いようですし…」
彼女の声に、ふと陰りが見えたのをウィルは見逃さなかった。彼女もまた、この国の、そして世界の異変を感じ取っているのだろう。
「…そうか」ウィルはそれ以上深くは聞かず、ただ静かに相槌を打った。「エリスも、あまり無理はしないようにね」
「はい。ウィルも、お気をつけて」エリスは再び微笑む。「また、あなたの打った剣を見せてくださいね。あなたの作るものは、どれも魂が宿っているようですから」
「ああ、機会があればね」
ウィルは短く応えると、再び歩き始めた。エリスは、彼の後ろ姿を、どこか名残惜しそうに、そして少し心配そうに見送っていた。
(姫君か。彼女のような若者がこの先の時代を穏やかに生きていけるようにしなければ…)
ウィルは左腕の腕輪に再び意識を向けた。それは、彼自身の魂の一部であり、同時に、彼を再び戦いへと誘う呪いのようなものかもしれなかった。
緑の瞳に、深い決意の色を宿して。彼は、再び始まるであろう、永い、そしておそらくは最後の旅路へと、静かに歩みを進めた。