言いなり券
週明け。特に何の変哲もない月曜。
いつものように一人で登校し教室までやってきた悠己は、室内の喧騒の中を誰にも声をかけられることなくひっそりと抜け、自分の席までたどり着く。
静かにカバンを机に乗せ、ガガガと椅子を引くとその音に反応したのか、隣で携帯をいじっていた唯李がちら、と目線をこちらに向けてかすかに微笑んだ。
「おはよ」
「……おはようございます」
そう挨拶を返すと、悠己はそれきり無言で席に座ってカバンから本を取り出し、視線を落とした。
すると少し間があって、横から唯李の声が飛んでくる。
「ねえねえ、何読んでるの?」
「本」
悠己は目もくれずにそう答える。
またも少し間があった後、今度は隣からジリジリと無言の圧というか、プレッシャーのようなものを感じていると、急に唯李が身を乗り出してきた。
「ちょっと待って」
「はい?」
「なんでリセットしてるの?」
「リセット?」
顔を上げると、唯李が仏頂面でじいっとこちらを見ていた。
なんだか責められているようだが、わけもわからず悠己が首を傾げると、
「いやあのね、先週いろいろあったでしょ? あたしとしてはそれなりに……距離感的なものが縮まったかなって思ってるわけなんですけど。それがなんでリセット……っていうかむしろ悪化してるわけ?」
「なるほど」
「いやなるほどじゃなくて」
半分ぐらい話が右から左に抜けて理解できなかったので、とりあえず「なるほど」と言ってみた。
適当に同意しておけば引き下がるかと思ったが案外しつこい。
経験上、朝からがっつり唯李の相手をすると疲れるのだ。それを週の初めの朝イチからやってしまうと後がしんどい。
なのでここは体調不良を訴えてごまかしてみる。
「ちょっと体がしんどくて……。やっぱ瑞奈を探して走り回ったのが今になってきてるかなぁ」
「中年か」
「あの日は公園も行ったし」
「寝ただけでしょ」
「首が痛い」
「固い膝で悪うござんしたね」
「いやでも唯李の膝枕は……」
そう言いかけると、唯李がすごい剣幕で顔の前に人差し指を立てて、
「声がおっきい!」
そういう自分の声の方がよっぽど大きいのはいかがなものかと。
実際今の声で周りの何人かがこっちを見た。
若干顔を赤らめた唯李はわざとらしく咳払いをすると、横向きになっていた体を元に戻して、何食わぬ顔で携帯をいじりだした。
しかしまるで今のが悠己のせいだと言わんばかりにチラチラ視線を送ってくる。
(しょうがないなあ全く……)
隣の席キラーは今日もまた荒んでいる。
そんな彼女と同じレベルでやりあってもしょうがない。
はいはい優しさ優しさね、と悠己は生暖かい視線を送ってやりながら、
「唯李は? 肩とか首とか大丈夫?」
「初老の会話じゃないんだからさ……」
唯李はげんなりとした表情を見せたが、声をかけられたのが嬉しかったのか、すぐに再び体の向きを変えて悠己の手元を覗いてくる。
「それ今日はなんの本読んでるの?」
「神との対話」
「相変わらずパンチ効いてるね。面白いの?」
「なかなかしんどい」
昨日長期出張先から様子を見に帰ってきた父親に勧められたものだ。
ちなみに父は一泊して今日の朝から新幹線でまた向こうに戻るという強行スケジュール。
別れ際、次戻ってこれるのは再来週ぐらいかなぁ、とぼやいていたが、瑞奈に「大変ならわざわざ来なくていいけど」と言われてちょっとへこんでいた。
「来週末からテストだけど、そんな余裕かましてていいの?」
「ふっ」
「……何笑った? 今」
「余裕の笑み」
「わかりづらっ」
(もしテストの点数が悪くても)余裕の笑み。
という意味だったのだが、それはもっとわかりづらかったかもしれない。
今回の期末テストは、直視したくなくなるぐらいにはヤバイ。
「実際悠己くんの頭の出来はいかほど? この前の中間、合計何点ぐらい?」
「忘れた」
「じゃ一番点数よかったのは何?」
「忘れた」
「あたしとしゃべりたくないんなら正直に言ってくれていいけど」
二回忘れたと言っただけなのに露骨に不機嫌になるのはどうかと。
まあ仏の顔ですら三度までと言うし、唯李が二回もったのなら上出来だろう。
「いやあの、ホントに忘れたんだって」
「じゃあ点数はいいから、悠己くんの得意教科は?」
「うーん、数学かな」
「それは不思議だね。ここ文系クラスなんだけど」
「数学は得意だけどあんまり好きじゃなくて、文系科目の方が好きなんだ。作者の気持ち見抜いたりするの」
「作者の気持ち考える問題って実際そんなにないと思うけど。それピンポイントで文系選んじゃった? ていうか見抜くって何? そもそも悠己くんそういうの苦手そうだけどね」
「それはどういう意味?」
「そのまんまの意味」
唯李は真顔でつっかえしてきた。どうやらそれ以上ヒントはないらしい。
かと思えば今度は急にニヤケ顔を作ってみせて、
「あ~わかった。あんまりにもひどい点数だったから言いたくないんだ」
「そんなことないよ。数学は90点だったから」
「覚えてるじゃねーかよ」
「今思い出した。そう言う唯李は数学何点だったの?」
「唯李ちゃん英語92てーん!」
「数学聞いてるんだけど」
「マスマティックス!」
英訳は返ってきたが点数は答えたくないらしい。
唯李は勢いで突っ切ったきり、もうこの話題は終了と言わんばかりにぷいっと前を向いてしまったので、こちらも本に視線を戻そうとすると、
「じゃあいいよ、次のテスト勝負しよっか」
またもぐりっと首を向けてきた。
惚れさせゲームの上に勝負。
一瞬えぇ……となりかけたが、基本的に唯李の言うことは頭ごなしに否定せずなるべく受け入れてやる、という方針で行くことにしたので、悠己はあっさりとうなずく。
「いいよ」
「今一瞬めちゃくちゃ嫌そうな顔しなかった?」
「してないしてない」
根気強く粘り強く。
そんな悠己の思惑を知ってか知らいでか、唯李はいたずらっぽく笑って首を傾げてみせた。
「じゃああたしが勝ったら~……何がいい?」
「それをなんで俺に聞くの?」
「勝ったら悠己くんに何かしてもらおうかと思って」
「何かって? 肩揉みとか?」
「優しい息子か」
「肩たたき券?」
「いらねえ」
「じゃあ何だったらいいって?」
「それはぁ、んーとね……。たとえば~……」
唯李は天井を仰いで腕組みをして、何やら目を細めてみせる。
一体何を考えているのか、そのうちに一人でにまにまと頬を緩めだした。
「ん~じゃあね~……。券だったら、一日言いなり券とか?」
「言いなり?」
「そう。言う事なんでも聞くってやつ」
笑いながら何を言い出すのかと思いきや。
人を自分の言いなりにするのがよっぽど楽しいのか知らないが、やはりこれは相当心が歪んでいる。
「じゃあ俺が勝ったら……唯李は心を入れ替える」
「どういうことだよ」
「じゃあいいよ俺もそのいなり券で」
「超投げやりね。いなり寿司出てくるやつじゃないからね言っとくけど」
はいはいわかりました、と悠己が軽く流すと、唯李がしつこく念を押してくる。
「よく考えて? 言いなりだよ? 何でもいう事聞かないといけないんだよ? 絶対負けたくねー! みたいな感じだそうよ」
「だってそんなの何の法的拘束力とかもないじゃない」
「そういういざとなったらぶっちぎればいいみたいな考えはよくないね」
どうやら見抜かれているらしい。
ごちゃごちゃうるさくなりそうだったので、とりあえず話を合わせておく。
「まぁでもどの道唯李には負けないかな。そんな点数言いたがらないレベルじゃあ」
「言うたな? こっちには秘密兵器があるんだからね」
「カンニングはだめだよ?」
「いやしないから」
そう言うなり唯李は熱心に携帯をいじりだした。
秘密兵器というと、プールが割れて中から……というわけではもちろんなさそうだ。
やがて操作を終えたらしい唯李は、顔を上げて不敵な笑みを浮かべた。
「くくく、勝ったも同然……。今のうちに一発芸の練習しておいたほうがいいよ」
「ふっ、唯李もストッキングとか……気をつけたほうがいいよ」
「何させる気……?」
こうして早くも静かな牽制合戦が始まった。
第二章です。
一応大まかな流れができたのでこんな感じでぼちぼちやっていきます。
新キャラとかも出ます。