ここどこやねん(1)
カーテンの隙間からは、夜のネオン街が見える。
エナジードリンクの空き瓶、カップラーメンの空箱、途中まで飲んだペットボトル、書類の束がいくつも無造作に置かれた机で、椅子の上に胡坐をかいた日音はパソコンの画面にかじりついてキーボードを叩いている。クマはひどいが、目は完全にキマっていて、なんだか怖い。
「ふふ、完成が楽しみやなぁ」
窓は閉まっているが、車のクラクションの音が微かに聞こえてくる。
「い……っ!」
突然の激しい胸の痛みに耐え切れず、日音はキーボードの上に突っ伏してしまう。起き上がろうと胸を抑えながら力を振り絞るが、椅子から落ちて体を床に打ち付ける。鈍い痛みを感じながら、そのまま意識が遠のいた。
*
目がうっすらと開くと、なんだか明るくて、体が暖かい。いつの間にか痛みはなくなっていた。
「(朝か……。何かめっちゃ調子ええな)」
日音は柔らかい何かの上で小さくまとまっていた。「気付いたわ」、「やっとね」などの女性たちの声がする。白いワンピースを着た、何人かの女性たちに囲まれていることに気が付き、やっと意識がはっきりとした。
「(どこや、ここ!)」
起き上がると、素足に、自分も同じような白いワンピースを着ている。
「(何やこれ。こんなフワフワ女子みたいな服、知らへんぞ。誰の趣味や、これ)」
周りを見渡すと、十~二十代くらいの色々な髪色の女性たち全員の背に、大きな羽のようなものが四枚ずつ付いていた。小刻みに動くそれを驚いて指差し、
「何や?!その背中についとるもん」
「羽よー」
女性たちはクスクスと笑い始める。
「おもしろい子が生まれたわね」
「変なしゃべり方ー」
「(生まれたって……)」
ふと、ついた手の下を見ると、緑色の葉っぱの上だった。横には、目線の高さに野花と思われる、顔より大きい黄色の花が咲いている。その茎をのぼる虫は手の平サイズだ。つまり異様に大きい。辺りの樹木は、今まで見たどんな樹木より果てしなく大きく、啞然とする。とんでもない森の中にいるようだ。
「(で、でかあ……。ビルやん)」
呆けていると、日音はハッと我に返った。
「仕事!あたし、仕事あんねん。来週締め切りのが……!」
女性たちはざわざわとする。
「この子ちょっと混乱してるみたい。顔でも洗ってきたら?」
「そうねー。カルポス、新しい仲間よ。どこか良いとこ知らない?」
ひょいと顔を出した十代くらいと思われる女の子は、ほかの女性たちとは違い、髪を二つに結っていた。金髪、くせ毛だからか、どこかギャルっぽい印象だ。高めの独特な声で、
「じゃー、近くに良い水場あるから、一緒に行こっか」
カルポスは手を引き、羽をパタパタとさせてふわりと浮く。その様子に、日音は目をひん剥いて見てしまう。
「(……飛んでるやん)」
「早く行くよ?」
「えっ……」
困惑するが、周りの女性たちは構わず、
「あなたも羽を動かして。できるでしょ?」
「(羽?!何言ってんのや)」
日音は自分の背中を見ると、同じような羽があった。
「(何で付いてんねん!)」
引っ張るカルポスにつられたからなのか、フラフラと浮いた。思わず足をばたつかせてしまうが、羽の力で上にふわふわと移動できる。
「浮いてるー!蝶々やん!」
「はぁーい、行くよー」
*
森の中の草木を避けながら進むと、急に視界が開けて湖のようなところに出た頃には、日音は自由自在に飛べるようになっていた。興奮して、
「これすごない?飛べるんやぁ」
同じようなことを何度も独り言で呟き、感動を噛み締めている。カルポスは気にせず、
「この泉ね、あたしもダグリに教えてもらったんだけど、誰も来ないから水浴びだって出来ちゃうんだよ」
「結構遠いんやな。森も似たような感じやろ?迷子になりそうやわ」
「ゆっくり飛んでたんだよ?本当だったらもっと早いし。それにね、森で迷子にならないようにするのにはコツがあるんだよ」
「へぇー」
よくよく見ると、ちょっと飛べば向こう岸に届きそうなくらいの距離に見えるのでそんなに大きい泉ではないことは分かるが、それにしても周りの植物を見ると、全体的に大きい。岸にはシダ植物と思われる葉っぱがたくさん生えている。木漏れ日が当たる泉の水面からは、水底が見えるもののかなり深いようだ。
一人で飛びながら木陰の水辺に近付くと、体全体が映った。髪はショートのストレートで、目はぱっちり二重の猫目だ。日音は驚いてあちこち触ると、頬は間違いなく十代のモチモチ肌で、髪は傷んでいないサラサラヘアだった。十代くらいで、白いワンピースがよく似合っている。
「(かわいい~、じゃないわ。これ、うちやないやろ……!)」
カルポスは暇そうにくるくると飛びながら、
「早くぅー、顔洗ったら?」
日音は間髪入れず、
「あたしの髪って何色に見える?」
「え?茶色じゃない?」
「(普通やな。てか、これ……)」
泉に映る自分を見て、怪訝な顔をする。カルポスのいる上空を見上げ、
「何でこんな羽付いとるん?!」
カルポスはこめかみに人差し指を当てる。
「そりゃあ、ニンフだから?」
「(ニンフ……?)」
もう一度、水辺に映る自分を確認する。
「(これ、夢やんな?)」
強めのビンタを、ノーモーションで自分にかます。カルポスは若干引き気味に、
「痛いよ?!何してんの」
叩いた頬が赤くなり、ヒリヒリとする。無表情で、
「(痛いわ)」と、痛みを確認する。放心状態だが、もう呼吸をするようにホバリングが続けられている。
「(これ、別人……?)」
カルポスは心配そうに、顔をのぞき込んでくる。
「だいじょぶ?」
そんなことには構わず、ぐるぐると考え続ける。
「(ニンフってことは妖精みたいなもんやろ?だったら周りが大きいんやなくて、あたしが小さい?)」
「そんなに変だと変な名前付けられちゃうよー?」
「名前、ないの?」
「まだないよ。いつもはみんなで付けるんだけどー、今回はあたしが付けちゃおっかなー。久々の仲間だし」
日音はふと、実家の母親を思い出す。日音が勉強や友達関係で何かがあると、いくつになっても黙って自室の布団に包まっていたが、そんなときは決まって小さく襖を開けて優しく声をかけてくれた。
『日音。どうしたん?』
昨日聞いたかのように母親の声が鮮明に思い出される。日音はぐっと涙を堪え、声を絞り出し、
「……音。あたしは日音や」
「え、自分で付けんの?ニチネかー。何か変な名前ー」
「よぉ言われたわ」
「?」
カルポスは首を傾げたが、すぐに意識が足元へと移る。岸で足をぴちゃぴちゃとさせ、
「今日良い天気だから気持ち良いよー。ニチネ、だっけ?こっち来なよ」
日音も真似して、カルポスの隣に降りる。足元には黄緑色の苔が生えていて、ベッドよりも柔らかい肌触りに驚いた。
「ふかふかやな!あたし、苔の上って初めて乗ったわ。こんな感じなんやー」
「そうだろうねぇ」
日音が顔を洗うと、水面が揺れ、光が当たっているところはキラキラと輝いている。
「てか、ここってどこなん?」
「ここ?確か、オモルフィの泉、だったかも」
「そうやなくて、この森!」
「えーっと、イプシストスの森?そんなこと気にしなくても大丈夫だよ?」
「で、そのイプシス……はどこなん?!」
どんどん近付いてくる日音の顔の圧に押され、カルポスは困り顔になる。
「えぇー、あたしよりダグリの方がすっごく詳しいよ。帰ったら聞いてみたら?そろそろみんなの所へ戻ろうよ」
「……そうやな」
泉に映る日音は不安げな表情だった。
*
ニンフたちが集まっている場所に戻ると、何やら楽しそうに話しているところだった。
「おかえりー」
「みんなで名前考えてたんだけどね」
カルポスは日音の肩を持ち、
「この子、『ニチネ』がいいって。決めたみたい」
「えー、そうなの?」
「いいんじゃない?変だけど」
カルポスは日音の肩を叩き、自分を指差して、
「ニチネ、あたしカルポス」
そういえば、さっきも誰かがそう呼んでいた。
「(カルポス……。カ〇パス?カ〇ピス?なんかかわいくないわー)……ピスって呼んでもええ?」
「え、あだ名?いいけど……」
「ピスってかわいいじゃない」
「そう?」
ピスは嬉しそうに、
「ありがと、ニチネ」
「それはまぁええねん。それよりこの辺に詳しい人って」
周りのニンフは驚いて、
「『人』?!そんなのこの辺にいないわよ。ねえ、ダグリ」
ニンフたちが振り向く視線の先には、切り株の上に腰掛けているニンフがいた。ほかのニンフよりは少し年上のような風格が漂っている。ダグリは、焦げ茶色のふんわりショートヘアを撫でながら、
「人間はこの辺にはあまり近寄らないわね」
「あたし、東京に戻ってまだやりたいことがあんねん」
東京の、ちょっと汚れた部屋にあるパソコンを思い出す。
ダグリは不思議そうに首を傾げた。
「トーキョー?私もどこだか分からないけど、あなたまだ生まれたばかりじゃない」
「え……えぇ?これ生まれたばっかりの年ちゃうやろ?!てか、親は誰やねん」
「親?私たちは自然発生するからいないわよ。強いて言うならこの森かしらね」
「はぁ?!森なん?!」
「まぁまぁ、生まれたばかりでまだ混乱してるのね。前世の知識が残っちゃってるのかしら」
「えっ」
反応したのは日音だけで、ほかのニンフたちはもう別の話に花を咲かせている。ピスは能天気そうに、
「ダグリも知らないってことはこの辺じゃないよ」
「誰でもええから、パソコン貸してもらえたら……」
「パソコン?それも分からないけど、人間に近付くのはよしたほう
がいいわよ。珍しがられちゃって大変だから」
日音は、鳩が豆鉄砲食らったような顔になり、すべての思考が停止する。
「(珍しいってレベルなんか?人にも見える……。ニンフ見たなんてオカルト番組でもやってへんよな)」
日音は微妙な顔で、
「近くに村かなんかはあるん?」
「エルフの村があるわね」
日音は口を閉じ、息を呑んだ。
「(分かったわ。ここ、ファンタジーの世界や……!)」