ずっといい子
瑞奈とともに二人で食卓を囲む。
向かい合わせに座ったテーブルには、それぞれオムライスと切り分けたケーキが並んでいる。
夕食時はたいてい垂れ流しになっているテレビは暗いままだった。いつもは食べながらスマホを触ったりする瑞奈も、今日はその素振りすら見せなかった。
「そういえばそれ、何が書いてあるのかなぁ?」
食事が終わりかけた頃、瑞奈はテーブル隅に置いたままの果たし状を見て言った。
渡されたはいいものの、内容までは知らないらしい。果たし状の文字以外は、封筒には何も書かれていなかった。
悠己は封筒を手にとって、封を切る。
中には一枚紙切れが入っていた。取り出そうとすると、部屋のチャイムが鳴った。
悠己は席を立って、インターホンでオートロックを解除する。ついでに部屋のロックも開けておく。
しばらくして、父の和輝がリビングに姿を現した。
「おお~~寒い寒い」
バッグを抱えた父が大げさに身震いをしながら入ってくる。
悠己が「おかえり」と出迎える一方、瑞奈は黙って残りのケーキを口に運んでいた。
「おっ、どうしたんだケーキなんて⋯⋯」
和輝はテーブルを見渡して、不思議そうに悠己たちを見た。
ここまでいきさつを、もちろん父は知らない。食卓はいつもの空気感に戻っていた。
悠己がなんと答えようか迷っていると、瑞奈がそっけなく言った。
「誕生日だから」
「誕生日⋯⋯?」
和輝は首を傾げた。
すかさず瑞奈が声を荒らげる。
「ゆうきくんの!」
「悠己の⋯⋯? ああ、そうか! ん? でも、今日じゃないだろ」
なおも不思議そうな顔をする和輝を、瑞奈は睨みつけた。
「⋯⋯今言われなかったら絶対、忘れてたでしょ。お父さんは誕生日とか、どうでもいいんだもんね」
「何だ? どういう意味だそれは」
「お母さんの誕生日だって」
年始に父が戻ってきてからこのかた、瑞奈から父への当たりは強かった。父は苦笑しながら瑞奈の態度を流していた。
しかし今回は違った。父の表情は険しかった。提げていたバッグを投げるようにして床に置いた。
「それは今関係ないだろ」
「関係あるよ! ゆうきくんの誕生日だって、ちゃんと覚えてないくせに」
「バカ言うな、覚えてないわけないだろ。こっちもいろいろ忙しくて、忘れてただけで⋯⋯」
「忙しいって何が!」
「瑞奈に言ったってわからないよ。お前たちが心配することじゃない」
「心配かけてたじゃん! ずっと! 今だって!」
「瑞奈!」
遮るように和輝がひときわ鋭く叫んだ。
瑞奈はびくりと肩をすくませて、大きく目を見開いた。
「瑞奈、その態度⋯⋯いい加減どうにかしてくれないか」
諭すような口調で言う父を見上げたまま、瑞奈は黙りこんでしまった。瞳には驚きと、戸惑いの色が浮かんでいた。
なんだかんだで父は妹には甘い。それはずっと昔からだ。
だから父が瑞奈に対してこんなふうに怒鳴るのは、悠己が知る限り初めてだった。
和輝は瑞奈に一瞥をくれると、ため息交じりに首を振った。
「はぁ、瑞奈も昔はかわいかったのにな⋯⋯」
ぶつぶつと独り言を言いながら、不機嫌そうにコートを脱ぐ。上着をハンガーラックにかけると、テーブルに戻ってきた。椅子に座っている悠己の背後で足を止める。
「そのかわり悠己は、ずっといい子だったな」
うってかわって優しい声音だった。
父の手が両肩に置かれて、肩を揉みしだくように動いた。
「瑞奈も、ちょっとはお兄ちゃんを見習ったらどうだ。なあ、悠己⋯⋯」
ずっと欲していた。認めてほしかった。
だけど自分が欲しかったのは、本当にこんな言葉だったのか。そんな言葉で、すまされるようなものだったのか。妹のことを蹴落としてまで、手に入れるようなものだったのか。
「黙れよ」
悠己は大きく腕を振って、父の手を振り払っていた。
勢いよく席を立ち上がって、父の正面に立った。
「何も知らないくせに、知ったふうなこと言うんじゃねえよ」
初めて敵意をもって、父を睨みつけた。
今自分は、言ってはならないことを、してはならないことをしている。
悔しいのか、悲しいのか、怒りなのかわからなかった。感情が入り混じっていた。隠れて大事に育てた植木鉢の花を、自分で放り投げて台無しにした気分だった。
けれど許せなかった。たった一言で踏みにじられた気がした。自分のしてきたことを。みんなが妹にしてくれたことを。そして自分を励ました妹の言葉を。
父は唖然としていた。
まさか、という顔だった。
「なんだ急に、お前まで!」
荒げた声は聞いたことのない別の誰かのようだった。
家族には見せない父の別の一面を見たような気がした。
しょせんは感情に任せた子供の反抗。
それに対し父は大人の意見で、納得の行く論理で、冷静に、理性的に、諭してくるのだと思った。しかし父はまるで子供のように声を荒らげた。ずっと溜め込んでいたものを、爆発させるかのように。
「なんだよ、言ってみろよ! 黙ってるのはそっちだろ! 黙ってたって、わかんねえだろ!」
父は今にも掴みかかってきそうな剣幕だった。
しかしそうなったとしても引く気はなかった。戦う気だった。
悠己は目をそらさずにまっすぐ睨み返した。奥歯を噛み締めて、拳を握っていた。
「やめてよ!」
がたりと椅子の動く音がして、瑞奈の叫び声がした。
その一声で、父ははっと我に返ったように、目を見張らせた。
そして力なく、首をうなだれた。
「悪い⋯⋯怒鳴ったりして。今のはオレが⋯⋯悪かった。ごめん悠己、ごめんな⋯⋯」
父は頭を下げたまま、面をあげようとしなかった。
ひたすら謝罪の言葉を繰り返し、許しを請い続けた。
「瑞奈も、ごめんな。ごめん、ごめん⋯⋯」
それは今このときだけではない、まるでこれまでの過ちすべてを詫びているかのようだった。
けれども、父にそんな態度は取ってほしくなかった。
ただの子供の反抗と、大人の声で叱ってほしかった。間違った自分たちを、正しいほうへと導いてほしかった。
いつしか場は静まり返っていた。全員が沈黙していた。
かすかに聞こえていたエアコンの作動音が止まった。時間が先にも後にも動かなくなって、時の止まった部屋に閉じ込められたかのようだった。
誰かにすがりたかった。自分たちを助けてくれる誰かに。
悠己は助けを求めて視線を泳がせた。頭をうなだれたままの父を見た。唇を結んでうつむく妹を見た。
行き着いた先はテーブルの上の写真だった。母はひとりだけ笑っていた。
こんなとき、母ならなんて言うだろうか。瑞奈や悠己を叱るだろうか。父を責めるだろうか。
いや、きっとうまく場を和ませてくれるに違いない。笑いながらおどけて、なだめて。みんなを笑顔に変えて、勇気づける言葉をかけてくれる。
記憶の中にある母は無敵だった。嫌なことがあっても、困り事があっても、なんでも解決してくれる。あこがれだった。母のようになりたかった。
だけど、本当にそうだろうか。
もし今この場に、彼女がいたとしても。
言葉を失って、ただ立ちつくしてしまうかもしれない。声を上げて泣き出してしまうかもしれない。
今、父がそうであるように。
自分たちを叱って、正してくれるはずの父が。力なく頭を垂れて、ただ謝罪の言葉を繰り返しているように。
本当は、母だってなにもかも完璧じゃなかった。理不尽に叱られたこともあった。理由もわからず機嫌の悪いときだってあった。
嫌われるのが怖くて、顔色をうかがって、素直に思ったことを言えなかった。
けれど彼女はもういなくなってしまった。
いまさら責めることも、真意を問うこともできない。あのときはこう言ったけど、実は⋯⋯なんて話をすることもできない。
だから彼女には完璧なままで、美しいままでいてほしかった。
答えを知っていると思っていた。言うとおりにすれば大丈夫と、そう思っていた。
けれどきっと父も母も、明確な答えを持っていたわけじゃない。
いつも手探りで、本当はわからないことだらけで⋯⋯それでも親という役割を果たそうとした。
それは兄を演じようとした自分と同じだった。同じ人間だった。
それなのに、いつまで従うつもりなのか。求めるつもりなのか。
写真から目を離して、前を見た。
涙の溢れそうになった目元を、袖で強く拭う。
大きく息を吸い込んで、ゆっくり吐き出した。
「⋯⋯ちゃんと、話そう。みんなで」
視線を向ける。父に。妹に。
きっと、そうだろう。そうに違いない。だから自分はこうする。
そんな勝手な想像で動くのは、もうやめる。そもそもが、一人で解決する問題じゃない。
ゆっくり椅子を引いて、腰掛けた。
母の写真をテーブルの中央に立て直す。立ったままの二人を見上げて、待った。いつまでも、待つつもりだった。
やがて父が、妹が。ゆっくりと面を上げて、視線を交わらせた。
母の見守る前で、家族が静かに席についた。