邪魔者
「今日から悪口禁止週間を始めます。他人の悪口を言っている人を見つけたら、先生に言うこと」
それがいつからだったかは定かではないが、今でも明確に覚えているのは、小学生の時分、担任の教師が朝のホームルームで突然そんな事を言いだしたことだった。
誰かの悪口を言う者がいれば、先生に報告をする。報告された者は、みんなの前で悪口を言った相手に謝罪をさせられる。
今思い返せば他にもっとやりようがあるのでは、という疑問もわくが、当時の凛央は疑いなく受け入れてそれに従った。
もともと正義感の強い性質だった。それはかつて中学の教員をしていた母の影響か。
男子女子の見境なく、あちこちわざわざ首を突っ込んでは、ちょっとした悪口も取り上げて密告した。
あとになって「あれは冗談だったのに」と責められようが、「それは受け取り側の問題」と誰かの受け売りを振りかざして、聞く耳を持たなかった。
後ろめたい気持ちなんてまったくなかった。それどころか、正義を果たした気でいた。いつしかそれがエスカレートしたのだと思う。
もう一つのきっかけは、クラスの男子がお菓子をこっそり持ってきて食べていた、だとかそんなことだった。
その子が誰かの悪口を言ったわけではなかった。むしろ悪口を言うような子でなく、クラスのムードメーカー的な存在。
そもそも、そのときには悪口禁止週間はもうとっくの前に終わっていた。
それを頭ごなしに注意して、告げ口した。
――勘違い正義女マジうぜーよ。
実はお菓子を持ってきたのはその子ではなかっただとか、友達にそそのかされて食べさせられたとか、凛央が教師に告げた内容とは違う別の事情があとになって出てきた。
孤立するのも時間の問題だった。気づけば凛央の周りからは人がいなくなっていた。それどころか陰口を叩かれだす始末。
それでも凛央は逃げることはせず、真っ向から謝罪をして、話し合いを求めた。
――なんであんな上から目線なの?
――偉そうに。調子乗っててマジうぜえ。
話をするように正面から促しても、茶化されるばかりでもはや取り合ってはもらえなかった。
自分に対し悪態をつく声が、露骨に耳につくようになった。
間違ったことはしてないつもりだった。
黒のものでも白、白のものでも黒、ときにはそう言うことが必要。
頭ではわかっていたが、それでも自分を曲げることはしたくなかった。いや、できなかった。
ここで迎合したら、自分がしてきた行為を、すべて自分で否定してしまう気がした。
たとえ陰で何を言われても、自分はもともとそういう性格だから。
意地を通すために、半ばそう自分に言い聞かせていたのかもしれない。
凛央は早くに悟った。それには覚悟が必要だと。一人でもやっていく覚悟が。周りになんと言われようと気にかけない強い意志が。
その点凛央は強かった。優れていた。
勉強や運動でつまづくことはなく、常に好成績をキープし、教師からの覚えもいい。
陰口こそあれど、面と向かって来るような相手はいなかった。
一人だってなんとかなってしまうことがわかってからは、より一層孤立が強まった。
うまくできずに頑張っている子がいる横で、さらりとこなす。
ときおり見てられなくなって、手を差し伸べたりもしたけども、そういう行動が鼻につく、とすぐ悪評になる。悪循環。
自分は親切にしてあげたつもりでも、露骨に嫌な顔をされたりすることもあった。
何をしても自分は嫌われる人間なのだ。
そう割り切って、もうすっかり慣れていた。
ずっと一人だって、自分は大丈夫だってわかって。
これからも、そのつもりだったのに。
――花城さん、よろしくね! や~隣が女の子だと気が楽だな~。
――凛央先生お願いします! お願い! 次はちゃんとやってきますから!
――今日はもう完璧ですよこれ、どやぁ~。……えっ? 違う? あぁん、もう凛央ちゃんあたしとボディチェンジしようボディチェンジ!
毎日毎日、隣で声をかけてきて、笑いかけてきて。
いくら邪険にしても、まったく懲りもせずに、しつこく、うっとうしいぐらいに。
だけど、うれしかった。そのとき、改めて気づいた。
まだそういう気持ちが、自分の中にあったのだと。
いくらのけもの扱いされて、一人になって孤立しようとも、私は強いから、大丈夫。
自分ではそう思っていたつもりでも、その実ずっと、深いところまで棘が刺さっているのだと思った。
彼女のことで取り乱して自分を見失って、冷静に周りが見えなくなってしまうぐらいには。
「――なにおうちゃんゆいの分際で! って言ってやったの。そしたら…………ねえりお? 聞いてる?」
「あ……うん、聞いてるわ、ごめん」
「もう、どしたのさっきからぼうっとして! とにかく絶対ナイショだからね? 瑞奈にバレてるってわかったら、ニセ恋人やめちゃうかもしれないし。瑞奈はね、二人が本当に恋人同士になってくれたらいいなぁって思ってるの。なんとかくっつけてあげようと思ってるんだけどね~」
「でもなかなかうまくいかないんだよね」と瑞奈は無邪気に笑う。
屈託のない笑顔を向けられて、まるで胸を射すくめられたように体が強張り、息が詰まる。
そんな事情もつゆ知らず、二人の仲を勝手に曲解して、邪魔をした。
自分の、勘違い……勝手な思い込みで、あれこれと横槍を入れて……迷惑以外の何物でもない。
知らなかったこととは言え、唯李を信じられていなかったのは自分のほうなのだ。
(私のせいで……)
うれしそうに唯李のことを話す瑞奈。
彼女はここでも優しくて、愛されていて……もともと自分のような人間が釣り合うわけがないのだ。関わりあいになるような人種ではない。
席替えをしてたまたま隣の席になった。接点はそれだけ。だから偶然以外の何物でもない。
結局こうなる運命なのだ。いるだけで不愉快な存在。嫌われる存在。そういう人間。
唯李のおかげで……唯李のせいで。そんな当たり前のことを忘れかけていた。
やっぱり間違いだったのだ。彼女の……唯李の優しさに舞い上がって勘違いした、勝手な思い上がり。
(どうしたって、私は……)
不純物。ただの邪魔者。どこまで行っても嫌われ者。
それなら邪魔者は邪魔者で、嫌われ者は嫌われ者のままで。
正義面した、ただの勘違い女は、もうこれ以上一緒にはいられない。一緒にいてはいけない。
二人のために、身を引く。
これは、そんな格好のいいものじゃない。
だってこんな調子では、いずれ……。
――ほんと邪魔。マジウザい。
その言葉を、唯李の口からだけは、どうしても聞きたくなかった。
そんなことになるぐらいなら、目を閉じて、耳をふさいで、一人でいるほうがずっといい。
何も難しいことはない、ただ元に戻るだけなのだ。彼女と出会う前の自分に。
簡単なことだ。あとはそれをはっきりと、面と向かって告げればいいだけ。
「それより早く準備準備!」と瑞奈は再び買い物袋をガサゴソとあさり出す。
その中の一つ、取り出したお菓子の箱を手にして、ふと手を止めた。
「あっ、しまった! きのこしか買ってこなかった……。これじゃ戦争できない……。ちょっとまた行って買ってくるから、りおは準備して待ってて!」
瑞奈はそう釘を刺すと立ちつくす凛央を残し、バタバタと慌ただしく部屋を出ていった。