大掃除
父の和輝が帰ってきたのは、クリスマスパーティから三日後の夜遅くだった。悠己が父の帰宅に気づいたのは、その翌朝。
聞き慣れない物音に目を覚ました。寝室を出ると奥の和室から、金属がこすれてぶつかるような音がする。不審に思って覗きに行くと、ちょうどダンボール箱を抱えた和輝が部屋から出てきた。
「おっ、起きたか」
和輝はダンボールを通路脇に置くと、軍手をはめた手で額を拭った。顔全体にうっすら汗がにじんでいる。冬だというのに長袖シャツ一枚だ。
通路の壁には掃除機が立てかけてあった。横目にしながら悠己は尋ねる。
「掃除?」
「ああ、大掃除だ。掃除してないだろ?」
大掃除らしきものは一応済ませてある。リビングはパーティの後片付けと一緒に掃除したばかりだ。風呂場やトイレ、キッチン周りも一通り清掃した。瑞奈の部屋がそれなりに難航したが、今はきれいなものだ。この和室以外は。
部屋を侵食しているのは和輝の趣味の品――主にあやしげなスピリチュアルグッズだ。そのほとんどが、いやすべて父が買い集めた物だ。飾るにも場所がなく押し入れにもしまいきれなくなって、戸が開けっ放しになっている。整理整頓しようにも勝手に捨てるわけにはいかず、手がつけられない状態だった。けれどそのことには触れず、悠己は別のことを聞き返す。
「昨日帰ってきたの?」
「うん、夜中こっそりな」
週に一度は電話かメッセージでやりとりはしていたが、こうやって父と面と向かって話すのは二ヶ月ぶりぐらいか。思ったより顔の血色がいい。やや目元のくまが目立つが、一時期よりはだいぶよくなっている。この前までは中途半端な長さの髪だったのが、両サイドを刈り上げて今風の短髪に。四十も半ばにさしかかったここにきて、いくぶん若返ったように見える。
「ちょっと痩せた?」
「ん? ああ、いくらかお腹周りがマシになったかな」
和輝はお腹を軽く叩いて笑う。
ここ数年、痩せたり太ったりを繰り返していたが、最近は落ち着いたようだ。身長は悠己より少し高く、中肉中背。小さい頃は父親似とよく言われたが、そこまで似ているという自覚はない。
話もそこそこに、かたわらのダンボールを見下ろす。
中にはわりと大きめのもの――ミニ神棚や破魔矢、台座付きの水晶玉、謎の龍をかたどった置物などが無造作に押し込まれている。どれもかさばって扱いに困りそうなものばかりだ。
部屋の中を覗くと、押し入れの中のものが畳の上に散乱していた。掃除の終わりにはまだ程遠い。
「うまく整理しないと押し入れの戸が閉まらないね」
「いや、これ捨てるやつな。あの奥に入ってるのも全部捨てる」
「え?」
思わず父の顔を見た。和輝は悠己には一瞥もくれず、散らかった部屋の中を見つめている。聞き間違いかと思って確認する。
「捨てるの?」
「ああ」
父の返事はそれだけだった。身を翻して、黙々と掃除を再開する。
物置きの戸が押し開けられると、奥で何かが崩れる音がした。悠己は近づいて声をかける。
「手伝うよ」
「いや、いい、いい」
和輝は手で制しながら首を振った。中腰のまま悠己を見上げる。
「それより飯食ったらどうだ。……ああ、食べるものあるか? 何か買ってくるか?」
「いや、あるから大丈夫……」
「埃っぽいからあんまり入ってこないほうがいいぞ」
半ば追い出されるような形でリビングへ。言われたとおりに朝食を済ませる。
朝食といってもたいそうなものを食べるわけではなく、買ってあった菓子パンをかじる程度だ。
テレビのニュースを見ながら食べ終わると、スマホ片手にソファでくつろぐ。その間も奥の部屋から騒音が聞こえて落ち着かない。
冬休みではあるが、これといってやることがなかった。漫然と過ごしている。やるとしたら学校で出された課題ぐらいか。それもほとんどめどはついている。
休み前に園田が「課題なんかより塾の冬季講習が、模擬試験が……」と話をしていたのが少し引っかかっているが、自分も今すぐ何かしようという気にはなれなかった。
やはり父の手伝いをしようと立ち上がろうとすると、リビングの扉がゆっくり開いて、中を覗いてくる顔と目が合った。瑞奈は顔をしかめながら、部屋の中を見渡し始める。
「なにやってんの?」
「しーっ! 静かに!」
瑞奈は鼻先に人指し指を立てて声をひそめた。
とっくに起きて自室にこもっていたらしい。スカートにタイツ、セーターの上にコートを羽織って、髪もしっかり両端を結わえている。
「どしたのその格好、気合入ってるじゃん。出かけるの?」
瑞奈は答えるかわりにガタゴトと音のする方角へ目配せをした。
「あれなにやってるの?」
「大掃除だって」
「なんで急に?」
それは悠己にもわからない。父が唐突に始めたことだ。
年末の大掃除、はわかるが毎年きちんとやっているわけではない。そもそも父があの部屋を整理しだしたのは初めてのことだ。
瑞奈は訝しげな表情をしていたが、すぐに気を取り直したように悠己に向かって手を差し出してきた。
「まぁいいや。おこづかいちょうだい」
「何? どっか行くの?」
「さよ達と映画見に行く」
達、というからには二人だけではないのだろう。徐々に友人の輪を広げていっているようだ。誰、とまでは聞かない。
立ち上がって戸棚に近づく。引き出しを引いて、生活費とは別口にお金を入れてある封筒を取り出した。中には小銭しか入っていなかった。先日のクリスマスパーティでの出費で使ってしまったことを思い出す。
その前にも友達と洋服を買いに行く、と瑞奈に言われていくらか渡したばかりだ。
悠己は結局自分の財布から、千円札を二枚取り出して渡す。
「いくら? これで足りる?」
「いよっ、ゆうきくん太っ腹! メタボ一直線!」
瑞奈がお金を受け取りながらお腹を叩いてくる。ついでにくるりとその場で回ってみせて、目元に向かって横ピ―スを作った。
「ねえどうこの格好、かわいい?」
「かわいいかわいい」
「この髪もイケてる?」
「超イケてる」
「ん~……。さっきからゆうきくん甘やかしすぎ! 糖尿一直線!」
ふくれっ面を作ってまたお腹を叩いてくる。褒められたいのかなんなのか。
しかし思えば変わるものだ。以前はいかに目立たない格好をするかに命をかけていたというのに。
瑞奈はポーチから取り出した財布にお札を詰めた。しばらく財布の中を吟味していたが、何を思ったか千円札を一枚差し出してきた。
「これ、返す」
「足りるの? ご飯とかも食べるんでしょ」
「いいの。最近使いすぎだから節約」
これでも金銭の扱いはわりとシビアだ。この前服を買ってきたときも、これが安くなってたから~と値札を見せて自慢してきた。
瑞奈は隣に腰掛けると、スマホを取り出した。誰かとメッセージのやり取りをしているようだ。角度的に画面が丸見えだが覗くのはよくないと、横顔に目線を移す。こころなしか前より目鼻立ちがはっきりしてきている。横顔のフェイスラインがきれいだと思った。
視線に気づいた瑞奈と目が合う。瑞奈は悠己を見つめたまま、何事か考えているようだったが、
「……ゆうきくんも一緒に来る? 柔術大戦見るんだけど」
「行くわけないでしょ」
何を言い出すかと思えば。にべもなく返すと、瑞奈は続ける。
「女の子ばっかりだからハーレムだよ? さよもいるし。ちょっといじられるかもしれないけど」
「すげえめんどくさそうなやつじゃん」
ちょっとどころではなさそう。ぎゃあぎゃあうるさいのが目に見える。
「でも家で和輝と二人よりよくない?」
父親を下の名前で呼び捨て。さすがに本人を前にはしないが、悠己と二人のときはふざけてよくやる。
「ん? 瑞奈? 起きてたのか」
そのとき当の和輝の声がして、足音とともに影がリビングに入ってくる。瑞奈が悠己に向かって、うえっと舌を出してきまりの悪そうな顔をしてみせた。
どうやら先ほどの忍び足は、父に見つかりたくなかったらしい。
「なんだ瑞奈、出かけるのか?」
尋ねられても瑞奈はスマホに視線を落としたまま答えない。悠己が肘でつついて促すと、しぶしぶ口を開いた。
「……ちょっと映画見に行く」
「ん? 一人でか?」
「……友達と」
和輝は少し意外そうな顔をした。一瞬悠己とも目が合う。
「何時ぐらいに帰ってくるんだ?」
「別にぃ~……てきとー」
瑞奈はそっぽを向いたまま言うと、ソファを立ち上がってリビングから出ていった。すぐに瑞奈の部屋のドアが閉まる音が聞こえる。
「はぁ、まったく……」
和輝はやれやれ、という顔で肩をすくめてみせる。黙って見送ったところを見るに、ややあきらめの境地らしい。
瑞奈は昔から父にあまり懐いていない、というのもあるが、最近は輪をかけてひどくなってきている。前回和輝が帰ってきたときもこんな調子で、会話もろくにしていなかった。
「掃除、終わったの?」
「いや、少し休憩。思ったより多くてな」
和輝はテーブルに置きっぱなしになっていたコップを手にした。中に入っていたお茶を一気に飲み干して、大きく息をつく。
掃除と簡単に言ったが大掃除も大掃除だ。悠己はテレビを消して立ち上がった。
「大変そうだし、やっぱり手伝うよ」
「いいのか? 悠己は出かけたりしないのか?」
「うん。どうせやることもないし」
和輝は無言で悠己の顔を見つめてきた。何か言うのかと思ったが、何も言わなかった。コップを置くと、「んじゃ、ちょっと手伝ってもらいましょうかね」とおどけた口調で笑った。
「これもいいの? 捨てて」
「ああ、いいよ。それ燃えないゴミで捨てられっかな~」
言われるがまま、紫色に光るピラミッド型の石をポリ袋に詰めた。
最初のうちは一つ一つ伺いを立てていたが、しだいにただの分別作業になる。父が奥から掘り出してきたものをより分け、ごみ袋の中へ。捨てたらバチが当たりそうなものまで容赦なしだ。
「これは?」
「なんだそれ? そんなの買ったっけな……それはとりあえず置いといて、保留」
怪しげなお香の入った瓶を少し匂ってから、脇にのける。
持ち主も首を傾げるようなものまで、次から次へと出てくる。それにしてもかなりの量だ。高そうな木箱を開けると、新品同様の数珠が出てきた。つまみ上げて眺める。
「ただ捨てるのはもったいなくない? ネットで売ったりすれば……」
「売れるかぁ? 手間だし、こんなのいくらにもならないだろ。置いといても邪魔だし、断捨離だよ断捨離」
あっさりした口ぶりに面食らう。それこそ一時期は、何かに取り憑かれたように集めていたというのに。
悠己は数珠をしまうと、かたわらのプラスチックケースに取りかかった。小物を入れる小さな引き出しがいくつもついていて、愛、金運、健康……とそれぞれラベルが張ってある。
これには見覚えがあった。いつだったかここから取り出したものを、唯李にあげたことを思い出す。
――あ? 金運パンチすんぞ?
拳を握ったしかめっ面が頭をよぎって、つい口元が緩む。もうずっと前のことのように思えて、懐かしい気持ちになる。ぼんやりケースを眺めていると、和輝が不思議そうな顔をした。
「ん? どうした?」
「あ、いや……」
慌てて表情を作って、新しいごみ袋を引っ張り出す。ケースの中の石を一つずつ取り出して、これも分別。少しもったいないような気もしたが、父がいらないというのなら、もう不要なものなのだろう。唯李に渡した石も本当にご利益があったのかは不明だ。
二時間ほどかけて押し入れの中を空にした。大きな埃を払って掃除機をかけ、最後に水拭きをすると、部屋は見違えるほどきれいになった。
「いや助かった。ありがとう」
掃除を終えた父は晴れ晴れとした表情をしていた。腰に手を当てて満足そうに室内を見渡すと、隅にある小さな仏壇を雑巾で丁寧に拭き始める。
胸のつかえが一つ、取れたような気がしたのは悠己も同じだった。
物が増えていく部屋を見るたびに、きっとそのうちと願いながらも、まだ時間はかかりそうだと思っていて、実際はどれだけかかるのかもわからなくて。
それがあまりにもあっけなく、あっさりと済んでしまった。正直言って拍子抜けだった。
もちろん悪いことではない。本来なら喜ばしいことのはずで、待ちわびていたことのはずで、自分は黙って受け入れればいいだけの話で。
だけど、聞かずにはいられなかった。
悠己は仏壇の前でかがんだ父の背中に尋ねた。
「あのさ……何かあったの?」
父は雑巾を持った手を止めて、ゆっくりと振り返った。悠己の顔を見上げて、少しだけ間を置いて、笑いかけてきた。
「悠己、今日はオレと一緒に出かけるか」