第三話
想像していたよりも、時間が掛かるものなんですね。
突然の展開に戸惑うだけの斗真であったが、熊警官が言った『鍛練の成果を見極めさせてほしい』という言葉の意味を、自分なりに理解しようとしていた。
(もし俺が、この熊警官に勝てたなら、じぃちゃんが俺に叩き込んでいるのは、間違いなく武術であって虐待なんかじゃないって信じてくれんじゃないのか)
斗真は祖父共々、いい加減一連の騒動に飽き飽きしていたのだが、この立ち会いが騒動にまつわる全てを吹き飛ばしてくれるのではないかと考えていた。
そこに具体的な根拠等はなく、有るのは只、斗真の願望だけであったのだが、斗真が全力で立ち会うには十分な理由となっていた。
(いやそもそも勝てるのかコレ?デカイじぃちゃんより更にデカいんだぞ)
斗真の祖父は高齢に見会わず、その背筋には一本筋が通っており、身長自体は175センチメートル程であったのだが、その立ち姿から身長以上に大きく見えていた。
しかしその祖父でさえ、熊警官と並んでしまうと小さく見えてしまう程に、熊警官の体格は群を抜いて大きかった。
(っていうか、あの警察官の木刀に掠りでもしたら、俺死ぬんじゃないのか?…………っていうか)
「木刀ちっさ」
思いがけずに漏れてしまった斗真の呟きに反応するかのように、熊警官から尋常ではないプレッシャーが放たれた。
今まででさえ、熊警官のデカさにビビってまともに動けなかった斗真にとって、放たれたプレッシャーをその身に纏う熊警官は、既に人ではなく、人の形をした熊そのものであると感じていた。
(あぁ俺死ぬんだ。今日ここで死ぬんだ。ハハッ結構頑張って鍛えたんだけどなぁ。じぃちゃんより強くなりたかったんだけどなぁ)
斗真の心と体を諦めが支配しようとする寸前、祖父から斗真に向けて強い視線が送られた。
(ッ!……何だよ今の……ってか横からいきなり殺気染みた視線を飛ばすとか何なんだよ!じぃちゃんには死に逝く孫への優しさとか無いのかよっ!)
熊警官の発するプレッシャーを突き破るかのようにして、祖父から放たれた視線を受けた斗真は、心の中で強く憤慨していた。決して口には出せないので心の中だけでなんとか留めていた。
(くそジジイがッ…………ってアレっ?なんかじぃちゃんの方が熊警官より恐くね?……じぃちゃんとの鍛練を思い返せばなんかやれそうな気がしてきたぞっ!)
斗真は、先程まで自身を満たそうとしていた諦念が、理不尽に対する怒りに流されて、今は既に僅かも残っていない事に気が付いた。
そして一つ深呼吸をした斗真は、今一度真正面から熊警官を見据えると、静かに覚悟を決めた。
(冷静にはなれたけど、やっぱり勝てる気はしないなぁ……ッでもやるしかないんだ!今の俺に出来る最高の一刀で立ち向かうんだ!)
斗真は自身の覚悟を後押しするように、もう一度だけ深呼吸をすると、諦めと恐怖に固まってしまっていた身体を解すように、または喝を入れるようにして、足下から順に力を入れていった。
(よしっ!いつも通りに動けそうだ。これならやれるぞ!)
斗真は自身の動きに、一切の淀みが無い事を確信すると、それまでの硬直ぶりが演技であったかのような速さで熊警官へと踏み込んだ。
「やぁッ!」
斗真の、12歳の少年とは思えない程の、高速の踏み込みから繰り出された振り下ろしの一刀は、しかし次の瞬間には熊警官の木刀に受け止められていた。
斗真の耳を打ったのは、木刀同士が打ち合わされる甲高くも乾いた音のみであった。
(受けられた!?でもここから「ぅぐふッ!」)
斗真は、渾身の一刀が簡単に受け止められた事による驚きを即座に流して、次の一刀を繰り出そうとするも、気付けば最初に自身が立っていた位置よりも、更に後方へと吹き飛ばされていた。
(クソッ何なんだ今のは…………まさか蹴りなのか……蹴りやがったのか!)
斗真は吹き飛ばされた状態から素早く顔だけを上げて、熊警官の姿を確認すると、自身を吹き飛ばすに至ったものの正体を即座に察した。
(あの熊警官、蹴りまで入れてくるのかよっ!益々近付けねぇぞッ!)
只でさえ、身長150センチ後半の斗真と190センチ程の熊警官の間には、体格差から来る間合いの広さの違いが大きくあるというのに、熊警官の木刀のみならず、蹴り足にまで気を付けなければならないとなると、更に間合いを広く取って回避に余裕を持たさなくてはならなかった。
「ほう!中々の一刀。その若さでよく鍛えられている。ところでコレで終わりなのかな?それほど強く蹴ったつもりは無かったのだが、加減を間違えてしまったかな?ハハハッ!」
思考が纏まらずに、蹲ったまま熊警官を見つめる事しか出来なかった斗真に、初めて話し掛けてきた熊警官の言葉は、斗真の実力を認めつつも、どこか物足りなさそうに感じているような口振りであった。
それを受けた斗真は素早く立ち上がると、木刀を構え直して熊警官へと再び向き合った。
「まだまだやれます!お願いします!」
「よし。では遠慮無く掛かってきなさい」
「行きますっ!……やあッ!はあッ!せやぁッ!」
(舐めやがって!バカにしやがって!ふざけんなよデカいだけのおっさんがッ!絶対そのスカした面に木刀叩き込んでやるッ!)
再び熊警官へと打ち込み始めた斗真は、自身の心の中に、祖父との鍛練の時には感じることが無かった想いが芽生え始めている事に気付いた。
しかし斗真は、芽生えた感情を抑えること無く、逆にその感情に身を委ねるようにして、熊警官に木刀を縦横無尽に打ち込み続けた。
「ほう。中々良い動きだ。しかしまだまだ温いな……っ!ホレッもう終わりかな?」
「チッ!…………クソッ」
熊警官は斗真の打ち込みを全て、難なく木刀で受け流し続けると、斗真が僅かに体勢を崩してしまい、しかしそれを力任せに補おうと無理な体勢から繰り出された一刀を、敢えて強く弾くと、その衝撃を受けてがら空きとなった斗真の腹部に蹴りを繰り出して吹き飛ばした。
「ヴッ!……クソッ!」
「さぁまだまだ始まったばかりだよ少年。早く立ちなさい」
「ッ!……やったらぁッ!ウラァッ!」
熊警官に急かされるようにして立ち上がった斗真は、祖父との鍛練の時には出さないような言葉を吐いて、三度熊警官に踏み込んだ。
そこからはこれ迄の繰り返しのように、斗真が繰り出す一刀を熊警官は、時に受け、時に受け流し続けた。
そうした中で、斗真の動きが鈍ったと感じるや否や熊警官は、斗真の木刀を弾くと、空いた胴体に蹴りを叩き込み、幾度も斗真を蹴り飛ばした。
「ハァハァ…………クソッ!」
「ふむ。そろそろ限界かな?まぁ無理だと思ったら遠慮無く『参りました』と言いなさい」
「くっ、誰がッ!オラァッ!」
「ハハハッ!元気があってよろしい」
「うるせぇっ!クソッ!はぁっ!!オラァッ!!!死ねぇ!!!!」
斗真は、今の自分達がどれだけの時間立ち会っていたのかさえ分からなくなっていた。疲労からか、はたまたこれ迄に蓄積されていた痛みからか、斗真は遂に立ち上がる事が出来なくなっていた。
斗真が意識を失う前に見上げた熊警官は、立ち会う前とさほど変わらない様子で、斗真の事を見つめていた。
「うぅ…………くそぅ」
「ほう。最後まで参りましたと言わないとは、中々に負けず嫌いなお孫さんですなぁ」
「ふんっ。ワシが丹誠込めて鍛えておるんじゃからこのくらいはやって貰わねばのぅ。それよりもお主はもうよいのか?」
「はい。十分に堪能……いえっ見極めさせて頂きました。この度はこの様な機会を与えていただき誠にありがとうごさいました」
「そうか、まぁ斗真にとっても得難い経験になったようだし此方としても感謝しておこう」
「はっ。それでは自分はこれで失礼させて頂きます。お孫さんには、今後も励むようにとお伝え下さい」
「うむ。久方ぶりにワシ共々良い時間を過ごせた。斗真にはワシから間違いなく伝えておこう」
気絶した斗真をそのままにして、二人の大人は何やら互いに感謝を送りあっていた。
次に斗真が目覚めたときには、自室の布団に寝かされており、時間は既に夜になっていた為、当然そこには熊警官の姿は無く、斗真は先程までの激闘を、昼寝に勤しんだ自分が観た夢なのではないかと疑った。
「おぉようやく起きたか斗真。既に夕食は出来ておるから早く食べなさい」
「じぃちゃん……イテッ!」
(あぁ、やっぱり夢じゃなかったのか)
布団から起き上がろうとした斗真の体中に、先程までの激闘が夢ではないと伝えるかのように、激痛が走った。
只、その痛みのお陰で斗真の目は完全に覚めており、一つ気合いを入れると直ぐ様立ちあがり、夕食を食べるためにリビングへと足を進めた。
(うおっ。唐揚げに豚カツにカレーとか、めっちゃ豪華じゃん)
「ホレッさっさと食べんか。冷めると味が落ちてしまうぞ」
「うん。頂きます!……美味い。美味いよじぃちゃん!」
「ホッホッホ。まぁこの程度ならいずれ斗真にも作れるようになるわい」
起きたばかりの人間には、些か以上に重たい筈のメニューを、斗真は次々と掻き込む様にして味わった。
そうして斗真が幾度かのお代わりをして、満腹感に身を委ねていると、祖父から先程までの立ち会いについての話し合いが行われた。
「うむ。ワシも今日になって知ったことなのじゃが、斗真はまだまだ感情の制御がなっておらんな。ワシとの立ち会いの時に、あれほど迄に感情を剥き出しにして打ち込んできた事は有るまい。斗真よ、何故今日はあれほど迄に感情的になったのじゃ?」
「………………」
祖父からの問い掛けに斗真は、答える事が出来なかった。
それは斗真自身もまた、熊警官の何があれほど迄にカンに障ったのか理解できていなかったからであった。
祖父からの問いに、今一度深く考え込んだ斗真は、何とか答えらしきものを絞り出した。
「あの時は、俺もよく分からなかったけど、今思うとあの巨体から発せられるプレッシャーとか、蹴り飛ばされた事とか、参りましたと言えと言われたこととか、じぃちゃんに言われた事なら大して気にならなくても、他人にやられると滅茶苦茶腹が立ったんだ。」
言われてみれば当たり前の話である。
斗真にとって、今日初めて会っただけのよく知りもしない他人が、まるで鍛練の時の祖父のような振る舞いを見せたのだ。
只でさえ斗真は、普段から祖父以外の人との交流が少なく、こと鍛練に至っては、祖父以外の者とは一切行ったことがなかったのである。
その様な斗真に、あの熊警官を同門の師範や兄弟子のように思い、敬意をもって立ち会えと言うのは、土台無理な話であった。
その事に思い至ったのか、はたまた思い至らなかったのかは定かではないが、祖父は特に追及するようなことは無かった。
「そうか……まぁそれは良い。人である以上完全に感情を殺して立ち会うことなど出来ないのだからな。重要な事は感情に振り回されること無く、逆に利用出来るようになることじゃ。特に斗真は怒りが全面に出ると、途端に動きが力任せになっておったからな。その事に気付けておったか?」
「………………」
斗真は当然のように気付いていなかった。
しかしあの時の事を思い返してみると、確かに思い当たる節はあったのだ。
熊警官は基本的に受けに徹しており、斗真に向けて木刀を振るう事は無かったのだ。
熊警官としてもいくら斗真の実力を知り、そこから普段からこの家で行われている事が武術の鍛練なのか、その名を借りただけの虐待なのかを見極める為とは言え、160センチ弱の斗真に木刀を振り下ろせば、よくて骨折、悪ければ何らかの後遺症が残る様な怪我を負わしてしまうのではないかという懸念が拭えなかったからであった。
どこぞのイカレた祖父のように、鍛練の名の下に容赦なく斗真の体に木刀を打ち込むことは出来なかったのであった。
そうした熊警官が苦肉の策として用いたのが、蹴りによる吹き飛ばしであった。
100キロを優に越える熊警官の蹴りは、その半分程度の体重しかない斗真にとって、十分以上に脅威となっていたのだが、熊警官としては木刀を打ち付けるよりは、まだマシであろうと考えていたのだ。
しかし斗真にして見ればその熊警官の動きは、まるで自分には木刀を振るうまでも無いと思っているのかと酷く侮られているかのような印象を与えてしまい、余計に斗真の神経を逆撫でする結果となってしまった事は、熊警官には知る由も無い事ではあった。
そして件の熊警官は、基本的には受けに徹していながらも、時に斗真の木刀を弾き蹴りを繰り出してきたのだが、その時の斗真にとってそれは突然行われる事であって、何らかの予兆のようなものは無いと思っていたのだ。
「もしかしてあの熊警官が蹴り飛ばしてきたのは、俺が怒りに任せて打ち込んだからなのかな……?」
「……熊警官?まぁ良い。斗真の考えは間違っておらんじゃろう。斗真の怒りに任せた力ずくの太刀筋を見る度に、あやつは仕切り直すかのように斗真を蹴り飛ばしておったからのう。」
「そうだったのか。……もしあの時それに気付けていたら、蹴りを誘発させて隙を作れたかも知れないのに……クソッ!」
「ほう。すぐそれに思い至るとは、流石はワシの孫じゃ。これからの鍛練はその辺りの事もしっかりと意識して行うことじゃな」
「はいっ。次は絶対あの熊警官に一撃入れてみせます!」
「うむ。よい返事じゃ斗真よ。まぁ今日はこれぐらいにしておこうか。色々と言いはしたが、あの様なプレッシャーを放つ巨体の男を相手に、真正面から挑んで行けたのは素晴らしい事じゃ。並みの者ならばまともに動くことすら出来なかったじゃろうからな。それを斗真は気を失うまで打ち合ったのじゃ。本当にようやったぞ斗真。ワシは斗真を誇りに思うておるぞ」
祖父は最後にそう締め括ると、穏やかな顔で斗真を褒め称え、その頭を優しく撫でたのだった。
斗真にとってこの日の出来事は、多くの経験を得られた実りの多い日であり、また翌日から地井家を取り巻く事態が、好転し始めた縁起の良い日でもあった。
読んでいただきありがとうごさいます。