巻き戻り
朝から雨は降ったり止んだりを繰り返して、悪天候は一日中続いた。午後からは雲が白んできて、ちらほら雪が混じったりもした。とにかく寒い日だった。
体育が終わって、更衣室で着替えをすませる。唯李は自然と集まったクラスメイトの女子たちと群れをなして、冷たい廊下を行く。
「最後の唯李のオカマシュート入ったのマジで笑うんだけど」
「あ~あれね。ていうか唯李のせいで全然試合に集中できなかったわ」
「ボケなのか天然なのかわかんないときあるよね」
「黙れ小僧!」
「なんそれ」
今日もなんだかんだあちこち引っ張りだこ。知り合いが増えたら増えたで疲れる。気を張ることもある。けども、やっぱり楽しい。
その一方で、心から楽しめないでいる自分がいる。みんなと笑い合っていても、頭の片隅で引っかかって、ずっとくすぶっている。
この前の休みに偶然出くわしたときのこと。瑞奈とのこと。そして悠己のこと。
瑞奈からあれきり連絡はない。
何度思い返しても、あのときの瑞奈の様子はおかしかった。
彼女の言葉の真意を問いただしたかった。もし何か困り事があるのなら、相談してほしかった。けれど兄の恋人でもなんでもない今の自分があれこれ口出しをするのも、おこがましいような、差し出がましいような気がして。
瑞奈が大丈夫、と答えたのは、つまりそういうことなのかもしれない。もう赤の他人に余計な心配を、迷惑をかけたくない。
そう思われるのは寂しかった。今はもう、なんだって気兼ねなく言い合える関係だと思っていた。ただの友達とも違う……彼女のことを、妹のように思ってもいた。
瑞奈が口を閉ざすならば、悠己に尋ねればすむことだ。休み明けに直接問いただしてやろうと腹を決めていた。
けれど実際顔を合わせてみると、できなくて。牛丼の味がどうだったとか、まったく関係のないどうでもいい話をしていた。当然会話も続かなかった。窓際の空気が薄く淀んでいるような感じがして、息苦しささえ覚えた。
唯李のもとに人が寄ってくる一方で、隣の席には誰も寄り付かなかった。結局悠己とは、ほとんど会話がなかった。
そして最悪のタイミングで、席替えの話。
「ねーくるみ席替えは~? くじどうするの?」
「大丈夫大丈夫、ちゃんと業務委託してあるから」
「大丈夫なの本当に? もう作っちゃおうよ私達で」
「あー教室寒い寒い、今日は寒いからさっさと帰る!」
周りの会話を聞き流しながら、教室まで戻ってくる。
一行に紛れて後ろの戸口から入っていくと、入れ替わりに男子生徒とすれ違った。ほとんど気配を感じなかった。周囲の女子たちもおしゃべりに夢中で、誰も気に留めていない。もちろん声をかけることもない。
唯李も同じだった。特に気にも留めなかった。けれど違和感に襲われて、慌てて振り返った。早足に廊下を立ち去る後ろ姿だけを見た。
一団はくるみを囲んで、教室の真ん中で集まりだす。唯李はこっそり群れからはぐれて、自分の席へ。カバンをつかんでそのまますぐ教室を出た。急いで廊下を進んだ。
下駄箱で悠己の姿を見つけた。なんとか追いついた。
彼は今まさに校舎の外へ出ていくところだった。
急いで靴を履き替え、昇降口を出た。下校する生徒たちの合間を縫って、見失わないように後をつける。
空は一面白い雲がかかっていて、雨は降っていなかった。けれどアスファルトは黒く湿っている。またいつ降り出してもおかしくない。
一定の距離を保ちながら、校門を出る。バスを待つ制服の列を横目に、駅へ向かう狭い歩道を歩く。行く手に下校中の生徒たちがちらほら見える。悠己は混雑を嫌ったのか、途中で大通りを折れて裏路地へ入った。唯李もそれにならう。
いつもの街並みがやけに静かだった。少し行って、すぐまた道を曲がる。その先でぽつんと一人歩く後ろ姿を見つけた。この路地はたまに唯李も使う。何度か悠己と一緒に通ったことのあるルートでもある。
悠己の歩みは速かった。普通に歩いていては距離は縮まるどころか、広がる一方だった。歩いても歩いても、遠ざかっていく。不思議な感覚だった。まるでスローモーションの夢の中にいるようだった。
目で背中を追っていると、水たまりに足を入れてしまった。靴下が濡れて、足の指先が凍るように冷たい。
もう追うのをやめるか迷った。どうして彼を追いかけているのか、わからなくなってきた。追いついて、なにを言うのか、なにを話すつもりなのか。
そのとき暗がりで手を振った瑞奈の姿が、一瞬頭をよぎった。はっと、気を持ち直す。浮かんだ映像を振り払うように、駆け出していた。
また水たまりを踏んだけども気にしない。走りながら背中に近づいて、自分から肩をぶつけていった。
「おい、どこ見て歩いてんだよ兄ちゃん!」
悠己は足を止めて振り向いた。驚いたように一瞬目を見張らせる。しかしすぐに目を細めた。
「……何?」
「何って……たまたま見かけたから?」
また嘘。もう癖になっている。
けれどそんな仏頂面で聞かれたら、取り繕いたくもなる。
悠己は何事もなかったかのように歩みを再開した。置いていかれそうになって、慌てて隣に並ぶ。
「なんか久しぶりだねー。こうやって帰り一緒になるの」
なんともない顔で、能天気な声を上げる。
その裏で、なにを話そうか必死に考えていた。
「雨降ってきたら、入れてもらおっかな~」
悠己が手にするビニール傘を見下ろして言う。カバンには折りたたみの傘を忍ばせていたが、気づかれることはない。
「なんかさ、思い出すね。隣の席になってすぐのときとか」
我ながら唐突な話題の振り方だった。けれど何か話していないと、もう会話がなくなりそうな気がした。
席替えを前にして、いよいよ、だとか。なんだかんだでわかってる、だとか。周りは勝手に盛り上がっている。
だけどみんな、決定的な思い違いをしているんじゃないかと思う。
告白するとかされるとか⋯⋯関係が進むとか。
そんなこと、もうどうだってよくなっていた。ただいつもみたく話したかった。ズレたことを言う彼をとがめて、ペースに乗せられてお互いくだらないことを言って、笑い合って⋯⋯。
それだけで、よかったのに。
そのとき悠己が急に立ち止まった。どこか遠くを見ているような目と、目があった。
何か言う、と思った。彼の口もとを見つめて、じっと耳を澄ました。
「君は⋯⋯隣の席になった男子を惚れさせるゲームをしている」
まるで台本のセリフでも読むように悠己は言った。
一瞬、何を言っているのかわからなくて頭が混乱した。
けれどすぐに思い出した。
いつかの帰り道に、彼はそう言った。
今と状況が似ていた。
帰りが一緒になって、帰り道で、声をかけて……。
彼のその一言から始まった。
そう、自分は彼の前では隣の席キラーで、隣になった男子を惚れさせるゲームをしていると勘違いされていて。けれどいつしかこの関係が心地よくなっていて、おかしな言い合いをしているときが好きで。
「⋯⋯なんて、そんなわけないよね」
悠己は小さく笑った。
まるで自分で自分を嘲るような、そんな笑みだった。
彼はまぶたを伏せて、ゆっくりと頭を下げた。
「ごめん」
それきり微動だにせず、面を上げようとしなかった。数字にしたらほんの数秒だったのかもしれないが、それはとても長い時間に感じられた。
やがて悠己は顔を上げた。落ちたままの視線と目が合うことはなかった。
唯李はわけもわからずただ聞き返していた。
「それって⋯⋯何?」
「隣の席キラーなんて、そんなの最初から存在しない。ただのおふざけだって⋯⋯違う?」
問われて、とっさに何も返せなかった。
ただのおふざけと言われたら、それまでかもしれない。
だけど隣の席キラーは、自分にとって、いや彼にとっても、それだけではない大事な、特別な意味を持ったものだと思っていた。
「それは⋯⋯そうかも、しれないけど⋯⋯。でも、」
肯定してしまって、反論しようとして、言葉に詰まった。
隣の席キラー。悠己の言葉から始まった、勘違い。惚れさせゲーム。
誤解が誤解を呼び混乱を招き、周りも巻き込んでさらなる騒動へ。
けれど問題を解決したのもまた、隣の席キラーという言葉だった。それをかさにきて、時には頼って。
仮にそのすべてが虚言だと気づいたのだとしても。
ずっと前から気づいていたのだとしても。
隣の席キラーなんて、最初から存在しない。
彼の口から、そんなふうには言ってほしくなかった。
心の中で反発が渦巻いていた。けれど、なんて言葉にしたらいいのかわからなかった。
きっとわかってくれていると思った。隣の席キラーのこと、悠己も自分と同じ気持ちなのだと思っていた。
怒りよりも、悔しさよりも、ただ悲しかった。
「本当に⋯⋯嫌なやつだよね。ごめん、ごめんなさい」
悠己はまた頭を下げた。
最近、謝られてばかりだ。
でも謝られたところで、だからなんだというのだろう。仮に責めたとして、何がどうなるというのだろう。だからずるい。
頭の中がぐちゃぐちゃになって、どうして謝られているのかもよくわからなくなった。
それよりも、どうすればいいかずっと考えていた。いつもみたいに、どうやったら面白おかしく切り抜けられるか考えていた。
なんとか言え。言い返してやれ。
いっそもっと謝らせてやればいい。徹底的に追い詰めてやればいい。
芝居がかった口調で、大声でまくしたてて。
そして最後は笑いで落ちをつけて、なんとか着地して。
これまでそうやってきた。だからこれからも、うまくやれると思った。いつしか根拠のない自信がついていた。
けれど今は、声が出なかった。
喉がぎゅうっと詰まって、声を出せないよう締め上げてくる。
これまでと何が違うのか、すぐに悟った。
ずっと、守られていたのだと思った。彼の前で、いいところを見せてやりたかった。かっこつけたかった。
もしうまくいかなくて失敗しても、彼がきっとなんとかしてくれる。
安心。信頼。
だからこそ、多少の無茶だってできた。立ち向かうことができた。
けれど今、自分の後ろには誰もいない。
いつも後ろで、見守ってくれていたはずの存在。
それが今は、正面にいる。自分と向かい合っている。
立っている感覚がなくなったようだった。膝が震えて、足元がおぼつかない。お腹にも震えがくる。寒さとは違う。
もしこのまま倒れたとしても、きっと誰も支えてはくれない。
それはいつか感じた感覚によく似ていた。まるで一瞬にして、時間が巻き戻ったかのようだった。
――あいつの隣、マジハズレなんだけど。最悪。
そう言われるのが聞こえて、何も言えずにうつむいて、ひとり唇をかみしめていたあのときに。
言いたいことはあった。聞きたいこともあった。
だけど喉が枯れてしまったかのように、声が出なかった。自分がちゃんと呼吸をしているのかどうかも定かではなかった。
「――それじゃ」
それだけ言って、影は立ち去った。
遠ざかっていく後ろ姿を、ただ見送っていた。
首筋に冷たいものが触れた。遅れて雪混じりの雨が、ぽつりぽつりと落ちてきた。
傘を取り出すこともせず、ただ立ちつくしていた。
帰り道。傘。雨。
いつだったか帰り道に、傘を貸してくれたことを思い出した。
あのときもこうやって、後ろ姿が見えなくなるまで、道ばたに立っていた。雨の降っていた日。雨降りの日。
いったい、いつからだったのだろう。
もしかしたら、そのときだったのかもしれない。いや、そんなすぐのはずがない。もっとずっと後のはずだ。けどそれもはっきりとしない。
突然頭を撫でられて、いきなりそんなことするとか普通じゃないって、頭おかしいだろって思いながら、家に帰ってからもずっと気になってしまって。
いや違う、頭を撫でられたのはまた別の日だ。席替えしてすぐ、たまたま帰りが一緒になって、次の日にお弁当を作って持っていって。
あれ、でもあのとき傘を借りて、傘はどうしたんだっけ。次の日に返したんだっけ。でもたしか次の日は晴れていて、傘を持っていくのは変に思われそうで⋯⋯。そうだ、お弁当のことに夢中で、傘を持っていくのを忘れたんだっけ。
なぜかそんなことを今、必死に思い出そうとしていた。けれどそうでもしないと頭の中が真っ白に塗りつぶされて、そのまま何もかも記憶から消えてしまいそうな気がした。
だからずっと繰り返していた。何度も何度も映像を巻き戻して再生しながら、雪混じりの雨が落ちる音を聞いていた。