ごめんね
「ごっ、ごめんなさ……」
小さな影がバランスを崩して転びかける。
目深にかぶった帽子のつばで顔を隠すようにうつむいたまま、小さく何事か口に出した後、逃げるように通り過ぎようとした。
「瑞奈!」
すかさず呼び止めると、小さな赤いリュックを背負った背中は、ビクっと身をすくめて立ち止まった。
振り向いておそるおそる悠己を見上げてきた顔は、ひどく怯えた目をしていた。
「あっ、な、なあんだ。ゆきくんか……」
瑞奈はそこでやっと、ぶつかった相手が悠己だということに気づいたようだった。
慌てて深くかぶった帽子を取ると、手で頭をかきながら、ぺろっと舌を出して笑ってみせる。
「友だちと遊んでたら、遅くなっちゃった」
「なんで電話出ないんだよ」
「……た、楽しすぎて夢中になっちゃって、気づかなかったの」
そう言いながら、瑞奈は悠己の目を一切見ようとしなかった。
代わりに隣に立った唯李が何か言いたげに、ちらりと悠己の顔を見た。
悠己はそれを目で制すと、ゆっくりと瑞奈の頭に手を乗せ、ぽんぽんと優しく叩いた。
「そっか。楽しかったんならいいよ。でも次からあんまり遅くならないようにね」
あくまでいつもの口調で、優しく、諭すように言ってやる。
しかし瑞奈はずっとうつむいたまま、うんともすんとも言わなかった。
「お腹すいたでしょ? 牛丼買ってきてあるから、早く食べな」
無言で立ちつくしたままの瑞奈の腕を引こうとすると、瑞奈は急にくっと顔を上げて、悠己をまっすぐ見つめてきた。
その瞳には、今にも溢れんばかりの涙がいっぱいに溜まっていた。
「……ごめん、なさい。うそです。うそ、つきました……」
瑞奈の口元が、わなわなと震えだして、ぐっとへの字に曲がる。
「友だち……できてないです」
堰を切ったように大粒の涙が頬をつたい、そのままぽろぽろとこぼれ落ちる。
瑞奈は懸命に涙を袖で拭いながら、ぐすっと鼻を鳴らしてずるずるとすすりだす。
「ひぐっ、ぅっ、学校で、頑張って、話し……、かけたの。でもっ……」
「そっか」
頷くと悠己は中腰になって、瑞奈の体に腕を回し、背中をさすってやる。
熱い体温とかすかな震えが手に伝わる。帽子がぽそっと床に落ちると、瑞奈は顔をうずめるようにしてぎゅっと二の腕を掴み返してきた。
さらにしゃくりあげながら肩を震わせ、それでもなるべく声の出ないよう嗚咽を漏らす。
「今までどこにいたの?」
「公園のっ、ト、トイレと……スーパーの……トイレ」
「トイレまでは見なかったなぁ」
少し、焦りすぎたのかもしれない。
もう元気だよ、という瑞奈の言葉に、すっかり気も緩んでいた。
――見ろ悠己、この石の輝きを。すごい力を持ってる人でね、仕事休んでわざわざ沖縄まで行ってきたんだぞ。
――いくらしたのかって? 金のことばかり言うな。母さんのことだって、話したらちゃんとわかってくれたんだぞ。
――いや! お母さんの作ったのじゃないと食べたくない!
――学校なんて行きたくない! お母さんのとこにいる!
突然倒れて、病院に運ばれて、あっという間の出来事だった。
心の準備なんて、する間もない。
一つの部品を無くしてずれた歯車。
それは大事な、とても大事な……二度と元通りにはならない、どうやっても替えの効かないものなのかも知れなくて……。
自分一人では、どうやったって……もうどうしようもないことなのかもしれない。
(大丈夫……大丈夫)
ふつふつと湧き上がる黒い感情を、そう言い聞かせて抑え込む。
きっと、大丈夫。大丈夫なはず。今までだってそうやってここまで、やってこれたんだから。
それは何の保証もない、自分だけの思い込みかもしれなかった。たまたま偶然、うまくいっただけ。折れなかっただけ。
けれども今ここで、自分が頼りない、情けない声を上げるわけにはいかなかった。
悠己は大きく一度息を吐き出す。
そしてゆっくり吸い込むと、瑞奈の耳元に顔を近づけて、優しくささやきかける。
「ごめんね瑞奈」
「どして、ゆきくんがあやまるの……?」
「もう無理に友だち作れって、言わないから」
「でもゆきくんは、彼女作ったのに……」
「違うんだよ。先に嘘ついたのは俺の方だから」
瑞奈の体を離すと、悠己は一度唯李のほうへ目線を送り、再び瑞奈の目を見つめる。
「唯李は本当は、彼女なんかじゃないから」
「えっ……?」
瑞奈は微塵も疑っていなかったらしい。
驚いたように顔を上げて、かたわらにいた唯李へ尋ねる。
「ゆいちゃん……そうなの?」
勝手にばらしてしまって悪い、とは思ったが、どの道そろそろ限界だろう。
ごめん、と目配せをしようとすると、唯李は瑞奈を見て、悠己を見て……さもおかしそうに吹き出した。
「ふふっ、なにそれ。……やだなぁ急に変なボケかまして。悠己くん、嫌がらせかな?」
いつものおどけた調子に、思わず目を見張る。
唯李は腰をかがめて帽子を拾い上げると、瑞奈と同じ高さに目線を合わせ、ぽかんとしている瑞奈の頭に帽子を乗せて、くすっと笑いかけた。
「こんな変なお兄ちゃんでも、こーんなかわいい星五つの彼女ができるんだから。瑞奈ちゃんも焦らないで、ゆっくり頑張ればいいよ」
焦らないで、ゆっくり頑張ればいい。
瑞奈に向けられた唯李のその言葉は、まるで悠己にもそう言っているかのようだった。
その一言で体の強張りが取れて、すっと胸のつかえが下りたような気がした。
一体何を焦っていたんだろう。
自分もそのつもりで、やってきたはずだったのに。
唯李は瑞奈の頭を撫でながら、ちらりと悠己の顔を見ると、内緒ね、とばかりにこっそり唇の前で人差し指を立てて、片目を瞬かせた。
急に喉が詰まって何も口に出せないでいると、唯李は底抜けに明るい声で言った。
「悠己くんも、そんな怖い顔しないで。真面目か! 唯李ちゃんこういう雰囲気苦手なんだよなぁ~……だんまりされると~……」
唯李は肩にかけたカバンをごそごそとやり、メモ帳らしきものを取り出した。
どこかで見覚えがあると思いきや、よくよく見ればいつぞやの大喜利手帳だった。
唯李は手帳をパラパラとめくりながら、
「そんなときこそ、わたくしがここで一発面白ネタを……。あ、ちょうどいいのがあった。お題。無事高校デビューを果たしたケロ助くん。しかし日がたつごとに友だちがどんどん去っていきます。なぜでしょう?」
突然始まった大喜利に、悠己と瑞奈はぽかんとして顔を見合わせる。
そんな二人の戸惑いもおかまいなしに、唯李は一人高らかにメモ帳を読み上げる。
「鳴き声が明らかにアヒル。ていうか鳴く」
「語尾にギョギョ? っていう」
「急にすごい飛ぶ」
「困ると『りょうせいっちゅーねん!』っていう」
「2D。Tシャツから出てこれない」
悠己と瑞奈がクスリともせずに、唯李の一人大喜利を見守っていると、唯李は少し焦りだしたのか、
「カエルだけど水虫! 切れ痔!」
だんだん雑になってきた。
するとその時ちょうどエントランスに入ってきた若い男女が、チラチラ唯李を見ながら脇を通りすがった。
「……切れ痔だって、くすくす」
「ち、違います、切れ痔じゃないです!」
唯李が顔を赤らめて必死に弁解をするが、「あ、はは……」と愛想笑いをされて逃げられた。
それを見た瑞奈がぷっ、と吹き出すと、赤い目をこすりながらくすくす、と笑い出した。
悠己も知らず口元が緩んで、いつしか声を出して笑っていた。
唯李ちゃんマジ切れ痔。じゃなくて天使。
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