唯李七変化 2
「もう、悠己くんまで泣くのやめてよね。お兄ちゃんだから、泣いたりしないんでしょ」
――悠己はもうお兄ちゃんなんだから。瑞奈の前でも、そうやって泣いてちゃだめよ。
まだ瑞奈が生まれて間もない頃。
そう声をかけながら頭を撫でてくれた母の手は温かくて、優しくて、元気が出た。
何かきっと不思議な力があるのだと思った。
だから瑞奈をなだめるときも、そうやって真似をした。
その力が母の半分でも、いや十分の一でも、伝わればいいと思って。
そんなことを今ふと、思い出した。忘れていた優しい手の感触。
だけど、母は母であって、唯李は唯李。もうどこにもいない、まったく別の存在。とんだ思い違いも甚だしい。
それに今は自分も、何もできない小さな子供ではないのだ。これ以上彼女に負担を……頼るような真似をしてはならない。
悠己は顔を上げて、まっすぐに唯李の瞳を見つめた。
今かけるべき言葉が、やっと見つかった。
「唯李……」
そうして悠己が口を開こうとしたそのとき。
頭に触れていた唯李の手が、ぱっと素早く離れた。
「なーんて、言ってみちゃったりしてね!」
うってかわって突き抜けて明るい声がする。
軽く腰をかがめた唯李は上目遣いに悠己を見て、
「さっきのもウソウソ、全部ジョーダン! 唯李ちゃん強キャラだからよゆーですよゆー! ちゃんゆいは伊達じゃない! それより見たかどーだ、頭なでなでやり返してやったぜ! あれぇあれぇ~どしたの悠己くん、健気に頑張る唯李ちゃんにドキっとしちゃったかな? 頭撫でられて惚れた? 惚れた?」
お得意のからかい笑いを作って顔を覗き込んでくる。
さらに立てた人差し指を、顔の目の前でくるくると回すという新技つき。
またしてもやられた。
はっと我に返る感覚がして、すぐに体が脱力しかけたが……それでもどこか安堵している自分がいることに気づく。
それを悟られないよう、悠己は大きく息を吐いて肩をすくめてみせた。
「なんだ嘘か。あやうく騙されるところだった」
「きれいに決まったな~痛恨のクリティカルなでなで入ったわこれ~。一発で棺桶入りさせたったわ~」
んふふふふ、と唯李はさもご満悦の表情。笑いが止まらないらしい。
かたやこちらは怒るのを通り越して呆れるのを通り越して、もはや返す言葉もなかった。
だけど、唯李が楽しそうに笑っている。
それだけで、もう他のことは何でもいいかという気もした。
「この完璧な流れ! 自分が怖い! それにしてもさっきの悠己くんの顔! くすくす、写真撮りたかったなぁ~ねえねえ今どんな気持ち? どんな気持ち?」
唯李はにやにやしながら左右に体を揺らして、角度を変えながら顔を見上げてくる。
これには早くも前言撤回したくなる。しつこい。
「たは~もう返す言葉もなくなっちゃったか~。ザ○ラル? ザ○ラルする?」
「いやぁでも俺、ちょっと唯李のこと誤解してたかもしれない」
「え?」
「だからなんていうかその……隣の席キラーも、そう悪くはないのかもって」
過程はどうあれ、結果はいいほうに転がった。思い返せばそれは瑞奈のときだってそうだ。
頭ごなしに単純に悪と決めつけるのはよくないのかもしれない。
だから隣の席キラーを退治すればいいだとかそういう単純な話ではなく、それも彼女の一面として、認めてあげるべきなのかもしれない。
悠己がそう思い始めていると、
「いや……ていうかあの、隣の席キラーって……嘘だからね?」
「は?」
急に真顔に戻った唯李がそう返してきた。
予期せぬ返しに頭が混乱し始める。
「いやさっき凛央にも『あたしは隣の席キラーだから』って言ってたよね?」
「いやいやあれはただの方便っていうか……あの凛央ちゃんですらちゃんと理解してるよ? あんただけだよわかってないの」
「どういうこと? じゃあさっきのは全部茶番だったってこと?」
「茶番言うな」
唯李は当然のごとく否定するが、となるといろいろとつじつまが合わない。
「じゃあ仮に本当に隣の席キラーじゃないとしたら、今のはなんだったの? それと今までの思わせぶりなのはいったい何?」
「隣の席キラーやぞ。絶対殺したるからな」
そして一瞬にしてこの手のひら返し。
悠己が唖然とするも、唯李は挑戦的な顔で見上げてきてそれきり何も言おうとしないので、頭をフル動員して考える。
つまり……あの場で凛央を完全に落としきるために、一時的に偽の隣の席キラーを装った真の隣の席キラー。
そしてついでに悠己のこともやっちまおうとノリにノっていた。
あまりにも高度で理解が追いつかなかったが、つまりそういうこと。
「なるほどわかったそういう……俺じゃなかったら見逃しちゃうね」
唯李はすぐさま何か言いかけたが、すんでのところでキュッと口を結んで閉じた。
そして恨めしげに睨みをきかせてくるので、悠己はおもむろに手を伸ばして頭を撫でてやる。
「大丈夫大丈夫、怒ってないから」
はっとした唯李はみるみるうちに顔を赤くしたかと思うと、どういうつもりか負けじと腕を伸ばして、悠己の頭を撫で返してきた。
「悠己くんはもうしょうがないでちゅねぇ~!」
お互い頭を撫で合うという謎の状況になるが、唯李は一歩も引く気配がない。
それどころかわしわしと撫でる手にだいぶ力が入っている。
「あ~凛央ちゃんも完全に落としたったわ。また勝ってしまった……敗北を知りたい……。悠己くんも早く泣いて敗北宣言しなよほらほら」
しまいには悠己の頭をべしべしとやると、唯李はべえっと舌を出して大きく一歩距離をとった。
やはりこれは完全になめられきっている。
(やっぱり甘やかし過ぎは良くないのかもなぁ……)
時には厳しくいかないとその人のためにならないのかもしれない。
少しは凛央を見習うべきかも、と悠己は思った。
「ホラ、ぼさっとしてないで早く行くよ!」
いつの間にか先に立った唯李が振り返ってせかしてきた。
道路を流れる車のライトが、逆光に彼女の姿を浮かび上がらせる。
唯李は手招きをするように大きく腕を振りながら、「早く早く!」と笑ってみせた。
とらえどころのない笑顔へ頷きを返すと、悠己は後を追って歩き出した。
改めて唯李に心酔した凛央。
隣の席ブレイカーを骨の髄まで食らいつくした隣の席キラー。
いずれにせよ更生への道のりはまだ長い。
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