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21.かくれんぼの夕方


 フーミュルは開いていた書物から顔を上げた。

 膨大な文献の中の短い注釈でしかなかったが、ようやく婚姻契約解除についての情報を見つけることができた。


 ちょうどよく、お茶に誘われていた。

 ミリセントにとって重要なことだ。早く教えてあげたい。

 フーミュルはそう思って部屋を出た。


 中庭にはミリセントの後ろ姿があった。

 フーミュルが作ったガゼボとテーブルベンチ、その上にはティーポットとカップが整然と並べられ、綺麗に焼けた焼き菓子が皿に置かれている。

 さりげなくお花まで飾られていて、ミリセントがここでのお茶会を楽しみに設置したことが窺われる。


「おまたせ」


 フーミュルの声に振り向いたミリセントはこちらに気づくと、花が咲いたようにぱっと笑った。


 やわらかな風に髪が揺れて、午後の陽光はミリセントの頬を輝かせている。

 フーミュルはこんな美しい光景がこの世にあったのかと感動した。

 眩しい。胸がざわざわするのに目が離せない。


「クッキーを焼きました。あのお店のものには敵いませんが……」


「そうなのか。楽しみだな」


 天気のいい日だった。

 ミリセントはにこにこと微笑んでいて、空は青い。


 まるで、この中庭は外の世界と切り離されているかのようで、この光景は百万年前からずっとここにあり、たゆまなく続いているような錯覚がする平和な午後だった。


 だからフーミュルはごく自然にこの空間を楽しんでいた。

 ずっと探していた情報が得られた安堵もあるかもしれない。珍しく開放感に溢れた気持ちになっていた。


 ミリセントも楽しんでいてくれるといい。

 そう思ったし、実際途中までは楽しそうにしてくれていた。


 そう、途中までは。


「ずいぶんかかってしまったけど、見つけたよ」


「え? 何がですか」


 ミリセントはきょとんとしていた。


「婚姻契約の解除の仕方がやっとわかったんだ」


 そう告げた時、ミリセントは大きな空色の瞳を見開いて、動きを止めた。


 驚いてはいるが、あまり嬉しそうには見えない。突然ナイフで刺されたかのようなその表情に釘付けになるが、我に返って言葉を続けようとする。


「あの……モガッ」


 ミリセントは急に立ち上がってフーミュルの口を手のひらでふさいだ。その表情は固くこわばっている。


「あのっ」

「…………」


「あとで聞きます!」


 ミリセントはそう叫んで、その場から脱兎のごとく逃げていった。


 残されたフーミュルは息を吐いた。

 急用がある感じでもなかったし、体調を崩したようでもなかった。フーミュルの話から逃げたと判断するのが妥当だろう。


 お茶が冷めてしまう。

 フーミュルはそう思ってミリセントの用意してくれたお茶を飲んだ。


 とてもおいしい。誰かが自分のために用意してくれたお茶は、こんなにおいしいものなのか。それとも、ミリセントが用意してくれたからなのか。おそらく後者だろう。


 焼き菓子を齧る。どれも形よく焼き上げられているが、本当はこの三倍はあって、失敗した分をミリセントがこっそり時間をかけて食べているのを知っている。


 ミリセントは、夕食でも絶対に綺麗にできたほうをフーミュルに渡そうとする。それは、くすぐったい嬉しさだった。


 フーミュルは立ち上がって菓子の粉を手で払い、ミリセントを探しに城内へと戻った。


 ミリセントには申し訳ないが、婚姻契約の影響で彼女がだいたいどこにいるか、フーミュルにはわかってしまう。


 ミリセントは彼女の部屋にはいないようだった。

 外に出たようでもないので、中のどこかに隠れている。ゆっくりと身を研ぎ澄ませて位置を探る。


 もう落ち着いただろうか。あそこまでびっくりされるとは思わなかった。


 あまり素早く追っても怯えさせてしまうかもしれない。フーミュルはゆっくりと息を吐いてから歩き出した。


 ミリセントはラレイルが頻繁に来るようになってからだいぶ膨れ上がった彼女の衣裳部屋に隠れているようだった。

 そっと扉を開けると空気が揺れたし、小さく息を呑むような気配もした。


 フーミュルは怯えた野生動物を前にしているように、あるいは年はもいかない子に語りかけるように、優しい声を出した。


「話……してもいいかな」


 衣料品の塊の奥から、カタッと、ほんの小さく音が聞こえる。


「ミリセント……」


 そこまで言った時、フーミュルの顔にドレスが何枚かドサドサと降ってきた。視界を塞がれ、あっと思った時にはミリセントはその部屋を出て走っていく。


 城は広く、ところどころ入り組んでいたが、毎日掃除をしているミリセントはすっかり詳しくなっている。


「に、逃げても無駄なのに……」


 呆然と呟いたフーミュルは、かけられた衣服を床に払い落とす。

 ミリセントの気配に向けて歩き、突き当たりの部屋まで来た。ここは、使っていない客室だ。

 また逃げられるかもしれない。今度は中に入ったらすぐ扉を閉めてしまえばいいかもしれない。


 そう考えていたが、今度は入ろうと開けた途端にぴょこんと何かが跳ねて通り過ぎていった。


「ミリセント?」


 足元にはミリセントの衣服が抜け殻のように落ちていた。どうやらカエルの姿になったらしい。


 ため息を吐いて客室の扉を閉めようとして、ふと開けた部屋の中を覗き込む。

 まったく使っていない部屋なのに、隅々まで磨かれていて、とても綺麗だった。ここにはヘドロ犬も入り込まないので、一度綺麗にすればそこまで簡単には汚れない。ミリセントの掃除の賜物だった。


 そこまで考えしみじみしたフーミュルは、またゆっくりと歩き出す。


 ミリセントは中庭に戻ったようだ。

 ここまで嫌がるならば、もういっそ後日でもいいかもしれない。そんなふうにも思ったが、どのみちいつかは言わねばならないことだ。フーミュルならば気になることがある状態で何日も過ごしたくはない。きちんと話をして、安心させたかった。


 ミリセントは中庭の緑の葉の上で擬態していたが、フーミュルにはすぐに見つけることができた。

 そちらを見ないようにしながらそっと近寄るが、ミリセントは見つからないためにぴくりとも動かない。


 このままかくれんぼをしていても仕方ない。


「ミリセント、ごめん。捕まえるよ」


「きゃあ!」


 片手でさっと掴むと、カエルのミリセントは逃げようと、バタバタもがいている。


「婚姻契約は君の肉体に影響することだから、ちゃんと聞いといたほうが……」


「い、嫌です! 聞きたくありません!」


 ミリセントの声は滲んでいた。


「も、もちろんいつかは出ていこうと思っていました。その時が来るまでに準備はしようと……ちゃんと思っていたんです。でも、こんな早くにその日が来るなんて思ってなくて……やっぱり……」


「ミリセント、とりあえず先に聞いてくれ。十年かかるんだ」


「え? ど、どういうことですか?」


「文献に小さく書いてあったんだけど、婚姻後、十年の時を経れば、簡単な魔術で解除可能になる。十年なら寿命が人外ばりに伸びるのを防ぐには十分だし、大きな問題はないよね? 君がここを出たいなら、その準備もゆっくりできるし……次は離縁成立までを目処にここにいてもらったらどうだろうと思って……」


「そ、うなんですか」


「あの……誤解させたら申し訳なかったけど、行くところがないのに追い出したりはしない」


 ミリセントはボソボソと言う。


「実は先日……ラレイルさんが、お仕事と住む場所を紹介してくれると言ってて……」


「え?」


「話を聞く限りは……悪い話ではなくて。でも、契約解除の方法がわかるまではここにいていいと……そういうお約束だったから……わたしは……それまではいさせてもらおうって、思ってたんです」


「そうだったのか」


「魔王様は……わたしと暮らすの、嫌ですか?」


「えっ?」


「わたしは、毎日楽しくて……こんなに安らいだこともなくて……」


 ミリセントはフーミュルのほうを見て、叫ぶ。


「わたしは、あなたともっと一緒にいたいんです……!」


 フーミュルは実のところ解除に十年かかると知って安心してしまっていた。

 ミリセントからしたら長い年月だが、フーミュルの感覚だとあともう少しだけ解除までかかる、その間はそばにいればいいと思っていた。

 ミリセントに行く場所がないことに安心して勝手にそう結論づけていたのだ。


 ミリセントがここにいるのは何よりも、ほかに行く場所がないという理由があった。それから、契約解除の方法がわかるまでと、軽い気持ちで約束もしていた。


 けれど、こうなるとミリセントがここにいるために必要な理由はなくなってしまった。


 いや、ミリセントはここにいたいと言ってくれている。


 だからミリセントがここにいるために今、必要なのはフーミュルの意思だけだった。


 少し前にぐしゃぐしゃに丸めて、箱に閉じ込めて鍵をかけたはずの気持ちが、いつの間にかそこにある。


 ミリセントはいつの間にか箱を開けて、答えの紙を広げて見せてきている。


 フーミュルは空を見上げる。薄い水色だった。


 それからカエルのミリセントを見た。瞳は今日の空と同じ色をしている。


 なぜだか驚くほど緊張はない。彼女がカエルの姿だからだろうか。いや、本当に腹を括らなければならない時に、無駄な緊張は湧かないのかもしれない。なんにせよ、今きちんと言えなかったら向こう五百年くらい引きずりそうだった。


「ミリセント、俺は君のことが好きだから……できたら……そばにいてほしい」


「え……」


 たとえばもっと前にはっきりと自覚していたとしても、フーミュルはそれを本人に伝えようなんて思わなかっただろう。フーミュルは昔からなんでも自己完結しがちなのだ。


 だからきっとこれは何かを渡すと何かが返ってくる。そんな人との関わりでしか起こらなかったことだ。


「ううっ……わたしも、そばにいたいです」


「うん」


「あなたが、好きだから」


「ああ」


 どこかでそうではないかと思っていた。

 でも、ぜんぜん違うかもしれないとも思っていた。期待して、思ったように好かれてなかったら、嫌われていたら、傷つく。心が揺らされるのが嫌で、何もかも見ないようにしていた。


 フーミュルは手のひらにのせたミリセントに口付けた。


「こ、こんな格好のときに口付けるなんて……」


「じゃあ戻って。俺はカエルじゃなくて、ミリセントに口付けたい」


「だ、ダメ……裸になっちゃう」


「俺のマントで隠すから」


 ミリセントはしばらくためらっていたが、こくりと頷いた。


「じゃあ……魔王様が戻して」


 フーミュルは深く呼吸をしてからパチンと指を弾いた。


 そうして、すぐさまミリセントをマントの中に囲い込む。

 身を屈めて、彼女の柔らかな唇に自分のそれを合わせた。



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