リセット
年明け初の登校日は、連休で怠けた体には厳しい寒さだった。
暖房の効いた駅構内から外に出ると、寒気がつんと鼻を刺してきた。マフラーを巻いて下にセーターを着込んでも、顔と足元には冷たい風が吹き付けてくる。スカート下、むき出しの膝の感覚が早くもなくなってきていた。
駅から最短ルートを選んで、足早に学校へ向かう。
いつもは人混みを避けて少し遠回りをすることもあるのだが、今日はそんな余裕はない。生徒の群れに混じって狭い歩道を進む。
学校前のバス停が見えてくると、ちょうどバスが滑り込んできた。車内から吐き出される人影の中に、見知った顔を見つける。人の波を縫って忍び寄り、背中に抱きつく。
「人間ホッカイロ発見!」
腕を巻きつけると、じんわりぬくもりが伝わってくる。柔らかい。髪の毛いい匂い。
「ちょ、ちょっと……唯李!?」
獲物はすぐに暴れだした。慌てて距離を取る。
勢いよく振り向いた凛央の頬には赤みがさしていた。唇から白い呼気が漏れていく。
「もう、びっくりさせないでよ」
「あぶな~、凛央ちゃん今肘でこようとしたでしょ肘で!」
「だって痴漢かと思った。ていうか痴漢でしょ」
これは間違いなく痴漢を撃退するタイプのJK。頼もしい。
凛央は口をとがらせつつ後ろ髪を手で払った。この寒いのに特別防寒をしている様子はない。抱きついた感じ、下に着込んでいるような感触もなかった。
「凛央ちゃんそれ、寒くないの?」
「ふっ、鍛え方が違うのよ」
「強キャラやん」
珍しく冗談混じり。毛糸の手袋で凛央の素手をこすり合わせてやると、「いいから」と腕をのけられる。恥ずかしがりは相変わらずだ。
「おせちおいしかったよね~。萌絵ちゃんいきなり泣き出して絶対に笑ってはいけない始まったけど」
「笑ってはいけないって、唯李は普通に爆笑してたじゃないの」
とめどなく話をしながら、校門に向かって歩いていく。
正月に萌絵の家に呼ばれて、一緒に豪勢なおせち料理をいただいた話。そのおりに、なぜか萌絵が急に感極まって泣き出した話。
あえてみんなを呼ばなかったのは、彼女なりのこだわりがあるらしい。少しずつ増やしていくのだという。今回は凛央が選ばれた。
「ああいうときふざけるのやめなさい?」
「だって変な空気になるのつらいじゃん。……うぉっ!?」
「うぃーす唯李あっけおめ~」
うしろからタックルを食らって前のめる。伸びてきた手が無遠慮にお尻を撫でてくる。本気の痴漢。
この感じ、思い当たるのは我がクラスの委員長だ。
「ちょやめい! この痴漢が!」
「別にいいじゃん、減るもんじゃないし」
「いやすり減るでしょ」
「どんな尻よそれ」
くるみはケラケラと笑いながら隣を歩き出した。
防御力高めの防寒装備だ。マフラーにコート、スカートの下には学校のジャージを履いている。
「てか自分ジャージて」
「だってさーむいじゃん」
くるみは小さい体をかがませて、「どもども~」と凛央の隣にすり寄っていく。学園祭のときすごいカッコしてたよね~、と切り込んで、いくつか質問を浴びせたあと、髪がきれいだのスタイルがいいだのと褒め殺し。あっというまに距離を詰めていき、強引に連絡先まで交換してしまった。
「やー友達の友達ってすぐ仲良くなれるからいいよねー」
くるみはスマホを触りながらホクホク顔だ。なんだかずるいような気がするけども、そこはさすがのコミュ力か。
しかし彼女はどちらかというと来る者拒まず、の受け身タイプで、自分から行くようなイメージがなかっただけに少し意外だ。
「くるみんさ、キャラ変した?」
「キャラ変って、何が?」
「なんかさ、アタシやる気ないから~みたいな斜に構えた感じだったじゃん」
「え? そうだっけ? っていうかダサくない? そういうの」
「ふ~ん? ……さてはなんかあったな?」
「いや別に? てかRIOのアイコンこれ何これ~?」
やたら楽しそうだ。唯李の茶化しも気にかけていない。無理をしているのかと思ったけどもそんな感じはない。なにか吹っ切れたようでもある。
思い当たるとすれば、去年のクリスマス前の一件か。あれ以来、彼女とはよりいっそう距離が縮まったと思う。
くるみはスマホ片手に、思い出したように凛央を見上げて、
「そういえばあれどれぐらい書いた? 国語の宿題のやつ」
「国語の宿題って?」
「あれだよほら、今年の抱負と将来の展望、みたいな題で作文。やたらめんどくて」
「え? 私のクラスそんなのないけど……」
「マジ? 小川ちゃん相変わらず暴走してんな~」
くるみがやれやれと首をすくめる。もはやネタとして昇華しているのか面白がっているふうでもある。文句を垂れる代わりに「唯李はちゃんと書いた?」と話を振ってくる。
「ん~あたしは、まああれだよね、会社でバリバリ働くOLみたいな? キャリアウーマン的なのもあこがれるよね」
「ポンコツOL?」
「誰がだよ」
くるみの二の腕に軽く手の甲をぶつけて続ける。
「やっぱ普通に働きつつ、SNSとかでバズって二足のわらじ的なやつかな」
「バズるって何を?」
「まぁそれは、いろいろと? たとえばちょっとしたマンガとかでちょいバズって本も出しちゃってますみたいな」
「唯李っていっつもそういう妄想してんの?」
「それか会社のSNS係とかさ、ああいうのよくない?」
「絶対自我出しすぎて調子こいて炎上しそう」
くるみからは妄想扱いされたが宿題の作文にはすでにそうやって書いた。それは言わずに笑って流すと、唖然とした表情の凛央と目が合う。
「唯李も意外にちゃんと考えてるのね……」
「失礼すぎでしょその驚き方。将来の夢は魔法少女です☆とか言うと思った?」
「うふふ、それはないわよいくらなんでも……ぶふっ」
「めっちゃ笑うじゃん、勝手に変な絵想像してる? まぁ中二ぐらいまでは魔法少女ワンチャンあるかなって思ってたけどね。なんも迎えに来なかったからやっぱ無理かなって」
「ちょっと気づくの遅くない?」
そうは言うがまだわからない。人類はすでに異星人の侵略下にあるのかもしれない。この現実という仮想空間の中で終わらない夢を見させられているのかもしれない。
「じゃあそういう凛央ちゃんは?」
「ん~……私は、教職でも取ろうかなって」
異論なし。すでに学校の先生より凛央に教わるほうがわかりやすいまである。
「さすが凛央ちゃん、自己分析も完璧だね」
「みんなして先生先生うるさいからよ」
「キレてるじゃん」
今やクラスではそれなりの人気者らしい。少し前まではそんなそぶりもなかったのに、何がきっかけで変わるかなんてわからないものだ。なんだかマイナーな歌手がメジャーになってしまったみたいで、少し寂しい気もする。
話を聞いていたくるみが頷きながら、
「へ~……そうなんだ。アタシも前は先生とか絶対無理って思ってたけど、今は意外に悪くないのかなぁ~って思ったりしてんのよね。そういうのって、結構また変わると思うのよ。だから今そんな、重たく考えることもないかなーって」
彼女のことだからガチガチに安全策で固めているのかと思いきや、そんなことはなかった。でもなんだかほっとした。自分もなんとなく思っていたことを、はっきり口にしてくれたからかもしれない。
「それで、くるみんは作文なんて書いたの?」
「そんなことより唯李の尻ひっぱたこうぜ!」
そうはさせるかと背後を取られないよう牽制。呆れ顔の凛央を身代わりにたてる。攻めあぐねるくるみを前に、裏切りをして背後から凛央のお尻を狙う。二人ではさみうちにすると、凛央は顔を赤くして怒りだした。
笑いながらくるみと一緒に走って逃げた。校門を過ぎた先で、凍った地面に足を滑らせる。変なポーズでもちこたえた。すごいがに股。
くるみが指をさしてきて笑った。追いついてきた凛央も一緒に笑った。
助けて助けて、と腕を引き込んでふたりとも巻きぞえにして、寒さも忘れてはしゃいだ。バカみたいだけど楽しい。純粋にそう思える瞬間。校舎に入る頃には、体もすっかり温まっていた。
途中で凛央と別れ、くるみとともに教室へ。敷居をまたぐやいなや、くるみは手近な女子グループに突撃していく。すぐさま溶け込んでにぎやかになる。やたらハイテンション。ついていくといじられ役になるからそっちには行かない。
周囲と軽く新年のあいさつを交わしながら、自分の席に向かう。
窓際の席は静かだった。空気が冷えていて硬い感じがした。まるで教室の端っこだけが切り取られたみたいだった。そこに悠己はひとり佇んでいた。本を読んでいるらしかった。肘を付きながら、物憂げにページをめくっている。
「おはよ」
声をかけると眠たそうな顔がこちらを見て、つぶやくように返事をした。いつにもましてとんでもなくテンションが低い。
先ほどまでとの落差に戸惑う。調子が狂いそうになるが、ここはくるみを見習ってノリよく机をのぞいていく。
「朝っぱらからそれ何読んでるの~?」
「本」
軽く流された。いつものだ。またリセットしてきた。ちょっと休みを挟むとすぐこれだ。
まったくしょうがないなと息をつく。けれどこれも半ば、恒例のネタだ。嫌な気はしない。どころか、じんわりと笑みがこみ上げてくる。そしてやっぱり、安堵している自分がいる。
――ふざけてからかわれてるだけだから。
ずっと気にかかっていた。初詣のときのこと。
父親に彼女なのか? と問われて、悠己は瑞奈の前できっぱり違う、と言った。彼女なんかではないと。
親の前では恥ずかしいからやめろ、ということなのかもと瑞奈にはそうごまかした。その後、悠己とは会う機会がなかった。真意を聞こうにも聞けなかった。向こうから何事か連絡してくるかも、とも思っていた。けれどそれもなかった。
今そのことに触れるかどうか迷った。
だけど悠己は相変わらずいつもどおり。ならばこちらもいつもどおり。
年も明けたことだし、ここはひとつ心機一転、初心に戻ろう。そう思い返して、とりあえず浮かんだ話題を振っていく。
「や~この前は、いきなり悠己くんのお父さんが登場してびっくりだったね」
悠己は折に触れて母親の話をすることはあれど、父親の話はまったくといっていいほどしない。もしかすると険悪なのかと察していたが、実際目にすると仲は悪いどころか良好なようだった。
印象としては普通の優しそうなお父さん、といった感じ。自分は一言二言交わしただけで緊張してろくに話せなかったから、どんな人なのか興味がある。
「瑞奈にも、ちゃんと話したから」
悠己の返答はまったく脈絡がなかった。すぐに聞き返す。
「ん? 何を?」
「ニセ恋人の件」
――ニセ恋人も、もう終わりにしよう。
年末のクリスマスパーティ。あのとき家のベランダでそう言われたものの、直後に部屋の中から呼ばれて話はうやむやになった。それ以降、その件についてはお互い触れていない。
(あれ? リセット、されてない……?)
初詣のとき、どうして悠己が否定したか。もう一つの可能性。いや可能性などというものではない。本当は答えは出ていた。
「……瑞奈ちゃんは、なんて?」
「別に。『そっか』って」
あの瑞奈がそれだけで終わるとは思えない。もしやここでは言い出しづらいようなことを言ったのだろうか。揉めたのかもしれない。考えをさまよわせながらも、笑顔を維持する。
「ずいぶんそっけないねぇ~。あの野郎あとでほっぺた伸び伸びの刑だな~」
「瑞奈からなんか連絡来た?」
「え? 別に……」
初詣で会って以来、何も連絡はない。ときおり用もなくネタ画像を送ってきたりすることはあるが、最近は不気味なほどに沈黙している。
「ちゃんと唯李にお礼、言わせるようにするから」
「え? いや冗談だよ? やだなそんなマジに……」
「そういうわけにはいかないよ」
遮られる。存外に強い口調だった。
悠己はいつの間にか本を閉じて、こちらに視線を向けていた。
けれどここで変に真面目に取られても困る。唯李はあくまでくだけた調子で続ける。
「だからいいってそういうの。もともとあたしが勝手に言いだしたことだし、それになんか恥ずかしいじゃん、滑ったネタの説明するみたいで」
瑞奈に友達を作らせるために、悠己は彼女を作ってみせる。そのために唯李が自ら彼女役を買って出る。
ただの茶番と言えば茶番だ。始まりもおふざけ半分。もう続ける必要がない、と言われればそうだ。
けれども忘れかけたりネタにしながらも、なんだかんだでずっとやってきて、唯李自身楽しんでいた部分もあった。いや、楽しかった。それがあったからこそ、脈絡のないデートだとか、無茶なイベントにもつながった。
「ごめんね、今まで。いろいろと迷惑かけて」
悠己はそう言って、目を伏せた。
そうだそうだ、これまでのあたしに対する仕打ちを詫びろ、頭こすりつけて詫びんかい。
とっさにそうやって返そうとした。けれど飲み込んでいた。
悠己の表情から、感情が読めなかった。考えがわからなかった。あのクリスマスパーティのときと一緒だった。学園祭の屋上での彼を思い出していた。
「うん……」
ただ頷いていた。お互い沈黙になる。
そのおりに担任の小川が戸を開けて入ってきて、HRが始まった。話はそれで途切れた。