宗教戦争?
名古屋市中区栄を南北に延びる久屋大通り。その中心からやや北側に位置する旧名古屋テレビ塔、現中部電力ミライタワーの足元でのことだった。
太陽が地平線に消え、オレンジ色の街灯が灯り始めた薄暮の中。フィルム映画のように、淡い色に染まるビルの谷間に怒声が響いた。
「てめえ、何言ってんだ!」
「なによ、そっちこそ訳の分からないことを言って!」
辺りに響くその声に通行人たちは足を止め、ある人は心配そうに、またある人は迷惑そうに眉を顰めて視線を送る。
視線の先にいたのは、年齢も性別もバラバラの五人組だった。
観衆の注目も意に介さず、敵意をむき出しにして互いに言い争う。
「いいや、あんたの方がおかしいね、自分が起源みたいな顔してさ」
「あら、本当のことでしょ、歴史が証明しています」
「何を言っているのかしら。起源だったとしても、勢力的には私たちのずっと下じゃないの」
「そうだ、俺たちのほうが主流だろうが。あんたはすっこんでろよ」
「やめましょうよ、そんな不毛なことで言い争わないでくださいよ」
「不毛だとお? てめえ、偉そうにしやがって!」
言うが早いか、取っ組み合いの喧嘩が始まった。
───
「それで、いい大人が五人も集まって、こんな街中で一体どうしたんですか?」
通行人からの通報で駆けつけた警察官が、掴み合っていた五人を引き離しながら言う。
五人は息を荒くして口を尖らせ、反抗期の子供みたいに顔を背け喋ろうとしない。
困り果てた警察官は、頭を掻きながら小さく「まいったなあ」と口のなかで呟いた。とりあえず、一人ずつ話を聞くしかないな。そう思い、目の前の人物に向かって訊ねた。
「なにがあったんですか?」
二十代ぐらいの気の弱そうな男が答えた。
「えっとですね、会社の中の有志が集まって、親睦を兼ねて食事会をすることになったんです。経緯を言ったらそれだけなんですけど、そこで見解の相違というか、主義主張のずれというか、各人の絶対に譲れない信条がぶつかりあってしまったというか……。とにかく宗派が違っていたとしかいえないような状況でして……」
男は周りの反応を伺いながら、おどおどと限りなく歯切れの悪い様子で言う。
次いで警察官が会社名を聞くと、男は誰しもが聞いたことのあるグローバル企業の名をあげた。そんな会社に勤める人間が、こんなにいがみ合うとは。諍いの元となる問題は、かなり根深いのだと見受けられた。
警察官は、癖なのか顎を触りながら思考を巡らせる。
信条や宗派、ということは宗教がらみだろうか? まいったな、宗教が関わると往々にして話がこじれて平行線になってしまう。それに、下手な事を言うと矛先がこちらに向いてしまうから、言葉には気を付けなければ。まずは、全員の言い分を聞くことに徹するか。
そうして警察官は、次の人物に水を向けた。
浅黒い肌をした四十代ぐらいの男が口を開いた。
「とにかく、駄目なもんは駄目だね。こいつらの考えは到底受け入れられない!」
他の四人を睨みつけながら、男は今にも爆発しそうな口調で言い放った。
警察官は辛抱強く次の言葉を待ったが、男はそれきり口をつぐんでしまった。
仕方がないとばかりに、警察官は隣の女に話を促す。
おそらく三十代であろう鼻筋の通った女は、形の良い鼻を膨らませる。
「皆さんが怒るのは分かりますが、それでも起源は私たちにあるんですから、それに従ってもらうのが筋というものです。お巡りさんからも言ってやってください」
女が尊大な口ぶりで述べると、他の面々が一斉に女の方へ振り向く。
また掴み合いの喧嘩をされてはたまらないと、警察官が間に体を入れて「まあまあ」と宥めすかす。
「ちょっと話が掴めないんですが、もう少し具体的に教えていただけませんか」
警察官が出来るだけ穏便に言うと、次は彫の深い四十代と思しき女が答えた。
「聞いてくださいよ、この人たちったら信じられないんです。特に、そこの人なんて豚だって言うんですよ。どう思います?」
女はそう言って、体格の良い五十代ぐらいの男を指さした。
「豚……ですか」
警察官は、予期せぬ答えに戸惑いが隠せず絞り出すように言う。
一体何の話だ。豚って、あの豚か? 食卓でよくお世話になっている、庶民の味方のあの豚か? いろんな諍いを見てきたが、初めて聞くタイプの原因だ。それとなく周囲を見回して豚がいないか確認するが、当然いるはずもない。いや、名古屋の街中にいてもらっても困るが。
すると女に指をさされた男が、売られた喧嘩を買うかのように挑発的な態度で応えた。
「豚の何が悪いってんだ、おめえの牛の方が意味が分からねえ。なあ、お巡りさんもそう思うだろ?」
男の物言いに、警察官は首を捻る。
豚ときて、今度は牛か。実家にいたときは定期的に食べていたような気がするが、一人暮らしになってからはとんとご無沙汰しているな。実際は買えなくも無いのだが、グラム当たりの値段を見るとどうしても躊躇してしまう。
いや、そういえば牛丼を食べたな。牛丼で胸を張って牛を食べた、と言えるかはなはだ疑問だが。
……違う違う、そういうことじゃないはずだ。だが、豚に牛ときたら、やはり宗教的な話なのではないだろうか。戒律で食べられない物が厳格に決まっていると聞くからな。
えっと、豚が禁忌なのは、確かイスラム教だったか? 牛はハラル認証というのがあれば良かったはずだ。業スーで見たことがある。あれ、でも豚が良くて牛が駄目なのはなんだったっけ?
警察官が顎を指で撫でながら考えていると、彫の深い女が反応した。
「ちょっと、牛の何がおかしいって言うのよ!」
男も負けじと言い返す。
「おかしいもんをおかしいと言って、何が悪い!」
二人は互いに譲ってなるものかと睨み合い、段々とヒートアップしてくる。
そこへ、鼻筋の通った女が割って入った。
「お二人とも、豚とか牛が主流みたいな雰囲気やめてください」
この女は豚も牛も駄目なのか。ヒンドゥー教か?
女が言うと、浅黒い男が横から口を出す。
「お前の魚もおかしいだろ」
「あんたの馬の方がおかしいわよ」
新たに魚と馬が参戦したが、そこまでくるともはや何が何やらといった感じだ。
そこに、二十代の男がおずおずと意見する。
「僭越ながら、鶏一択かと」
こんどは鶏か。もうやめてくれ。
再び言い争う面々を前に、ついに業を煮やした警察官が叫んだ。
「いったい、なんの話なんですか!」
すると、全員が一斉に警察官へ振り返った。
「「「「「芋煮の話に決まってるだろ!」」」」」
予想外の答えに、警察官は目を瞬いた。
「芋……煮? 芋煮って、あの芋煮?」
東北地方の名物というあれか? 季節のニュースで聞いたことはあるが、東海地方ではほとんど馴染みがない。
警察官の疑問に、鼻筋の通った女が答えてくれた。
「ええ、そうです。会社の中で芋煮の話になって、せっかくだから芋煮会をやろうという話になったのです。その打ち合わせを兼ねて懇親会を開いたのですが、各人の出身地で入れる具材が違っていて、それが発端で言い争いになったのです」
女が言うと、他の面々も喋り出す。
「芋煮と言ったら豚(※1)でしょ」
「いや、そんなの只の豚汁じゃないの」
「当然、牛(※2)だろう」
「いや、馬(※3)でしょ」
「それはどう考えても異端よ」
「何言ってるの、棒鱈(※4)に決まってるわ。だってそれが起源(※5)だもの」
「そんなのすでに過去の遺物だろ」
「というか、それはいも棒煮っていう、もはや別物では?」
「そもそも、芋煮じゃなくていもたき(※6)ですよね」
「黙ってろよ、四国の田舎もん(※7)が」
こいつらは往来で、こんなことで言い争っていたのか。
堪忍袋の緒が切れた警察官が再び叫ぶ。
「いい加減にしろ! 土手煮(※8、※9)でも食ってろ!」
******* 以下、補足 *******
※1……山形の庄内地域、宮城風及び福島風は豚を用いる。
※2……山形の村山地域は牛を用いる。
※3……山形の置賜地域は馬を用いる。
※4……山形の中山町は棒鱈を用いる。いも棒煮、棒鱈煮と呼ばれる。
※5……諸説あります。
※6……愛媛県大洲市を中心とした地域での呼称。
※7……個人の感想です。
※8……豚のモツや牛すじを赤味噌やみりんで煮込んだ名古屋名物。
※9……味噌煮込みでも食ってろ、でも可。
こんなん書いといてなんですが、芋煮は好きです。
出てきてませんが、鶏派(岩手風)です。