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「兄の日」

 隣の席の空白は二日続いた。

 その次は土曜日で、学校は休みだった。


 瑞奈は遊びに行くと言って、朝の九時前には家を出ていった。悠己もいちいち誰とどこで、などと尋ねるようなことはしなくなった。


 妹の変化とともに、休日の過ごし方も変わった。   

 簡単に家事をして、家でだらだらとスマホを眺めているうちに時間が過ぎていくようになった。


 今日明日と、特にこれといった予定もない。

 父からはおそらく今日の夜にはそっちに帰ると連絡があった。


 父なりに変化を⋯⋯悠己たちを気を遣ってのことだろうが、重荷にも感じていた。

 自分一人のことならば、もう自分でなんとかできる。今さら世話を焼いてもらう必要なんてない。

 

 そんなことを口にしたら、鼻で笑われるだろう。

 今はまだ、養ってもらっている身だ。それが言えるのは、自分で稼げるようになって、完全に自立してからのことだ。

 

 昼食は冷蔵庫にあった焼きそばの余りを作って食べた。

 換気扇から入り込む外の空気がやたら冷たい。わずかに陽は差しているが、予報では夜に雪になるかもしれないと言っていた。


 洗い物をしてソファに戻った。

 テレビをつけて、配信サービスの映画を吟味する。

 

 しかしこのまま一日家にこもっていると、父が帰ってきたときにまた何か言われそうな気がした。

 結局重い腰を上げて、出かけることにした。

 



 向かった先は市の総合運動公園だった。

 わざわざスポーツウェアを持参して、ロッカーで着替えをして、ジョギングコースを走った。


 いくら走っても、この間のマラソン大会のときに感じた高揚感はなかった。それどころか途中で自分が何をやっているのかわからなくなった。誰も見ていないのに一人でこんなことをして、何の意味もないように思えた。

 けれど誰かが見ていてくれないと、なんてのはおかしいだろう。本当は好きでもなんでもないのかもしれなかった。そう思ったら急に嫌悪感でいっぱいになった。


 走るのをやめて遊歩道を歩いた。

 奥にある池にたどり着くと、あたりには人っ子ひとりいなかった。

 それもそのはず、空は今にも雨が降り出しそうだった。天気が悪くなることは承知の上で出てきた。


 そういえば去年の年末も、似たようなことをしていたのを思いだした。

 ついこの間のことだ。同じことの繰り返しだった。これからもまた繰り返すのかもしれない。何度も何度も、同じところを、ぐるぐると。



 本格的に雨が降ってきたので、いい加減に引き上げることにした。

 バス停には人影はなかった。バスを待っている間も、どんどん気温は下がっていった。体はすっかり冷えていた。


 帰りのバスの中で「ご飯作ったから!」と瑞奈からスマホに連絡が来た。

 出ていくときにはご飯はいらない、と言っていたがどういう風の吹き回しか。

 瑞奈はそのときの気分で動くようなことが多々ある。それは変わっていない。考えたところで答えは出ないだろう。


 帰宅すると、なぜか家の中は暗かった。

 手探りで壁のスイッチを押す。足元に瑞奈のよそ行きのスニーカーを見つけた。そのまま通路を歩いて、リビングの扉を開ける。


 暖房の熱気が顔に押し寄せてきた。同時に天井のライトがついて、急に目の前が明るくなる。たてつづけに破裂音がして、火薬の匂いがした。


「お誕生日おめでとう!」


 目の前にクラッカーを手にした瑞奈が立っていた。

 散らばった色付きテープを見下ろしながら悠己は答えた。


「今日誕生日じゃないよ」

「知ってる! 前祝い!」


 満面の笑みで見上げてくる。わかっててやっているらしい。

 しかし自分でもすっかり頭から抜け落ちていた。今日でこそないが、誕生日は明後日だった。今言われなければ、当日になってもはたして思い出していたかどうか。


 去年からするとそれなりに知り合いが増えたつもりだったが、悠己の誕生日はきっと誰も知らない。それは単純に誰にも教えてないから。


「はい、そしたらこれ! 誕生日プレゼント」

  

 瑞奈が包装紙にくるまった長方形の箱を差し出してくる。片手で持てるぐらいの大きさで、重さはほとんどない。


「開けていいよ?」


 受け取ったまま立ちつくしていると、瑞奈が期待に満ちた眼差しを向けてくる。開けろ、というのだろう。逆らわずに開封する。

 箱の中に箱が入っていた。パッケージを見るにスマートウォッチのようだった。スポーツ用にも使われる多機能なものだ。


「それね、心拍数とかいろいろ測れるんだって!」

 

 瑞奈がはしゃいだ口調で言う。

 そんなの俺に使い道ないでしょ。とっさにそう言いかけて、口をつぐんだ。代わりに尋ねる。


「なんで急にそんな? 誰かに言われた?」

「ひみつ」


 おそらく凛央あたりの差し金か。彼女のおかしな勘違いは相変わらずだ。


「中開けないの?」

「まあ、あとで」


 無造作にテーブルに箱を置いた。

 じっとこちらを見ていた視線と目が合う。瑞奈は笑った。


「逆になったね」

「逆?」

「ずっと前に瑞奈の誕生日に、お絵かきセットくれたでしょ」


 いつだったか、瑞奈の誕生日に渡したことがある。そのとき瑞奈にいらない、と言われた。けれど今は使っている。


「今はいらなくても、必要になったら使ってくれればいいから。じゃあ座って座って!」


 瑞奈はテーブルを回り込んで椅子を引いた。

 言われるがままに上着を脱いで席につくと、卓上に母の写真が置いてあるのに気づいた。この間の母の誕生日のときと同じだった。


「ちょっとだけ待っててね!」と言い残して瑞奈はキッチンに引っ込んだ。

 奥からフライパンで何かを炒めるような音が聞こえてくる。下ごしらえだけして、悠己が帰ってくるのを待っていたようだ。


 しばらくして瑞奈がプレートを運んできた。皿の上ではオムライスが湯気を立てていた。表面にはケチャップで大きくハートが描かれている。


「今日はお誕生日スペシャル! 冷めないうちに召し上がれ!」

「オムライス好きだねぇ⋯⋯」

「ダメ?」

「別にダメじゃないけど⋯⋯」


 悠己の好物というわけでもない。

 瑞奈はこの前も肉じゃがを作ってみせて、それなりにレパートリーは増えた。今はもっと難度の高いものだって作れるはずだ。

 思い返せば、今に始まったことではない。瑞奈が料理といえばまずオムライスだった。


「ん~と、なんでかっていうとねぇ~……」


 変に間を作ったあと、瑞奈は気恥ずかしそうに笑った。


「ゆうきくんが初めて瑞奈に作ってくれた料理が、オムライスだったから」


 思いがけない答えが返ってきた。

 言われてみると、そうだったかもしれない。

 記憶をたぐる。急に思い出してきた。


 それまでは母が作ってくれたものを食べるばかりで、料理なんてろくにしたことがなかった。ほとんど出来合いのものを買ってきていたから、たまには何か作ってあげようと思った。

 

 初めてにしては、自分でも思ったより上手にできた。皿に盛りつけたオムライスに、ケチャップでハート型の文字を書いて、らしくもないことをした。きっと喜んでくれると思った。


 けれども瑞奈はすっぱい、おいしくない、と言って半分以上残した。たしかに見た目は少し崩れていたが、味は決して悪くなかった。瑞奈が残した分を自分で食べようとしたが、食欲がなくなって結局ゴミ箱に捨てた。


 思い出して嫌な気分になる。どういうわけか瑞奈の中では美談になっているようだが、悠己にとっては悪い記憶だった。どうしても今の瑞奈とは温度差がある。


「ケーキもちゃんとあるからね~」


 テーブルのオムライスを見つめていると、もう一つ皿が出てきた。

 小さなホールケーキに「Happy Birthday」とチョコで描かれたクッキーが乗っている。わざわざどこかで買ってきたものらしい。


「かわいいでしょこれ、お店友達に教えてもらったの」

「高そうだね⋯⋯。お金あったの?」

「それはまぁちょいちょい、積み立ててましたから⋯⋯てか、お金のことは言わない! 誕生日なんだから!」

「いやていうかさ、誕生日じゃないって言ってるじゃん」

「都合により誕生日を早めました」


 悠己は黙った。こんなことであれこれ言い合いしても仕方ない。多少日付がずれようが、どうだっていい話だ。

 一度静かになると、瑞奈は思いついたように手を打った。


「んーじゃあ⋯⋯兄の日! 覚えてる? 兄の日に、ゆうきくんは生まれ変わるんです」

「もういいよ、それは」


 ぶっきらぼうに答えた。

 もちろん本人に悪気がないのはわかっている。

 けれどやっぱりズレている、と思った。わがままで自分勝手で、空回りして⋯⋯苛つかされるのも、いい加減慣れたつもりだった。


「そしてゆうきくんには、さらに渡すものがあります」


 悠己の態度をわざと無視するように瑞奈は一人で続けた。

 差し出してきたのは真っ白な封筒だった。表面には『果たし状』といかつい字で、筆ペンか何かを使って書かれている。

 思いもよらないものが出てきて、つい聞き返していた。


「なに? それは」

「隣の席キラー最後の果たし状だって」


 瑞奈の口から「隣の席キラー」という単語が出て驚く。果たし状、というのも意味がわからなかったが、瑞奈がどこまで事情を知っているのか不明だ。


「それ、なんだかわかってるの?」

「うん。ゆいちゃん学校で『隣の席キラー』って言われてたんだってね。それでゆうきくんが隣の席で⋯⋯面白いよね」


 誰かが話したのだろう。おそらく小夜か、凛央か。けれど誰が何を言おうが、今となってはどうでもいいことだった。


「瑞奈は今日これをゆいちゃん⋯⋯ううん、みんなから託されたのです」


 悠己の知らないところで、また何か企んでいるらしい。おぼろげに察した。どういうつもりか知らないが、果たし状だなんだとバカバカしい。もはや苛立ちを隠さずに言った。


「そんなバカげたおふざけには乗らないって言ったら?」

「それでもいいよ」


 瑞奈は即答した。


「ゆうきくんが本当にそれでいいなら、それでいいよ」


 想定外の言葉が返ってきた。てっきり瑞奈も屈託していて、無理矢理にでも押し付けてくるのだと思っていた。


「ゆうきくんはゆいちゃんとは釣り合わないって言ったけど、嫌いって言わなかったよね」


 黙っていた。じっと「果たし状」の文字を見つめていた。

 悠己が受け取らないと見るや、瑞奈は封筒を持つ腕を下ろした。両手を後ろ手で組んで、胸を張ってみせる。


「前にゆうきくん言ってたよね。俺はお兄ちゃんだから、瑞奈と一緒になって泣いたりできないって」


 瑞奈が友だちと遊ぶ、と嘘をついて、遅くまで帰ってこなかったときのことを言っているようだ。

 あのときは珍しく、悠己にしては感情的になっていた。あんなこと、本当は口にすべきではなかった。


 けれどどのみち、瑞奈はもう忘れていると思った。

 だからどうして今、急にそんなことを言いだしたのかわからなかった。

 悠己は面を上げて、傍らに立つ妹に聞き返していた。


「⋯⋯それが?」

「それはね、違うんだよ」


 瑞奈はまっすぐ悠己を見返して言った。


「お兄ちゃんだって、泣いてもいいんだよ」


 ――悠己はもうお兄ちゃんなんだから。瑞奈の前でも、そうやって泣いてちゃだめよ。


 妹は母と真逆のことを言った。だから間違ったことを言っていると思った。

 すぐに否定してやろうとした。けれど言葉が出なかった。自分を見つめる妹から、目が離せなくなっていた。


「ずっと、ずっと言ってあげたくて⋯⋯でも、言えなくて。まだまだ瑞奈が、頼りないから⋯⋯」


 瑞奈は一度うつむいた。けれどすぐに顔を上げた。


「でも今度こそ、大丈夫だから。瑞奈は元気だから」


 瑞奈は笑っていた。


「だからゆうきくんも⋯⋯辛いときは辛いって、悲しいときは悲しいって、嫌なものは嫌だって⋯⋯」


 けれど、かすかに声は震えていた。


「好きなものは好きって⋯⋯ちゃんと、言ってほしい」


 瞳には涙が浮かんでいた。瑞奈は不自然に何度もまばたきをして、涙をこぼすまいとした。

 そんな妹の姿を見ていられなくなって、悠己はテーブルの上のケーキに視線を向けた。


「⋯⋯そんなに本当のこと、言ってほしいの?」

「いいよ。まぁ瑞奈はゆうきくんのこと、何でも知ってるけどね」 

「いや瑞奈は全然わかってないよ。だいたいお兄ちゃんだからどうとかって、俺ってもともとそんなガラじゃないし」


 いったい自分は何を言おうとしているのか。

 今ここで、こんなことで本気になっても仕方ない。意味がない。


 熱くなりかけた頭の片隅から、冷静な声が聞こえて、口にするのを踏みとどまった。

 しかし瑞奈は、まるで悠己の言いかけたその先を読んだように続けた。


「わかってたよ、昔のゆうきくんは瑞奈のこと嫌いなんだろうなって。ゆうきくんはあんまりしゃべらなくて、何考えてるかわからなくて⋯⋯瑞奈もゆうきくんのこと、あんまり好きじゃなかったから」


 まだ母が存命だったとき。口にこそしなかったが、お互い薄々感じていたことだ。

 初めてそれを、面と向かってはっきり言葉にされた。あの感覚は間違いではなかったのだと、確信に変わった。


 そのとき急に目の前が真っ白になった。頭の中で何かのスイッチが切り替わったようだった。気づけば顔を上げて、夢中になって言い返していた。


「そうだよ嫌なやつなんだよ! 自分は何の取り柄もなくて、なにもしない⋯⋯できないくせに、瑞奈が褒められてるのを見て嫉妬して、大人ぶってわかったふうな顔して、けど本当は自分に自信がないくせに負けず嫌いで、ひねくれもので嘘つきで、今だってそれを見透かされるのが怖くて⋯⋯」

「でも今は、大好きだから」


 まっすぐに見つめ返されて、声を、息を、飲み込んでいた。


「いちばん大好きな、お兄ちゃんだから」

 

 激しい胸の動悸がする。だけど呼吸は止まったままだった。

      

「だから、もしゆうきくんがひとりになっても⋯⋯。ゆうきくんが瑞奈にしてくれたみたいに⋯⋯」


 妹の姿がゆがんで、見えなくなった。


「瑞奈はずっと、そばにいるよ」


 喉の奥からこみ上げてきたものを、必死に押し留めた。

 けれど耐えきれなくなって、とうとう息を吐きだした。

 

 泣いていた。

 溜まった涙が溢れて、頬を伝って落ちた。

 しかし拭うこともしなかった。唇を震わせながら、口にした。


「俺⋯⋯みんなよりも、ずっと瑞奈と一緒にいたのに⋯⋯役立たずで、結局なにも、してあげられなかったね」

「そんなことない。ゆうきくんがいたから⋯⋯ずっとそばにいてくれたから。ゆうきくんが瑞奈のために、頑張ってお兄ちゃんをしてくれたこと⋯⋯瑞奈はちゃんと知ってるから」


 頭に手が触れて、ゆっくり撫でつけてくる。

 もう言葉が出なかった。ただ必死に袖で目元を拭っていた。それでも次から次へと涙が溢れてきた。


「ありがとう、お兄ちゃん」


 最初は嫌々だった。兄だから。

 母にお願いされたから。そうするしかなかった。


 でも妹は違う。誰に言われたわけでもない。

 自らの意思で、手を差し伸べている。不器用なりに。彼女なりに。


 情けなくなった。あれもダメこれもダメと、なんだかんだ理由をつけて、否定して、ひねくれていじけて、逃げてばかりいる自分が。


「やっぱりゆうきくんは、ゆいちゃんといるときが、一番楽しそうだから。だからはい、これ」

 

 瑞奈はふたたび「果たし状」と書かれた封筒を差し出してきた。

 先ほどはシワ一つなかった封筒には、固く、強く握りしめた跡があった。

 

「ちょっと曲がっちゃったけど」

 

 悠己が受け取ると、瑞奈は恥ずかしそうに笑った。

 その拍子に、目尻からは一筋の涙が頬を伝った。瑞奈は慌ててうつむいて、背を向けた。悠己は席を立って、背後から小さな肩に手を置いた。


「⋯⋯ありがとう、瑞奈」


 触れた肩はかすかに震えていた。

 やがてその背中からはすすり泣く声が聞こえてきた。


 だからいつかのように⋯⋯いつものように。

 悠己は妹の頭を優しく撫でてやった。


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― 新着の感想 ―
ここまで読んで、男はガキって感想は流石に草。ちゃんと読んでんのか?
美味しいところを全てもっていかれた隣の席キラーさんの明日は一体
やっぱ男はいつまでもガキで、女の子はすぐ追い抜いて精神的に大人になっちゃうね
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