決戦への道
目覚ましよりも早い時間に目が覚めた。
起き抜けにカーテンを開けて、窓辺に立つ。
窓を開くと、冷たい空気と湿った道路の匂いが入り込んできた。マンションから見える路地は濡れていたが、雨はやんでいた。薄い雲の間からは朝日が差し込んでいる。
誰もいないリビングへ出ていく。家の中は静まり返っていた。
軽く朝食を済ませて、身支度を整える。
着るものは昨晩のうちに用意していた。滅多に着ないコートなど引っ張り出してきていた。
洗面所の鏡の前に立って、身なりをチェックする。
寝癖を直し、気持ち髪を整える。肩を右、左に回して服装に問題がないか確認。
一通り終えてリビングに戻ると、パジャマ姿の瑞奈と行きあった。
眠たそうに目を擦っていたが、悠己の姿を見るなり大きく目を見開いた。
「ゆうきくん、やればできるじゃん!」
「ふっ、まあね」
「いいねその急にイキってる感じ! やっとマイナスが0になったってとこなのに!」
「もっと褒めて伸ばしたほうがいいと思うぞ」
「ちゃんと果たし状持った?」
「持った持った」
「時計は? 消しゴムと鉛筆は?」
「いやそれ受験に行くノリでしょ」
「瑞奈もどうなるかわかんないからね? あとはゆうきくん次第だよ? この先は君の目で確かめてくれだよ?」
「まぁ大丈夫でしょ。今の学校も受かるかどうか心配されてたけどいざ蓋を開けたら余裕だったし」
「それ今関係ないよね?」
「そっちが振ってきたんでしょ」
「結果わかったらすぐ連絡して? 祝賀会と残念会の両方用意しておくから」
「結果って言われるとなんか嫌だな」
「でも大丈夫、どっちに転んでも瑞奈はゆうきくんのズッ妹だょ!」
「ズッ妹やめて? 昨日のも全部ネタっぽくなるから」
瑞奈は変なポーズで両手を構えだして「気」を送ってくる。動かないでというから動かないでいると、リビングに寝間着姿の父が顔を出した。
「ん、悠己は出かけるのか? 朝からどこに行くんだ? 寒いのに」
「まあ、ちょっと決着をつけにね」
「決着?」
首を傾げる父を見て、悠己は瑞奈と顔を見合わせて笑う。
「なんだ? またふたりで隠し事か? なんだか言ってみろ、どんどん言え」
「いや、別に父さんは関係ないし、そんなたいしたことでもなくて⋯⋯」
「どうして。なんでも話すって決めただろなんでも!」
「じゃあ言うけどだるいわそのノリ」
昨晩は三人で長いこと話をした。
お互い知らないことがたくさんあった。それこそ一晩では語り尽くせないぐらいに。なんにせよ、すぐに解決することじゃない。これからゆっくり話し合って決めていけばいい。
「ゆうきくんが遅刻しちゃうから、邪魔しないで、ほら!」
「なんだよもう⋯⋯。じゃあせっかくの休みだし、瑞奈はお父さんとお出かけするか」
「え、嫌です」
妹と父がやりとりをするかたわら、テーブルの上に置きっぱなしの写真に目が止まった。
母はもう、何か語りかけてくることはなかった。ただ笑って、見守ってくれている。
――いってらっしゃい。
懐かしい声が聞こえたような気がして、こっそり一人頷く。
選んだ道が正解なのかはわからない。これから先のこと、他に考えないといけないこともたくさんある。けれどもここで決着をつけない限り、前には進めない気がした。
『0900時 件の運動公園 池のほとりにて待つ』
果たしの状の中には、そう書かれた紙切れが入っているだけだった。しかしそれだけで場所はすぐにわかった。
家を出て、バス停に向かうべく路地を行く。
寒い休日の早朝だ。辺りは静まり返っていて、人の影もなかった。
しかし大通りが見えてくると、その手前の自販機にガラの悪そうな二人組がたむろしているのを見つけた。
「おい兄ちゃん、何メンチきってんだよ?」
「なんか文句でもあるのかい?」
二人とも色付きのサングラスをかけている。
片方はつば付きキャップにダボダボパーカーのフードを被せ、片方はボンレスハムのようなダウンジャケット。どちらもサングラスが浮いている。
無視して行こうにも、すっかり行く手を塞がれてしまった。片割れが肩を揺らしながら顔を近づけてくる。
「朝からどこまでお出かけで~?」
悠己は懐から果たし状を取り出して、差し出してみる。
慶太郎はサングラスを持ち上げると、顔をしかめるようにして見つめた。
「ほーぉ⋯⋯? そいつを持ってるってことは⋯⋯」
「これでなんとか勘弁してくれませんかね」
「あ~ん? それだけじゃなぁ~~? じゃあ、ここはひとつ覚悟を見せてもらおうか」
「覚悟?」
「言っとくけどオレは反対だからな。またふざけた態度を取るようなら、ここでお前を叩き潰す。鷹月には近づかせねえ」
正面から睨みつけてくる。おどけたような空気から一転、場が張りつめた。隣で見守る園田も、間に入ってなだめるようなことはしなかった。
本当の自分は違う。ありのままの自分は。
そんなのは子供の言い分。ずっとありのままで生きるのはやっぱり難しい。ましてや何も持っていない凡人には。
誰だって役割を演じている。自分を見て、周りを見て、居場所を見つけて。
ダメなら少しずつ、変えていけばいい。切り取ったり、削ったり、またくっつけたり。そしてだんだんと、パズルにはまるピースになる。
それでもうまくいかないことだってあるだろう。いくらいじくり回しても、ぴったりはまる形なんて、この世界のどこにもないのかもしれない。
間違った場所に無理やりはめてしまって、気づかないまま、不安定なまま、ぶらさがって⋯⋯それでも続いていく。きっとみんな、そうやって生きている。
「なあ、黙ってないでなんとか言えよ」
まだ見捨てられていなかったことを、ありがたく思う。
この寒い日に、せっかくの休日に。朝早くからご苦労なことだ。
だから期待に応えてやりたい。そう思った。
「よし、じゃああっちから行こう」
「おい待て」
回れ右して道を引き返そうとすると肩を掴まれた。
慶太郎が眉をひん曲げて凄んでくる。
「おい、ここは真面目なとこだからな? あんまふざけんじゃねえぞ?」
「おう、そっちこそな?」
「なんだ? やんのか? もう真面目陰キャやめたんか?」
「おうやってやるよ、一分間バッチバチにやろうぜ。そっちこそやれんだろうな? おい? あ? ん?」
「急にイキりすぎだろ、おい顔近えよ、靴踏むな靴」
暑苦しかったのか向こうから引いてくれた。
このまま突破すべく、後ろに控える園田に声をかける。
「よう、園田」
「⋯⋯初めて僕を呼び捨てにしたね? いい感じにイキってるじゃないか」
「おすすめの塾教えろって言っただろ!」
「真面目なのかイキってるのかどっちかにしてほしいね」
「冬期講習あるって言ってたのに悪いなわざわざ!」
「⋯⋯実はいい人? まぁいいよ別に、今日は午後からだからさ」
「そういえば園田くんの下の名前って、健康の健で健人だっけ? 賢いのほうの賢人だっけ?」
「⋯⋯賢いのほうだけども」
「あ、そっちか。うん、やっぱそうだよね~⋯⋯。それじゃ」
「僕とはそこまで話題がないからってそれで終わりにするのやめてもらっていいかい」
二人だと意外に話題が続かない。
お茶を濁しつつ去ろうとすると、慶太郎が先に回り込んできた。
「なんだよおい、ちょっとは調子戻ってきたじゃねえかよ」
「まあ、だいたい60%ってところか⋯⋯」
「じゃあ、その勢いで隣の席キラー被害者同盟の無念を晴らしてくれるんだろうな?」
「ああ、任せろ。完膚なきまでにボコボコにしてくる。生まれてきたことを後悔させてやる」
「いやそこまでやれとは言ってない」
「そしてその次はお前らの番だ」
「いやなんでだよ」
「これから俺は『最強』を目指す。しかもぶっちぎりのな」
「キャラ変わりすぎだろ」
肩に拳をグリグリ押し付けたら邪魔そうにどかされた。
慶太郎は毒気が抜けたようにため息を吐く。
「てかさお前さ⋯⋯相談しろよ。なんか一人でアレしてね―で。まじで」
「だっていきなり相談されてもみんな困るだろうしウチのことなんかで迷惑かけちゃうかなって⋯⋯」
「なんとかグループに入れてもらってる気弱な女子か。わかったか?」
「⋯⋯うん、ごめん。ありがとう」
受け入れて、静かに頷く。
けれどこれぐらいじゃ足りない。本当はもっとちゃんと謝って、お礼を言いたかった。
でもそれは自分たちらしくない。きっと彼もそんなことは求めてない。
「それじゃ、さっそく相談なんだけど⋯⋯俺たち三人でグループUtuberやろうかなって思ってて⋯⋯」
「やめとけ」
「やっぱりこれからの時代、給与所得だけだと厳しいと思うんだ。副業も視野に入れつつ、若いうちから資産形成していかないと。とりあえず月にいくらか積み立てていくのがいいと思うんだけど、いくらぐらいが現実的かな?」
「いきなりめんどくせえ相談やめろ」
「うむ、そういう意識は大切だけど、若いうちは自分への投資や経験のためにお金を使ったほうが、結果的に豊かになれると思うんだよね」
「園田もなに真面目に答えてんだよ」
「なるほど、そういう考え方もあるんですね。このチャンネルでは、こういった簡単なライフハックを発信していこうと思います。チャンネル登録よろしくね」
「グループでお役立ち情報やめろ。もっと破天荒なことしろ」
朝っぱらから三人でガチャガチャ騒いだ。楽しくなって体が温まってくる。
通りすがったおばさんに変な目で見られた。ここであまり騒いでいると迷惑かもしれない。それにそろそろ時間も押している。
「じゃあ慶太、園田くん⋯⋯今まで、楽しかったよ。二人とも、ありがとう。俺二人のことずっと忘れないよ」
「いや別に消えたりしねえけどな? 永久の別れっぽくするなよ、つぎ会ったとき気まずくなるぞ」
「あ、そう? じゃあ今後もサブキャラとして頑張ってね」
「なに主人公ぶってんだよ。オレらなんて全員サブキャラみたいなもんだろ」
「ふたりともグッドラック! グッ」
「手の向きが逆なんだけども。地獄に落とさないでもらっていいかな」
最後は手を振って別れた。
これでよかったかな、と少しだけ不安になった。
けれどふたりとも笑顔だった。うれしくなって、胸を張って歩いた。
路地を抜けて、大通りにさしかかった。
角にあるコンビニを曲がると、背後から甲高い声がした。
「ち、ちょっと待ったあああああ!!」
何か事件か。しかしこちらも先を急ぐ身。
無視して歩いていると、背後から走ってきた小さい影がまとわりついてきた。
「ちょっと待ったあああ!」
影が周りをぴょんぴょん飛び跳ねる。悠己は先を急ぐ。
「ちょっと待ってええええ!」
とうとう目の前に立ちふさがった。
顔を赤くしながら、両手を横に広げて通せんぼをする。
「なんで無視するんですか!」
「あ、ごめん小さくて見えなかった」
「そんなにちびじゃないんですけど!」
キンキン声を荒げだしたのは小夜だった。
改めて両手のひらを突き出して、魔法でも唱えそうなポーズをする。
「え、ええっと⋯⋯こ、ここをとおりたくば、このわ、わたしを⋯⋯!」
「がんばれ」
「応援やめてください!」
緊張しているのか声が震えている。
待ち伏せをしていたのはさっきの二人だけではなかったようだ。妹もくっついてきたらしい。
「あ、あのっ! いろいろと話は聞いてます! なんていうかその⋯⋯正直悠己さんのこと、見損ないました! そんな態度取るなら、こっちから願い下げです! もう復讐してざまぁです!」
「⋯⋯それ何の話?」
「まったく、ただひねくれてるだけのクソガキじゃないですか」
「応援いらなかったかな」
相変わらず辛辣だった。
聞きかじった話を元に、小夜の頭の中でオリジナル妄想ストーリーが展開されているらしい。
「まあそれは否定できないし、しないよ。というわけでクソガキの恋路を邪魔しないでもらおうか」
「ええっ!? 急に恋愛クソ野郎!」
「どうやってもディスられるね」
声を張り上げるごとに、不安そうだった彼女の表情がいきいきとしてきた。
それにしても、まさか小夜まで心配させてしまうとは情けない。
「いや、まいったよ。小夜ちゃんにまで心配されるなんて⋯⋯」
「そうですよ、お前が口出しすんのはやめろって言われてて⋯⋯」
「まさかあの小夜ちゃんまでもが⋯⋯」
「どんだけ下に見てるんですか」
「ありがとうね、小夜ちゃんもわざわざ。でも、もう大丈夫だから」
「え? あ、はい⋯⋯」
拍子抜けだったらしい。小夜の表情からは険しさが消えていた。
しかしまだ何か言いたそうな顔だ。
「何?」
「いえあの、もういつもみたいに『瑞奈のことよろしくね』って言わないんですね」
「ああ、瑞奈に『小夜ちゃんのことよろしくね』って言っておくよ」
「え、え? おかしいじゃないですかそれは!」
「そのうち瑞奈に彼氏とかできたら『小夜とか陰キャだしもういっか』ってなるかもしれないし」
「なんかありそうで嫌!」
あまり成長著しすぎるのも問題だ。
もちろんそんなことはないとは思うが、瑞奈はちょくちょく小夜に対するマウント発言をする。
「でも最近、本当にかわいくなってて⋯⋯眩しい! 一緒にいるとなんか気後れする!」
「あっ⋯⋯ごめん、冗談だったんだけど」
「そして本人はわりと無自覚で⋯⋯あれはガチで隣の席キラーの資質ありますよ。どこかのポンコツの人とは違って」
「うわやだなー、瑞奈も隣の席キラーとかお寒いこと言い出したら」
「最初に名付けたのはわたしなんですけど。わかっててディスってます?」
「あ、そうだっけ。そのちょい語呂が悪いのはどうにかならなかったの」
「と、とにかくわたしたちはずっと親友なんです! ズッ友です!」
「ところで慶太と一緒に来たの? その後はどう? 仲良し?」
「もういいから行ってください! 人のことばっか気にして、自分が失敗したって知りませんよ!」
無理やり背中を押されて、送り出される。
手間を取らせて申し訳ないと思う反面、楽しくなっていた。足取りが軽くなる。
広い歩道をしばらく行くと、遠目にバス停が見えてきた。
時間帯もあってか、バス待ちをしているのは一人、二人。思わぬところで時間を取られたが、これなら次のバスに間に合いそうだ。
瑞奈が「明日はバスで行ってね」と念を押してきた理由が今になってわかった。ということは、これで打ち止めとは思えない。
などと考えながら歩いていると、横の細い路地から影が飛び出してきた。