第四話
書くのと読むのとでは、ここまで掛かる時間が違うんですね。
(んっ?結構時間が経っていたんだな)
物思いに耽っていた斗真は、いつの間にか教室にいた生徒達の数が減っている事に気が付いた。
斗真は3階にある教室の窓から外を見下ろすと、既に多くの生徒が学校から外へと出ようとしているところであった。
あれほど騒がしく感じていた教室にも、既に生徒は10人も残っていないようだった。
(そういえば、あの熊警官に会った日から殆どマスコミの連中を見掛けなくなったんだよなぁ。あの熊警官が何かしてくれたのかな?)
熊警官がマスコミに対して、何らかの圧力なりを仕掛けたのかは定かではないし、そもそもあの熊警官がそれを可能にするだけの地位にあったのかどうかさえ、斗真には分からない事であったし、それどころか斗真は、あの熊警官の名前すら知らないのだ。
祖父も熊警官の名前を斗真に伝える事は無かったし、斗真もわざわざ本人にも祖父にも聞くことは無かったからだ。
しかし確かに、あの熊警官との立ち会い稽古の日から凡そ一週間程で、地井家の前にいたマスコミを斗真も祖父も見掛ける事は無くなっていたし、ワイドショー等で自宅を観ることも無くなっていた。
(まぁ学校では、相変わらず教師から頻繁に家での事を聞かれていたし、クラスメイトからも陰口の的にされたままだったけどな)
斗真にとって幸いだったのが、殆どのクラスメイトや同級生達は陰口に興じるのみで、斗真に対して直接何かを言ってきたりする者が少なかった事だろう。
ただ、僅かに存在していた直接絡んでくる者達に対して、斗真が軽く力で応じたところ、それまでに学校で流されていた噂や、テレビでの報道内容を裏付けるかたちになってしまったのは、自業自得とはいえ災難な事でもあった。
その結果斗真は、基本的にボッチとして学校生活を送ることになってしまった。
(まぁ俺としては、クラスメイトとは共通の話題も無かったし、鍛練の邪魔にもならなかったから気楽に過ごせたけどな。…………班決めの時以外はな!)
こうしてボッチ小学生のまま小学校を卒業した後の中学校でも、斗真の生活は学校でも家でも大して変わることは無かった。
斗真の中学生生活で変化したことを挙げるとするならば、家で祖父から簡単な料理を習うようになったり、斗真の亡くなった両親が残していた多額の遺産が入った、斗真の銀行口座の管理について教えてもらったり、スマホを買い与えられたりといった具合であった。
(今思うと、ジジイも自分の死期を悟ってたのかも知れないな)
そんな斗真の、家と学校を行き来するだけの日々は、斗真が中学3年生の夏休み前に終わりを告げた。
祖父が倒れたのだ。
斗真にとってそれは、余りにも突然の出来事であった。
祖父は、倒れる前日まで斗真の鍛練の相手をしており、その後もいつも通りに家事を行っていたからだ。
斗真は直ぐ様救急車を呼ぶと、不安に押し潰されそうになる心を必死で落ち着け、倒れたまま動かなくなった祖父に声を掛け続けた。
駆けつけた救急車に乗せられて病院へと辿り着いた祖父は、そのまま入院となり、以降斗真の鍛練の相手を務める事は無かった。
祖父の入院という不安を抱えたまま夏休みを迎えた斗真は、酷く静かになった自宅で、慣れない家事に追われることとなった。
(あの頃は、手の抜き方が分からなかったんだよなぁ)
今までの斗真は、精々が祖父のお手伝い程度の家事しかしてこなかった為、掃除や洗濯、買い物に食事の用意ととにかく時間が掛かって仕方がなかったのだ。
(夏休みに入ってからは、カレーしか食べなかったもんな)
そんなカレー臭い斗真の下に祖父が帰宅したのは、入院してから凡そ一ヶ月振りの8月の事だった。
斗真は喜びも束の間に事前に連絡もなく帰ってきた祖父に、イヤミの一つでも言ってやろうかと勇んでいた斗真が見たものは、余りにも変わり果てた祖父の姿であった。
70歳を越えて、今なお逞しかった祖父の体は枯れ木のように細くなっており、一本筋の通っていた背筋も今や、その身の重さに耐えられぬとばかりに前のめりになっていた。
呆然とする斗真に祖父は、掠れたようなか細い声で『鍛練は続けておるのか?』と聞いたのだ。
斗真はひきつりそうになる自身の顔に、全神経を集中させると、不自然にならないように気を付けて笑顔を作り『もちろん』とだけ祖父に伝えた。
斗真の返答に、祖父は満足そうに一度頷くと、これからの事について手短に話した。
祖父曰く、自身の命はもう長くないとのことで、既に歩くこともままならず、立ち上がることさえ辛いが故に、斗真を鍛えることがもう出来なくなってしまったとのことだった。
祖父は最期の時を自宅で迎えるために、ヘルパーを雇ったそうで、自身の世話はそのヘルパーに任せて、斗真は変わらず鍛練に励むことと言った。
自身の遺産や資産の管理については、弁護士を雇えたのでその者に任せておけば心配は要らないとのことだった。
斗真は祖父に、『何か自分に出来ることはないか』と尋ねたら、祖父からは只一言『強くなれ』とだけ告げられた。
その日の夜、斗真は一人狂ったように泣き続けた。
それから数日経って新たな生活にも慣れてきた斗真は、学校に申請して新聞配達のバイトを始めた。
それは朝刊のみの配達であったが、斗真の鍛えられた体力もあって、中学生にしては十分な給料を得られるようになった。
その日から斗真は、まだ外が暗い時間に起きて手短に歯磨きと洗顔を済ませると、バナナやプロテイン等の手軽な物を食べてから新聞配達へと向かった。
そして新聞配達から帰宅すると、一時間程鍛練をしてからシャワーで汗を流して、トーストやスクランブルエッグといった朝食を食べて登校するようになった。
下校後の斗真は、近所のスーパーに向かい値引きの品を中心に購入して冷蔵庫にしまうと、ヘルパーの方に挨拶をしてその日の祖父の状態を聞き、それが終わるとまた一人で鍛練を始めるのだった。
そしてヘルパーの方が帰宅した後は、手早く自分の夕食を作り食べ終えると、祖父の部屋で学校の宿題をしながら祖父の様子を窺い、祖父の体調が良い日は短いながらも会話を楽しんだ。
そうして夜の10時を迎える頃には、斗真も自室の床につき翌日に備えた。
祖父の帰宅後の斗真の生活は、概ねこの様な日々の繰り返しであった。
そして月日は流れて、斗真が何とか無事に受験を乗り越えて中学校を卒業し、高校へと入学を果たしてから一月も経たない内に、祖父は帰らぬ人となった。
こうして地井斗真は、高校一年生にして天涯孤独の身となってしまったのだ。
ただ斗真にとって祖父の死とは、鍛練を行えなくなったと告げられた日の事であり、祖父の遺体が火葬場で荼毘に付される時も、お墓に納骨された時も斗真が涙を流すことは無かった。
(まぁ最期の一ヶ月ぐらいは、殆ど死んでいたのと変わらなかったからな。覚悟も決まるわなぁ)
果たして自分は、来年の春を祖父の命日として認識できるのだろうかと、斗真は少し不安を覚えながらも考えていた。
斗真にとって祖父の命日とは、あの夏の日であるという印象が強すぎるのだ。
(あれだけ俺の鍛練に拘っていたジジイが、自分からもう出来ないなんて言ったんだもんなぁ)
それ程までに斗真にとって、祖父と鍛練はセットのような存在だったのだ。
(まぁでも、流石に命日にはちゃんと迎えないとな。ジジイの為にもな)
その決意を胸に、降って湧いたような物思いから脱け出した斗真は、いい加減帰るかと椅子から立ち上がろうと腰を浮かした次の瞬間。
斗真は突然、目の前が見えなくなる程の強烈な光に包まれた。
「キャッ!」
「うわっ!何なんだ一体!」
「誰だッ!何のイタズラだコレはッ!」
「まぶしッ!」
「目がぁ目がぁ」
どうやら斗真以外の生徒にもこの光は見えているようで、未だに教室に残っていた生徒達から、次々と悲鳴や怒号が放たれた。
(ジジイの事なんか思い出していたからか?バチが当たっちまったのかっ)
それはどういう意味なのかと、おそらくギリ天国にいるであろう祖父が、問い返したくなるような事を考えていた斗真に更なる現象が襲い掛かった。
「ちょっ!もしかして浮いてるのっ?」
「何だよこの感覚!一体何が起きてんだよッ!」
「うぅ気持ち悪りぃ」
「おいおいもしかしてコレ!もしかしてコレェェェェッ!」
(おいおいマジで浮いてるのかコレ!?確かにちょっと気持ち悪いな。……ってか今!何か心当たり有りそうな奴いなかったかコラァッ!)
突然の閃光によって視界が白く潰されたままに、今度は身体中を謎の浮遊感が襲い始めていた。
何か心当たりの有りそうな言葉を叫んでいたクラスメイトに、斗真が何事か問い掛けようと息を吸い込んだ瞬間、それまで閃光によって真っ白に塗り潰されていた視界が、一瞬で暗転したのを感じた。
すると、先程まで感じていた浮遊感も無くなり始めて、少しずつではあるが視界も戻り始めていた。
(一体何だったんだ今の?…………もしかして白昼夢ってやつか?それとも集団ヒステリーってやつだったのか?)
「おっおい!皆無事か!?生きてるのか俺は!?」
「はぁようやく治まったのね。一体何だったのかしら今の?」
「おいっ!未だ何も見えないぞっ!どうなってんだクソッ!」
斗真は身体中を襲っていた違和感が無くなっていくのに併せて、自分達の周囲に複数の気配を感じることに気が付いた。
(なっ!?囲まれてるッ!いつの間に!?)
斗真は直ぐ様動くべきか否かを考え始めたが、未だに視界が利かず状況がハッキリと分からないために、どうするべきか判断できなかった。
しかし斗真やクラスメイト達が、思い思いの言動をとっている間にも、その気配の主達は動く様子を見せなかった。
(早くッ!早く視界よ戻ってくれッ!ホントにお願いしますからっ!)
周囲に気配を感じているのに全く見えないという状況に、斗真が焦燥感や恐怖心を感じすぎて、思わず軽挙を起こしてしまいそうになる寸前、ようやく視界がハッキリとするようになった。
しかし、即座に周囲に視線を走らせた斗真が見たものは、余りに現実感が無かったせいで、余計に斗真の頭を混乱させる事になった。
(はぁっ?俺達確かに教室にいた筈だよな?移動なんてしてないよなぁ?…………っそうか!あの浮遊感か!ってあんな浮遊感だけで教室からこんなだだっ広い運動場の様なところに移動できるわけ無いだろ!ってか完全に外だよなココ。机も椅子も無くなってるし、地面はグラウンドみたいだし、風も吹いてるし、何か金属の鎧みたいなの着けてる奴等がいるし、そいつら剣まで持ってるし、盾持ってるし、槍や弓っぽいのを持ってる奴等もいるし、多分そいつらが守っているであろう椅子に座ったお偉いさんみたいなのもいるし、そんな中でフード被って杖持った連中は滅茶苦茶浮いてるし………………ってか剣とか鎧とか盾とか何だよっ!日本の法律でアレってセーフなのっ!?治安ユッルユルなの!?ってか本物かアレ?本物っぽいなアレッ!こんなのもう無理だろ。どうにもできないだろこの状況!誰だよいきなりこんな状況にした奴はっ!出てこいよ!出てきて説明しろよ!命乞いだけは聞いてくれよッ!)
斗真は心の中だけで盛大に発狂すると、事態の推移をほぼ諦めたような心持ちで見守った。
斗真のクラスメイト達も周囲の状況を認識すると、借りてきた猫の方がまだうるさいだろうと思われるほどに静まり返っていった。
辺り一面が何とも言えない静寂に包まれる中、斗真を含めた生徒全員の視線が、自然と一人の男に注がれた。
その男は、周囲の視線が自身に集まった事を確認すると、おもむろに立ち上がり一歩前に進むと、生徒全員と一度目を合わしてから口を開いた。
「ようこそ参られた、救世主殿……たち?……うっウォホン!ようこそ参られた救世主殿達よ!」
どうやらこの状況に混乱していたのは、斗真達だけでは無いようだった。
勿論それが、斗真やクラスメイト達にとって、何の慰めにもならないことは言うまでも無いことであった。
読んでいただきありがとうごさいます。