プロローグ
第三紀と呼ばれる時代が始まって、はや五百年の歳月が流れた。
かつて大陸アルクメリア全土を恐怖に陥れた冥王マルゴスの名は、今や老人の語る昔話か、埃をかぶった歴史書の中に記されるのみとなっていた。人々は永きに渡る平和の中で、日々の糧を得、子を育て、生を謳歌していた。陽光の下で子供たちの笑い声が響き、街の市場は活気に満ち、畑には作物が豊かに実る。少なくとも、寿命の短い人間や、山の懐で黙々と鉄を打つドワーフたちにとっては、概ねそのような、穏やかで代わり映えのしない、しかし確かな幸福に満ちた時代であったはずだ。
しかし、東方の広大な森の奥深く、悠久の時を生きるエルフたちが住まう王国リンドリアにおいては、その平和は薄氷の上にあるかのような危うさを伴っていた。古き森の木々は変わらず天を衝くように静かに枝を伸ばし、清らかな川は水晶のようなせせらぎを奏でている。だが、注意深く耳を澄ませば、その森の深奥部では、かつて響いていた精霊たちの快活な歌声が途絶え、代わりに形容しがたい淀んだ空気が満ち始めていることに気づくだろう。森の精霊たちは姿を隠し、彼らの陽気な囁きは聞こえなくなって久しい。
異変は、それだけではない。古来より森と共にあり、エルフたちとも比較的友好的であったはずの森の獣たちが、理由もなく凶暴性を増し、人を襲う事件が頻発していた。リンドリアの民であるエルフたちの間にも、かつてない疑心や不安の影が静かに、しかし確実に広がっていたのだ。隣人のふとした言葉に悪意を感じ、些細なことで言い争いが絶えない。かつては芸術や自然の美しさを語り合っていた広場でも、今は眉間に皺を寄せ、ひそひそと噂話をする姿が目立つ。原因不明の奇病に罹り、日に日に衰弱していく者も後を絶たなかった。エルフの長い寿命をもってしても、抗えぬ病魔の存在は、民の心に暗い影を落としていた。
その全ての根源が、五百年前に滅びたはずの人間の国ヴァレリオンの跡地――今では『荒廃した平原』と呼ばれる不毛の大地――の中心に存在するとされる、忌まわしき『冥王の石』にあることを、リンドリアの為政者たち、特に王であるフィンロド・エレンサールは察知していた。石から放たれる邪悪な波動が、大地を、水を、そして人々の心をも蝕んでいるのだ。そして、それはかの冥王マルゴスの復活の前触れではないかと、日に日に深い憂慮を募らせていたのである。
*
リンドリアの辺境に広がる、ささやきの森。その名の通り、風が木々の葉を揺らす音や、小動物たちの立てる微かな物音以外には、深い静寂に包まれた広大な森である。王都からも遠く、エルフですら滅多に足を踏み入れない、忘れられたような場所だ。
その森の一角、陽光すら届きにくいほどに枝葉を茂らせた巨大な古木の根元に寄り添うように、一軒の質素な小屋が建っていた。風雨に晒され、壁の木材は色褪せ、屋根には苔や蔓草がびっしりと絡みついている。およそ、美を愛し、洗練された文化を持つエルフの住まいとは思えぬほど、粗末で、そして世間から忘れ去られたような佇まい。その小屋は、鍛冶場を兼ねていた。
小屋の主の名は、ウィル。
彼は今、薄暗い鍛冶場の中で、炉の炎に照らされながら黙々と鎚を振るっていた。カン、カン、カン…規則正しく、しかし力強く響く金属音が、森の静寂を切り裂いていく。飛び散る火花が、彼の腰まで伸びた銀色の髪を、汗の滲む額を、そして一心不乱に鋼を見つめる深い森のような緑の瞳を、一瞬だけ鮮やかに照らし出す。
見た目は精悍さの残る二十歳ほどの青年にしか見えない。しかし、その無駄のない動き、鋼の性質を完璧に見極めているかのような的確な鎚の打ち込み、そして何よりも、その横顔に刻まれた、千五百年という途方もない時を生きてきた者だけが纏うことのできる深い落ち着きと、容易には他者を寄せ付けない孤高の気配が、彼がただのエルフではないことを物語っていた。
彼が打っているのは、近隣の村オークヘイブンから持ち込まれた鍬だった。長年の使用で刃こぼれし、見る影もなく歪んでしまったそれを、彼はまるで慈しむかのように、丹念に打ち延ばし、焼きを入れ、研ぎ澄ましていく。ただの農具とはいえ、彼は決して手を抜かない。かつて伝説の武具を作り上げたその技を、今は名もなき村人のための道具に注ぎ込んでいる。炉の温度、鋼の色、鎚の音、水の匂い。五感を研ぎ澄まし、彼は鋼と対話する。それは彼にとって、呼吸をするのと同じくらい自然な行為であり、そして、永い孤独と、時折襲ってくる過去の記憶の断片を紛らわす、唯一の方法でもあった。
彼の打つ農具や刃物は、驚くほど長持ちし、使いやすいと評判だった。時折こうして人里に下りては鍛冶仕事を引き受け、得たわずかな報酬――時にはパンと干し肉、時には古びた書物――と引き換えに、また森の奥の小屋へと戻る。食事は質素なものだ。森で採れる木の実や茸、たまに罠にかかった小動物。味気ないと言えばそれまでだが、彼はそれに不満を言うこともない。ただ、時折、村で見た女性たちの瑞々しい姿を思い出し、人知れず溜息をつくことはあった。永い時を生きるエルフとはいえ、彼もまた、男であった。その欲望は、普段は深い森の静寂の中に隠されている。
彼こそが、五百年前に二つの腕輪を作り出し、冥王マルゴスを打ち倒した伝説の大英雄ウィル・ウェンライトであるなど、オークヘイブンの素朴な村人たちはもちろん、リンドリアのほとんどのエルフたちも知らない。彼自身、己の過去を語ることは決してなかったし、その必要も感じていなかった。ただ、時折、鍛冶仕事の手を休め、森の木々を見上げる彼の瞳の奥に宿る、深い哀しみと諦観だけが、彼が背負ってきたものの重さを、朧げに物語るのみだった。
ふと、ウィルは鎚を振るう手を止めた。
森の空気が、ほんのわずかに震えたのを感じ取ったからだ。それは魔力の波動。それも、極めて強力で、清浄で、そして彼にとってはあまりにも懐かしい気配を伴うものだった。王都リンドリアの方角から、一直線にこちらへ向かってくる。フィンロドの魔力だ。
「……来たか」
緑の瞳を鍛冶場の入口に向け、彼は静かに呟いた。その声には、予期していた出来事がついに訪れたことへの諦めと、避けられない運命に対するわずかな覚悟が滲んでいた。五百年という歳月は、英雄の魂を癒すには十分な時間だったのかもしれない。だが、世界が再び彼を必要とするならば、応えねばなるまい。あの忌まわしき存在が、再びこの世に現れようとしているのならば。
彼は打ちかけの鍬を水桶に浸した。ジュッという音と共に白い蒸気が立ち上る。彼はその蒸気の向こうを見つめながら、ゆっくりと小屋の奥へと向かった。壁に掛けられた、使い古された革袋。その中から取り出したのは、飾り気の一切ない、しかし抜き身となれば月光をも吸い込むような輝きを放つであろう、年代物の長剣だった。鞘に収められたそれを慣れた手つきで腰に差し、風雨を防ぐための分厚い麻のマントを羽織る。水筒に清水を満たし、干し肉と木の実を少しだけ革袋に詰める。最低限の旅支度を整えるのに、時間はかからなかった。彼の動きには、もう迷いはなかった。
小屋の扉を開けると、待ち構えていたかのように、一羽の伝令鳥――リンドリア王家に仕える銀色の鷹――が、彼の肩に音もなく舞い降りた。その鋭い眼光は、主である王の意志を代弁しているかのようだ。脚には、王家の紋章である星と竪琴が刻まれた小さな銀の筒が結び付けられている。
「ありがとう、シルヴァン」
ウィルは鷹の名を呼び、その頭をそっと撫でた。鷹は誇らしげに喉を鳴らす。彼は筒から丁寧に羊皮紙の巻物を取り出した。簡潔な、しかし有無を言わせぬ王からの召喚命令。「直ちに来られたし」とだけ記されている。差出人は、フィンロド・エレンサール。彼の数少ない、五百年前に最終戦争を共に戦った旧友の名だ。
ウィルは巻物を懐にしまうと、鷹を空に放った。鷹は一声高く鳴くと、迷うことなく王都の方角へと飛び去っていく。その姿が見えなくなるまで見送った後、ウィルは、長年住み慣れた小屋を一度だけ振り返った。炉の残り火が、静かに揺らめいている。彼はそれに別れを告げるように小さく頷くと、きっぱりと背を向けた。
王都リンドリアへと続く、森の小道へと足を踏み出す。彼の心中に去来するのは、五百年ぶりに感じる、世界の命運に関わることへの重圧。そして、再びあの忌まわしき存在――冥王マルゴス、あるいはその遺した呪い――と対峙しなければならないことへの、深い、深い溜息だった。
*
王都リンドリアまでは、ささやきの森を抜けて数日の道のりだ。ウィルは、急ぐでもなく、しかし着実に歩を進めた。彼の足取りは軽く、森の地形を知り尽くしている。道中、彼は改めて森の変化を肌で感じていた。かつては生命力に満ち溢れ、木々が歌い、精霊たちの陽気な囁きが風に乗って聞こえていたはずの森は、どこか生気を失い、不気味なほど静まり返っている。代わりに、闇に潜むものの気配――冥王の石の影響で歪み、凶暴化した魔物の気配――が濃くなっていた。
道端には、本来この森には存在しないはずの、黒ずんだ奇妙な粘菌に覆われた植物が、まるで病のように広がっている。それらは不快な臭気を放ち、触れた小動物が弱っていくのを彼は見た。清らかだったはずの小川の水も、ヘドロのように淀み、魚の姿は見えない。かつて精霊たちが水浴びをしていた泉は枯れ、その周囲の木々は力なく枝を垂れていた。時折、遠くで獣の苦しげな咆哮が聞こえ、不吉な影を持つ鳥が、まるで死神のように空を横切る。冥王の石の影響は、確実にこのエルフの聖域の中心部にまで及びつつあった。
(フィンロドの懸念は、杞憂ではなかったみたいだ…いや、それどころじゃないな。これは想像以上に深刻かもしれない)
ウィルは眉間に皺を寄せ、内心で毒づいた。五百年の隠遁は、彼を平和に慣れさせすぎていたのかもしれない。彼は腰の剣の柄に手をかけ、周囲への警戒を強めながら、歩みを速めた。
数日後、陽光が木々の隙間から幾筋も差し込み、視界が開けた。リンドリアの壮麗な白亜の城門が見えてくる。高い城壁は純粋な白で輝き、繊細なレリーフが施された尖塔は空を突くように聳え立っている。エルフの美意識と魔法技術の粋を集めたその威容は、五百年前と何ら変わらない。だが、城門を守る衛兵たちの表情は硬く、その銀色の鎧には以前にはなかったはずの微かな傷や汚れが見て取れた。彼らの纏う空気も、以前のゆったりとしたものではなく、常に周囲を警戒するような鋭さがある。彼らもまた、迫りくる脅威との静かな戦いを強いられているのだろう。
ウィルはフードを目深にかぶり、衛兵に王家の紋章が刻まれた召喚状を見せた。衛兵たちは、見慣れぬ旅装のエルフに一瞬訝しげな視線を向けたものの、紋章を確認すると、驚きと畏敬の入り混じった表情で慌てて道を開け、深く敬礼を送った。彼らはウィルの正体を知らずとも、王が直々に呼び出す相手がただ者でないことだけは理解したのだろう。その視線には、僅かな好奇心も含まれているように見えた。
城門をくぐり、五百年ぶりにリンドリアの都に足を踏み入れる。
(……変わらないな。いや、変わったのか…?)
ウィルは内心で呟きながら、ゆっくりと王城へと続く大通りを歩き始めた。記憶の中にある都と、目の前の光景を比較する。
街並みは、彼の記憶にある姿とほとんど変わっていなかった。白く輝く石で造られた建物は、どれも優美な曲線を描き、植物や動物をモチーフにした繊細な彫刻が施されている。多くの建物は巨大な古木と文字通り一体化するように建てられており、緑の葉が壁を覆い、太い枝がバルコニーのように張り出している。自然との調和を重んじるエルフならではの建築様式だ。通りには清らかな水路が巡り、心地よい水音が絶えず聞こえてくる。空気は澄み渡り、季節の花々の甘い香りと、どこからか流れてくる竪琴の優雅な調べが、街全体を包み込んでいる。
道行くエルフたちの姿もまた、優雅そのものだった。絹のように滑らかな金や銀、あるいは森の色をした髪を風になびかせ、ゆったりとした仕立ての良い服を身に纏っている。その動きは流れるようで、慌ただしさというものとは無縁に見える。広場では、若いエルフたちが集い、詩を詠み、楽器を奏で、あるいは優雅な剣舞や魔法の練習に興じている。露店では、銀線細工の美しい工芸品や、色とりどりの宝石、森の恵みである珍しい果物や薬草などが静かに売られていた。
一見すると、そこは完璧なまでに美しく、平和で、洗練されたエルフの都だ。およそ、世界の危機などとは無縁に見える。
だが、五百年ぶりにこの都を訪れたウィルの目には、その完璧さの裏に潜む、いくつかの違和感がはっきりと映っていた。
まず、街全体が静かすぎること。彼の記憶にある、最終戦争前のリンドリアは、もっと生命力に満ち、人々の屈託のない明るい笑い声や、祝祭のような賑やかな音楽が溢れていたはずだ。今は、どこか抑えられたような、潜めたような静けさが街を支配している。まるで、美しい仮面の下に、何かを隠しているかのように。
道行くエルフたちの表情も、よく見れば硬い。優雅な微笑みの下に、深い憂いや不安の色が隠されているように見える。すれ違いざまに交わされる会話も、以前のような芸術や哲学談義ばかりではなく、もっぱら森の異変や原因不明の病に関するものが多いようだ。そして、ウィルのような見慣れぬ者(しかも質素な旅装の)に対する視線には、あからさまな好奇心と共に、以前にはなかったはずの強い警戒心や、場合によっては軽い侮蔑の色すら感じられた。彼らが纏う上質な衣服や装飾品を、ウィルは無感動に見つめる。
(永い平和は、彼らを少し、傲慢にしたのかもしれないな…。あるいは、見慣れぬ者を恐れるほどに、余裕がなくなっているのか)
ウィルは小さく息をつく。これも冥王の石の影響なのだろうか。人々の心を狭量にし、疑心暗鬼にさせる。それは、かつてマルゴスが用いた常套手段でもあった。
彼は大通りから一本脇道に入ってみた。そこは職人たちの工房が軒を連ねる地区だった。鍛冶師である彼は、この地区の空気が好きだった。鎚の音、炉の熱気、金属と油の匂い。それは彼にとって、懐かしい故郷のようなものだ。しかし、今、その地区もどこか活気がない。いくつかの工房は扉を固く閉ざしており、開いている工房も、以前のような情熱的な熱気は感じられなかった。聞こえてくる鎚の音も、どこか弱々しい。
(僕がいた頃は、もっと…夜通し鎚の音が響いていたものだが)
懐かしさと共に、一抹の寂しさが彼の胸をよぎる。五百年という時間は、たとえ長命なエルフにとってすら、決して短い時間ではないのだ。時代は移り、人も変わる。それは、彼自身が誰よりもよく知っていることだった。
彼は再び大通りに戻り、王城へと続く緩やかな坂道を登り始めた。坂の上からは、リンドリアの街並みが一望できる。白く輝く建物、豊かな緑の木々、どこまでも澄んだ青い空。それは変わらず美しい。だが、その美しさの底に、見えない毒のように、じわじわと異変が広がっている。この美しい都が、かつてのヴァレリオンのように、静かに滅びへと向かっているのではないか。そんな不安が、彼の心を重くした。
(フィンロドは、この状況をどう見ているのだろう…? そして、僕に何をさせようというのだろう?)
友であり、王でもあるエルフの顔を思い浮かべながら、ウィルは王城の巨大な門へと向かう。彼がこの都を離れて五百年。再び彼がこの都を訪れた理由は、決して喜ばしいものではなかった。