予習
それからすぐに予鈴がなり担任がやってきて、つつがなく朝のホームルームが終わると、再び教室が騒がしくなった。
すると隣の唯李が机から教科書やノートやらを取り出しながら、またも話しかけてくる。
「ねえ成戸くん。あのさ、一限の英語……今日絶対あたしさされると思うんだけど、予習の訳、ちょっと不安だからどんな感じか見せてほしいなぁって……」
唯李は「お願いします!」とおおげさに両手を合わせてぺこりと頭を下げてくる。
「……ダメかな? イヤならいいんだけども」
「いや、見せるのはいいんだけども……残念ながら予習やってない。いろいろゴタゴタしててね」
「えぇ……やってないって……。のんきに本とか読んでる場合じゃなくない?」
「もうどうせ間に合わないし」
それきり会話を終了しようとすると、ちょっと待てと言わんばかりに唯李が身を乗り出してくる。
「あのね、今日あたしの日だから。出席番号。そこから横に、みたいに普通に成戸くんも指される可能性高いからね? 三浦先生怖いしヤバイよ」
「大丈夫。覚悟はできてる」
「なんの覚悟それ? カッコよく言ってるけど開き直ってるだけでしょ」
唯李は「まったくもぉ……」とぶつくさ言いながらノートをぺらぺらとめくると、開いたページを見せてきて、
「いいよほらこれ。あたしの見せてあげるから」
「いや、こういうのは自分でやらないと意味がないし」
「……やってない人が偉そうに言う台詞じゃないよね? そういう人が隣にいると、あたしのほうがハラハラして落ち着かないから、ほら」
「なるほど共感性羞恥か……いやそれとも……」
「いいから早く写してくれる?」
無理やりノートを押し付けられてしまった。
悠己としては覚悟を決めていたところ拍子抜けだったが、言う通りにしないと今ただちに唯李に怒られそうなので自分のノートを取り出して書き写し始める。
「あ……」
「何? なんかおかしいところあった?」
「字がきれいだ」
「え、え~っ……? そ、そーかなぁ、別に普通だと思うケド……」
「と思ったらそうでもないか」
「早くして」
唯李にせかされ、急いでなんとか写し終わる。
それとほぼ同時に予鈴が鳴って、間もなく教師がやってきた。
英語の三浦はメガネをかけた四十後半の男性教師で、授業中はもちろん提出物などにも厳しいともっぱらの評判。
予習をやっていないことがバレると、授業中その場に長いこと立たされることもある。
朝一発目ということもあり、ややピリピリしたムードで授業は始まった。
あいさつもそこそこに三浦は教卓の上で教科書類を広げると、
「今日は16か……。じゃあ、鷹月」
「は、はい!」
「……の隣から行くか。成戸、油断してたろ」
にやっと笑いながら言った。
少しふざけたところを見ると、どうやら機嫌は悪くないらしい。その一言で教室の雰囲気がいくぶん和らいだ。
そんな変化も我関せずと、悠己はついさっき唯李のノートから丸々写した部分を淡々と読み上げる。
「エクセレント。すばらしい、よく予習してあるな」
唯李が満面の笑みでこっそりピースピースを送ってくる。
まあ実際、今のは唯李が褒められたようなものだ。
「じゃ次。鷹月」
「えっ、結局あたしですかー!?」
「当てないとは言ってないぞ。さっきから何をカニのものまねしてるんだ」
「か、カニのマネなんてしてません!」
どっと教室が湧く。
すっかり顔を赤らめた唯李が、焦った口調でところどころつっかえながら訳を答える。
「う~ん、少し誤訳があるけども、おおむねグッド」
そう言われて唯李はほっと胸をなでおろすような仕草をした後、むー、となぜかこちらを睨んできた。
どうすればいいかリアクションに困ったので、唯李の真似をしてピースをしてみる。
にやりと不吉な笑みが返ってきた。
その後は何事もなく、平和に授業が終わった。
教室が休み時間の喧騒に包まれるなり、唯李は軽く唇を尖らせてじろっと視線を送ってきた。
何やら文句を言いたそうにしていたが、しかしすぐにころっと笑顔になって、
「ふふ、二人ともあてられちゃったね。やっぱりノート見せておいてよかった」
「ありがとう、助かりました」
「次からちゃんとやらないとダメだからねー」
「うん」
何の気なしにそう答えると、何がおかしいのか唯李は声を出して笑いだした。
「うん、だって。なんか素直でかわいいね。くすくす、成戸くんおもしろー」
(よく笑う人だなぁ)
隣の席キラーはなんと言っても笑顔の破壊力がヤバイ。可愛すぎる。胸がはうっ! てなる。
……などと慶太郎が力説していたことをふと思い出しながら、じっとその様を観察する。
彼女の笑顔を見ているうちに少し思うところがあり、悠己はつい口を開いていた。
「あの、鷹月さんて……」
「ん? なーに?」
「その……ちょっと言いにくいんだけどさ」
「どしたの? いいよ全然、何でも言ってみなさい」
悠己が口ごもるが、唯李はやっぱり笑顔のまま、優しい声音で応じてくれる。
それなら思い切って、正直に言ってみるのも手だ。
「次の数学の宿題って……やった?」
「……あのさぁ」
あれだけ優しかった目元が、ジトっとした目つきに豹変する。
やっぱり何でも、は罠だ。悠己はそう思った。