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Note.5 スープの味


Note5 スープの味

             

 

三度目の秋が来た。

 美術館で「近藤萌美作品油彩」「萌えるMINO」と正確に書かれた絵の前にじっと佇む黄色い洋服を着た一人の女性がベンチにいた。その前でどのくらい時間が経過したのだろうか。その女性はアメリカから帰ってきた彩夏であった。彩夏はその絵の前に立ち足場の上に上がって絵を描いている母親の姿を見ていた。そこには自分が描き込んだ真っ赤なMのサインが生き生きと映えている。

「彩夏」

「ママの声がする・・・・・・」

 この場所にいると母親と一緒にいるような気がし何故か落ち着くのだった。

「ママ、ただいま。帰って来たよ」

 彩夏は通路の壁側にあるベンチに座った。萌美と二人で作成し完成して二人で抱き合ったことやイニシャルのMを自分が入れたことなど、壁画のオープニングセレモニーの時のことなど次々に浮かび、その日に彼女が倒れてしまったことなどが走馬灯のように思いだされた。あの時ママは一人で描きたかったと云っていたがスタッフをいつもは頼むのだけどどうして依頼をしなかったのだろうと思った。萌美のイニシャルのMの赤、ワインの赤そしてこの油彩のテーマであった篝火の赤、家族の血の赤。何故か鎖のように付きまとう赤の色にそれが自分たちの運命というものかと思ったりした。彩夏は暫くベンチに座っていたが腰を上げた。

「ママ、また来るね」

 そう声をかけて美術館を後にした。

 彩夏は「Moe」の喫茶へと足を運んだ。店は大将に聞いていたのですぐに分かった。

「いらっしゃいませ」

 誠はその女性の顔を見て「あっ」と小さな声を出した。

「彩夏ちゃん、彩夏ちゃんじゃないか。いつ帰って来たの?」

「一か月前に帰ってママの実家にいました」

 彩夏はカウンターの隅に静かに座った。

「ママといつも飲んでいたコーヒーが飲みたいけど出来ますか?」

「分かりました。とっておきの豆で作りましょう」

 そう云って誠は厨房の中に入って暫くしてから戻ってきた。目の前にはサイフォンが三台並んで湯が沸騰している。彩夏は周りを見渡した。背中に「ワインと檸檬」の絵が掛けられていた。よく見るとそれは今まで自宅に掛けていた本物の「ワインと檸檬」の絵であった。Mのサインが真っ赤な色で書かれているが何時持って来たのだろうか。正面の入り口の左側に一枚の大きな絵が掛けられている彩夏が初めて見る絵があった。椅子から立ち上がり傍に近づいてみた。「白川郷の合掌造り」と書かれた絵は左の下に赤色で大きくMと描かれていた。

「ママの絵だ・・・・・・」

 彩夏はぽつりと呟いた。誠はポットでフラスコに湯を注ぎそして暫く沸騰させてから竹ベラでサイフォンに上がってきたコーヒーを軽く混ぜた。

「この絵は何時頃ママが書いたの?私の知らない絵だわ」

「そうだね。この絵は僕たちが出会った大学祭の時展示していた絵だから知らないよね。彼女は当時二十歳の女子大生だよ。この絵の後一緒に住むようになった。だからこの絵には随分二人の思い出が詰まっているから彼女もこの絵だけは処分しなかったのだね。大作だから何処かに保管をしていたので彩夏ちゃんも知らなかったのだろう。開店のお祝いにこの絵と『ワインと檸檬』の本物の絵を届けてくれた。あの時病気で倒れる前運送屋に手配を依頼していたらしく亡くなってからこの二つの絵は届いたのだよ」

誠はコーヒーカップを出して見せた。

「これは彩夏ちゃんのマイカップ、彼女が作ったのだよ。彩夏ちゃんが店に来たらこれで飲ましてやって欲しいって」

 誠は萌美のカップも出した。そして自分にも作ってくれたのだと云ってカウンターにそのカップを三つ並べた。コーヒーカップのデザインは同じデザインだった。多治見の土で作ったとのことだがデザインは無地で極めてシンプルな志野焼のような白の釉薬を使ったものだった。飲み口のいいゆったりとしたまろやかさがあって単純なデザインに赤でそれぞれのイニシャルを描き込んだだけだった。しかし、それが単純な線だけに余計神秘的なカップになっている。萌美のカップはM、彩夏はA、誠は M になっていた。萌美と誠は同じイニシャルになるので誠にはMを横にしていた。カップの裏の底には赤い文字でMと刻印を押してある。彩夏は三つ並んだカップを呆然と眺めていた。

「ママのカップで飲みたいけどいい?」

 誠は黙って萌美のカップにコーヒーを注いで彼女の前に出した。彩夏の睫毛が濡れて光っている気がした。彩夏は出来上がったコーヒーを一口飲みながら

「やっぱりこのコーヒーだわ。これが飲みたかった。アメリカで豆を買って作ってみたけどやはり何か違っていた」

 彩夏はその萌美のカップを両手で挟み温かさを身近に感じていた。

「ママが隣にいる感じがする・・・・・・」

 彩夏は三年の留学を終えて四国の実家に帰って一カ月程過ごし、翔太と別れた瑞応寺に行ってみたという。瑞応寺では大銀杏の木を眺めながら翔太とのことが思い出されたがもう随分昔のような気がした。翔太はあの時自分を求めてきた。それは異母姉弟という垣根を飛び越えて今まで通りの生活を要求してきたのだ。どうして異母姉弟でないと知っているのなら云ってくれなかったのだろうか。彩夏は手で翔太の意思をさえぎり別れる事になったが、誠に高橋の話は何故か話さなかった。彩夏はベンチに座りながらあの時と同じように釣鐘堂の前で遊ぶ小さな子供たちに目がいった。

彩夏はここに来た理由を話した。四国に帰ったら誠と一緒に見てくれと萌美から渡されたのだと祖母は云ったが、それは萌美がDVDビデオに書き込んだビデオメッセージだった。手渡された時意味が分からなかったけど萌美は自分に何かあった時は三年後の落ち着いた頃に手渡して欲しいと祖母に依頼していた。そこに彼女の決意のようなものを感じて持ってきたのだと云った。テープは白いシールで封印されていたが、それは萌美が亡くなる一カ月前の日付になっていた。その夜誠の部屋に行くと2LDKでリビングには誠と萌美が一緒に写っている学生時代の写真盾があった。その隣には一輪挿しの花瓶に菜の花が飾られている。

「コーヒーでも飲む?」

「いえ、いいです。何もいりません。それよりかビデオを早く見たいのです」

 誠は封を切りビデオをセットした。画面は暫くして萌美を映し出した。

「ママ、ママだわ・・・・・・」

「萌美・・・・・・」

画面の中の萌美はノースリーブの白いレースの洋服を着て椅子に座っていた。そして背後の壁には誠と一緒に行った郡上城から見下ろした街のスケッチの絵が掛かっている。場所は自分の書斎の様に思える。誠はその洋服が萌美の誕生日にプレゼントしたものだとすぐに気が付いた。萌美はゆっくりと喋り始めた。


「彩夏元気?このビデオは私に何かあった時に三年経ったら誠と一緒に見てもらえるようにお母さんに渡していたの。ちょっと本意ではないけど体力的に自信が無くなって来たので先にこういう風に準備しておいたの。見ているということはもうこの世には私は居ないのね。でも彩夏は頑張っているし綺麗になった姿が手に取るように分るわ。最初誠と別れてから彩夏を産むのに随分迷ったけど、でも彩夏と一緒に過ごせてママはとっても幸福だった。誠がいない分あなたに助けられたわ。いい人は出来た?きっと幸せになってね。そして私の分まで長生きして。彩夏のウェディングドレスは用意して大将に預かってもらっているからね。ウェディングドレスは私が誠と結婚する時に着る積りで用意していた衣装だけど少し時代に合わなくなった処があるから手直ししておいたの。だから私が着られなかったドレスを彩夏に着て欲しいの。出来たら誠と腕を組んでバージンロードを歩いてもらいたいわ。そうすれば私も一緒に誠と歩いている気がする。彩夏の白いドレスを身にまとった姿は綺麗だろうね。よく天国からでも見えると思うわ。いつまでも見守っているから安心してね。それから誠のこと彩夏許してあげて、本当に知らなかったのだから。ママも云えばよかったのだけど云えなかったことを後悔している。早く云えば何でもなかったのだけど迷ったことは事実なの。でも最終的には自分の子供を産みたいと云う気持ちが勝り実家で出産したの。あなたが嫌いで産まないという選択肢はなかったが勉強するについては若過ぎるという事実はあった。ママは今でも彼を愛しています。好きでずっと愛してきたの。だから彩夏もきっと好きになってくれると思うから彼を譲ります。いつか蟠りが解ける日が必ず来るからその時はお願い。随分体がきつくなってきたので最後に誠に云っておくわ。彩夏のこと頼みます。実家のお父さんやお母さんより先にいくなんて親不孝な娘だったけどその分誠を一杯愛したから幸福でした。たった一年ほどの生活だったけど私は誠からたくさん愛情をもらいました。いつまでも彩夏を見守ってやってね。この洋服誠が私のお誕生日に買ってくれたの。覚えている?私はあの時のまま。何といっても彩夏は私とあなたの子供なのだから。そろそろ苦しくなってきたのでこの辺でお別れします。元気で頑張ってね・・・・・・」

 画面の中の萌美は軽く右手を振った。

 

 彩夏はテーブルに顔を埋めて泣いた。誠も拳で目を拭きながら肩を振るわせ矢張りそうかと思った。あの洋服は誕生日にプレゼントしたものだ。

「パパ、パパごめんなさい・・・・・・」

 彩夏が初めてパパと呼び今まで突っ張っていた姿はなく誠の胸に飛び込んできた。

「彩夏ちゃん・・・・・・、よかった」

「ごめんなさい、ごめんなさい。幼い頃から何度もパパってどんな人だろうって想像をして憧れていたの。それが翔太の父親だと知って余計意地を張るようになったの。その上翔太は自殺したし私はパパを恨むしかなかった。でももう大丈夫・・・・・・。パパ会いたかった」

 誠は何も云えず力いっぱいただ抱きしめた。彩夏の髪からは萌美と同じ香りがした。

「彩夏ちゃん悪いのは僕だ。萌美が亡くなったのも僕のせいだ。苦労させたからきっと僕のせいだよ、許しておくれ」

二人はそう云って暫く抱き合って泣くしか知らなかった。どの位の時間が経っただろうか。外はもう暗くなり窓ガラスに春の風が小さく音を立てて騒いでいた。

「ワインでも飲もうか」

 誠はそういってフランスワインを二つ持ってきた。よく二人でワインを飲んで「ワインと檸檬」なんて絵が出来たのだと云って笑った。彩夏は誠に初めて萌美と会った時のことを聞いてきた。誠は先ほど店で見た白川郷の合掌造りの絵の話を大学祭の時に大学から出た新進画家ということで興味本位に見に行ったのが最初なのだった。ところがその絵が白川郷の絵で自分はその絵が萌美の絵だと知らずに見ていたら涙が自然と流れて来たのだと話した。

「私の絵を見て涙を流してくれた人は初めてです」

 と云ってお礼の手紙をもらい萌美とそれからお付き合いが始まったのだと説明した。萌美はよく白いワンピースを着て長い髪を両手で掻き上げながらいつも話し込んできた。何処へ行くにもいつも一緒だった。誠はあの時自分たちは結婚しようって四国の実家まで挨拶に行ったのだと話した。自分はスーツで行くというのに萌美はラフな格好で行けと云って喧嘩になったりしたとも笑いながら話した。

 四国の実家に帰る時、萌美にプレゼントした先ほど着ていた白のレースのワンピースを着て帰って欲しいと云ったけど何か照れ臭いと云って意見が合わなかった。だからあの洋服を着た姿は初めて見たのだった。あの二十歳の時の洋服を着ることが出来ると云う萌美は二十年前の萌美であったのに違いないと誠はきっとそうだと思った。

 

彩夏はもう普段の優しさと落ち着きを取り戻し時折笑顔を見せるようになった。

「もっと早く素直になってママが元気だった時に一緒に住めばよかったね。ママは寂しかっただろうなあ」

 そんな話をたわいもなくして今後のことを話した。もう夜中の十二時を過ぎていたが今までの分を一気に吐き出すように二人は話し込んだ。彩夏は就活では英語を生かせるような仕事に就きたいといい、そのためには後一年は海外で過ごし、アメリカではマーケティングの勉強をしているのでもう少し深く勉強したいと話した。誠は少し店を休んで四国八十八ケ所巡りをして萌美や翔太の霊を弔ってやりたいと返した。いつまでも話は尽きなくその夜は遅いので誠が泊まって行けと勧めた。

 翌朝良い匂いが部屋に漂っている。彩夏が朝の料理を作っているのだった。コーヒーを誠が入れようとすると、彩夏は自分でしたいからと云って新聞でも読んでいてくださいと笑った。料理がテーブルに置かれ、コーヒーとパンと野菜サラダとスープを三つ並べた。

「一つはママの分。三人で一度も食事が出来なかったから今朝はしてあげたかったの」

 力なく彩夏は云った。

「あっ」

誠は小さな声を出した。

「萌美の味だ。このスープが飲みたかった・・・・・・。何度思っただろうか」

 そう云って誠は小さく嗚咽を漏らして頭を抱えた。

「ママに教えてもらったのだから同じだよ。でもよかった。ママ喜んでいるかなあ」

 そう云ってリビングに立てかけている写真を見ながら彩夏は呟いた。

 誠はこれが家族の味なのかと思った。家族であってしきたりや伝統が世代というものを通してこのように伝わっていく。それは別れて二十年の空白が一瞬にして戻った瞬間でもあった。スープ一杯で空白が埋める事が出来る家庭料理は素晴らしく、スプーンですくった味は将に萌美の味だ。萌美は確実にスープの味を彩夏に伝えていたのだ。

「音を立てずに静かにすくうように飲むのよ。イギリス式とフランス式があるけどフランス式がいいね」

 彼女に云わせればイギリス式は手前に向かって飲むのだそうだ。フランス式は手前からと横から射し込むように入れて飲む二説あるという萌美の声が聞こえてくる。

「パパ、はい、涙格好悪いよ」

 そう云って彩夏は笑ったが、誠は出されたハンカチで涙を拭こうとはせずに云った。

「彩夏ちゃん、ありがとう。とってもいい朝だよ」

「私も久しぶりに気持ちのいい朝を迎えたわ」

 誠はテーブルから立ち上がり窓を開けた。初秋の朝の光を胸一杯に吸い込むと隣に彩夏が寄ってきて頭を誠に預けてきた。誠は彩夏の肩を抱きしめながら遠く朝焼けの空を眺めた。以前萌美が此処に来た時も同じ場所から同じ景色を見た。それが今はあれほど嫌っていた彩夏がいてくれる。誠は秋の冷たい風が心地よい爽やかな感じがした。

 彩夏は素直に誠との過ごす朝の時間に抵抗はなかった。誠は照れ臭いような顔をして喜んだ。この彩夏の言葉を萌美は待っていたのだ。誠は萌美と一緒に暮らしたのはたったの一年ほどだが、その一年は娘の彩夏に引き継がれ萌美の夢を未来に繋いでいった。初めて三人で朝食を食べることは萌美の夢であり願いでもあったが今ここに娘の彩夏に引き継がれやっと家庭料理として再現された。誠はそう思うと萌美が不憫でならなかった。本来であればここに翔太が彩夏と結婚をして家族四人で朝食をしていたかもしれない。そんなことを考えていると彩夏は萌美のスープを掬って誠に差し出した。

「パパ、ママのスープ最初に飲んであげて」

「そうだね。一緒に飲んであげよう」

 そう云った誠は萌美のスープを一口飲んだ。彩夏は萌美のスープにスプーンを入れて飲んだ。

「ママの味になっているね。以前はどうしても肝心なスパイスが上手くいかなかったのだけどやっと認めてもらえるかな」

 彩夏はそう云って寂しそうな顔をして笑った。


誠が四国八十八ケ所巡りをすることによって少なくとも萌美が求めていた宗教の世界も理解が出来るかもしれない。特に香川県の五剣山である八栗寺はどうしても行かないと申し訳がないような気がした。弘法大師と語らいながら同行二人で歩いて行ってみようと兼ねてから考えていたのだと話した。

 彩夏もまた就活もかねて数日後アメリカに行くという。そして帰ってきて新しい生活が始まる。そのうちまた彩夏もいい男性が出来て結婚をする時が来るだろう。その時は萌美がデザインしたウェディングドレスを着て天国に届けてあげよう。いずれ巣立って行く彩夏の姿に誠は幸せと寂しさを初めて感じた。そして萌美と過ごした時間は今こうして未来に確実に繋がっているのかと思うととても嬉しかった。

「電話をかけるよ」

「はい、オンラインでも話はできるし顔も見られるし」

 彩夏ははっきりと返事をした。でもこれからは一緒に頑張るからと彩夏が云って喜ばしてくれた。この時初めて誠は親子の喜びを実感した。

朝食を終えて彩夏の帰る時間が来た。誠は彼女の長い髪を撫でながら抱きしめた。彩夏もまた誠に力を込めて抱きつき、もうそこには涙はなく未来だけがあった。暫くの抱擁の後、二人は再び顔を見合わせ互いに黙って笑顔を見せながら彩夏は顔を誠の胸に再び埋めた。やっと打ち解けて初めて親子の情を感じることができた。帰る彩夏の後姿はあまりにも萌美の若い頃に似ているのに誠は驚いた。


 彩夏がアメリカに立った数日後、誠は店に掲げている「ワインと檸檬」の油彩をカウンター越しに、萌美が造ったカップでコーヒーを飲みながらぼんやりと見つめていた。この中に彼女の歴史があって自分と萌美との歴史もある。誠はその絵の中の燃えるような真っ赤なMのサインを見つめた。今にも萌美が飛び出して来るようで、あの二十年前に戻ったような気持ちになった。

「Mのメッセージ・・・・・・」

 誠はぽつりと呟いた。

その時誠は萌美の声を確かに聴いた。

「誠、元気?彩夏と蟠りが溶けてよかったね。もう少し早ければ一緒に生活が出来たのに残念だわ。でも一緒に過ごした一年間は私には十分過ぎる幸せをあなたから貰ったから贅沢は云えない。だから決して残念には思ってはいない。長く生きようが短かろうが価値観は人によって違うけど私は満足とまでは云わないけど悔いはないの。誠との子供彩夏と十分楽しんで暮らしたから満足。これからはあなたが彩夏と幸せになって下さい。彩夏を産むことに迷いはあったけど授かって結果的にはよかった。でもその彩夏があなたとの再会の切っ掛けを作ってくれた。これも不思議な縁なのね。最初に誠が見て涙を流した白川郷の合掌村から移植された荘川桜の様に毎年綺麗な桜を咲かしていくわ。だから彩夏のことお願い。この絵から毎日あなたや彩夏を見守っています」

誠は萌美の声を絵にあるMのサインから確かにメッセージを聞いた。誠は萌美が造ったマイカップを両手で包み込んで考えていた。自分のイニシャルもMだ。やっと二つのMが重なった。誠はそう思いながらもう一度赤い色彩のMのサインを見つめた。二十年という年月はお互いの環境を変えてしまった。あの時一緒になって家庭を持っていたらと思うがそれはそれで違った人生かもしれない。しかし、少なくとも今の自分たちの様に家族が崩壊され、また大事な家族が死別という形で引き裂かれるようなことはなかったのではないだろうか。誠は萌美の絵を見つめながら左下に大きく書かれている真っ赤なMは彩夏との未来をメッセージとして伝えているような気がした。きっと彼女は自分の命を彩夏に託したのだ。それがあの美術館でのMというイニシャルを彩夏にメッセージとして書かせた理由ではなかろうか。あの朝食のスープの味も萌美は確実に彩夏に伝えていた。誠はぼんやりとその絵を見ながら呟いた。

「僕たちの生き方は確かに不幸に違いなかったが、お互い間違ってはいなかった。ただ少し遠回りをした不器用な果実だったのかもしれない。その経緯を見つめていたのは『ワインと檸檬』の絵だけなのだろう」


桜の花が咲く頃、瀬戸内の海岸線を歩く男がいた。男はすげ笠を被り白装束の巡礼姿で鈴の音と共に金剛杖をつきながら真っすぐ前を見据えて歩いていた。

                         

                                 

―ルポライターの視点 NO.6―


萌美の生涯はこのようにして終わった。

誠の喫茶店『Moe』に足を運ぶと、そこには何と表現したらいいのか分からないが白川郷の絵が掛けられ、あまりにも大きい作品なので鎖でぶら下げ固定されている。僕は萌美と誠が好きだったコーヒー豆を調合してもらいコーヒーを飲みながらその絵を眺めると、「芸術なんて不幸でなくちゃ描けないよ」そう云った萌美の言葉が聞こえる気がした。

 その数日後、僕は萌美の後を追うように高松市牟礼町の八十五番札所八栗寺にいた。萌美が高松の非常勤講師の時よく彩夏を連れて行った寺だ。ケーブルカーに乗らず萌美が歩いた道を辿ったが、途中坂がきついので日陰で腰を下ろした。萌美はこの寺に行くため僕と同じようなことをしてここで休んでいたに違いない。不意に小学生の彩夏を連れて坂を上がってくる萌美の幻影を見た。あの時萌美が誠に「何故」妊娠したことを云わなかった事実がやっと分かったような気がした。結果的にフランスに行って勉強をしたい気持ちが優先したのだろう。子供を産めば手が掛かる、その反面もしも産まなければという考え方に揺れていたのが本当の気持ちのような気がする。そうしているうちに云い聳えてしまい事件に巻き込まれたというのが真実ではなかろうか。これは恐ろしい仮定であるが将来において誠の存在が事実邪魔になったと考えることも出来る。だがどれも当たってはいないような気がするが僕はそう考えていくと「何故?」という考え方が異常に横やりを入れてくる。二人が坂を上がってくるその心象風景を見ながら多くのお遍路が霊気の漂う中で休憩をしている。八栗寺の鐘の音が静寂の中に響き渡るが、それはあたかもお大師さんが同行二人という事で休めと云っているような気がした。

 僕が日陰で休んでいると四国には珍しいシロモンシロチョウが飛んできた。シロモンシロチョウは僕の肩に留まりおとなしくしている。周りのお遍路の方もお友達が来ているのじゃないですかと僕に話しかけてきた。多分その蝶は萌美ではないかと僕も思った。萌美はこの五剣山の一角である山が崩れアンバランスな峰の形が自分の人生によく似ているようで八栗山が好きだった。屋島からもそう遠くはなく彩夏と共にドライブを兼ねてよく来て鐘を突いたと云っていた。蝶は暫く僕の肩に留まっていたが立木の中にいつしか消えていった。もう萌美はいないのだなと僕は瞬間そう思った。

 裏切られ、破滅をさせられ、残酷な世界を覗かされた萌美の一生はここに終わった。しかし、萌美の描いた絵は何時までも僕達の心に残っているし彼女との話はライターとしても非常に興味深かった。

たった一年の出来事を二十年間も封印したことも凄いがその中で作り上げ後世に作品を残した萌美はやはり只者ではなかった。その時僕の目の前を先ほどのシロモンシロチョウが呟くように眼前を横切っていった。

「芸術なんて不幸じゃないと描けないよ」  

                             グッドバイ

            了





















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