誕生日ケーキ
今日はクリスマスイブの前日。冬休みの初日。
そして亡き母の誕生日でもある。
瑞奈は小夜と出かけると言って、朝早くに家を出ていった。
すでに明日のパーティの飾り付けは終わっていて、家のリビングは一週間ほど前からクリスマス仕様になっている。
期末テストも無事終わり、さしあたって特にやることがなかった。この間までの一連のゴタゴタが嘘のようだ。
明日はみんなを迎え入れることになるため、家の掃除をしておく。けれどもこの前の土日もそう言って、瑞奈と大掃除をしたばかりだった。それほど見る箇所もなく掃除は昼前には終わってしまい、暇を持て余す。
一人でカップラーメンをすすってから、あてもなく外に出た。天気はすこぶるよい。
ふと思いついて、近場の停留所からバスに乗った。向かったのは市の総合公園。何か試合が行われるのか、スタジアムのある入口付近は人で混雑していた。
悠己はそれを避けるように散歩コースのほうへ。長い遊歩道を、一人ゆっくり歩きだす。
緑の中を奥へ、奥へ。しばらくして池に行き当たる。木陰にある木製のベンチに腰掛けると、悠己はぼんやりと水面を眺めた。
気を紛らわせるつもりだったが、いろんなことを考えてしまう。
唯李と一緒に来たときのこと。
ニセ恋人初デートで、どうしてここを選んだのか、今となっては謎だ。ここはお気に入りの、秘密の場所だったはずなのに。
でも後悔はしていない。膝枕してあげようか、なんて言ってからかってきたからやり返してやって、そうしたらいつの間にか唯李も眠りこけていて、ちょっと困ってしまったけれど。
さらに思い出すのは、それよりもずっと前。瑞奈と一緒に来たときのこと。
いつだったか妹の手を引いて、ここを散歩した。そのとき瑞奈はまだ学校も休みがちで、家にこもりきりだった。日光に当たるといい。運動をするといい。そんな話を耳にして、思いつきで連れてきた。
けれども瑞奈は日差しがまぶしい、暑いと言って、すぐにへたり込んでしまった。連れられて来たのも嫌々だったのだろう。
仕方なく瑞奈をおぶって歩いた。驚くほど軽かった。背中で瑞奈は黙っていたが、道の途中で肩を叩いてきて、指をさした。アイスの自動販売機だった。
そのときもこの木陰に座って、二人で一緒にアイスを食べた。
瑞奈はおいしいね、と言って笑っていたが、アイスを食べ終わると、急にべそをかきだした。理由がわからず尋ねても、瑞奈は答えなかった。
唇を震わせて、小さな声で「ごめんなさい」とだけ言った。何もできない自分が、嫌になったのかもしれない。
そのとき初めて妹のことを、かわいそうだと思った。
だけどどうしたらいいのか、なんて言葉をかければいいのか、わからなかった。だから瑞奈が泣き止むまで、ただじっとそばにいた。
日が沈むとともに公園をあとにした。
バスの中で『ご飯は?』と瑞奈にラインをすると、『大丈夫!』とだけ返ってきた。
駅前では、クリスマスツリーのイルミネーションが明滅を始めていた。
クリスマス直前ということもあり、行き交う人々の足取りもどこか浮かれているように見えた。
バスを降りた悠己はその足でファーストフード店へ向かった。
食事を済ませたあと本屋に立ち寄るが、何も買わずに外へ。寒くなってきた。足早に家路につく。
「もう遅い! ゆうきくんどこ行ってたの!」
帰宅するなり、玄関口で瑞奈が頬をふくらませる。
弁解する間もなく、腕を引かれてリビングへ。
部屋に入っていくとすぐに食卓の上に目がとまった。テーブルの上には、小さいクリスマスツリーの隣に、写真立てが置いてあった。
「ほらゆうきくん座って座って!」
立ちつくす悠己をよそに、瑞奈がいそいそとキッチンとリビングを行き来する。
瑞奈はテーブルに置いた箱の中から、いちごのショートケーキを二つ取り出すと、それぞれ別の皿の上に乗せた。
「……どうしたの? このケーキ」
「ふふん、ゆうきくん何も言ってなかったから忘れてると思って、瑞奈が買ってきました!」
してやったりと得意げな顔になる。
しかし反応がないと見るや、悠己の顔色をうかがうようにしてくる。
「これはお母さん誕生ケーキだから、クリスマスケーキとは別腹ですよ? これは完全に。完全なる別の腹」
勝手にケーキを買って怒られるとでも思ったらしい。言い訳をするような口調に変わる。
けれど瑞奈の言葉は耳に入っていなかった。テーブルの上のケーキと母の写真に、視線は釘付けになっていた。
「ど、どしたのゆうきくん? 言う? 今年はクリスマスでみんなとケーキ食べるんだからいいでしょって言う? やっぱり言う?」
「……忘れてなかったんだ」
「忘れる? 忘れてたのはゆうきくんのほうでしょ!」
瑞奈はほっとしたように声を張り上げる。
「食べよ食べよ」と瑞奈にせかされるままに、椅子に腰掛けた。
瑞奈は剥がしたフィルムに付いた生クリームをフォークですくうと、いちごを残すようにケーキの周りを崩して食べていく。
そして最後にすくったいちごを、一度写真の前に持っていって見せびらかしたあと、自分の口へ運んだ。
その様子を眺めながら、悠己もケーキをフォークでつついていく。お互いの皿の上が片付くと、悠己は改めて尋ねる。
「それ、髪……切ったんだ?」
今日切ってきたのだろう。長くなっていた瑞奈の髪が短くなっている。
瑞奈はよくぞ聞いてくれましたと声をはずませる。
「うん。これいつもと違うふうにしたいって言ったの。そしたら『え?』みたいな顔されて」
その美容室には悠己もつきそいで何度か行ったことがある。そのとき瑞奈は、黙って頷くぐらいのことしかしていなかった。
それが急にそんなことを言い出したら、向こうだって驚くのも無理はないだろう。
肝心の出来栄えにも満足なのか、瑞奈はご満悦の表情で、自分の髪を手で撫でつける。
「どう? さらさら~」
「でもそれ、縛るのはやめたんでしょ?」
口にしたあとで、詰るような言い方になっていたことに気づく。
気に入らない、と言っているようなものだった。頭ではわかっていても、態度に出てしまっていた。
すぐに訂正しようとする。しかし瑞奈は聞いていたのかいなかったのか、髪に手を触れながら、誰にともなくしゃべりだした。
「見て見てお母さんこの髪~」
「あらあら、かわいい~。その髪、瑞奈ちゃん縛るのやめたの?」
「もう縛るのはやめました~」
「おやおや~? それはお母さんへの反抗かな~? 一生このままにするって言ってたのに~」
「ふっ、いつまでも子供と思ったら大間違いですよ」
「よかったわねぇ、瑞奈ちゃんが『うわきっつ……』っていう周りの視線を浴びる前に気づいて~。ほんとに一生やられたらどうしようかと思った~」
瑞奈は母の口調と声音を真似て、一人芝居をはじめた。
似ている。やはり面影がある。まるで二人が一緒にいる姿が、目に浮かぶようだった。
そのさまを呆然と眺めていると、瑞奈は悠己に向かって笑いかけてきた。
「んふふ、お母さんこんなふうに言いそうでしょ?」
息が詰まって、返事ができなかった。
まるで自分の……自分勝手な思い込みを、それは間違いだと、はっきり目の前で突きつけられたかのようだった。
何も言葉が出ずにいると、瑞奈は不安げにじっと見つめてきた。
「……ちがう?」
異論も反論もない。瑞奈の言うとおりだと思った。
母ならば……もし母が生きていたならば、きっとそう言うだろう。瑞奈の芝居には、それだけの説得力があった。
だからただ頷いて、微笑み返すことしかできなかった。
「そうだよね」
瑞奈はにこりと安堵の笑みを漏らした。
瑞奈は忘れようとしていたわけでも、ごまかしていたわけでもない。
妹の中で、母は生きていた。ともに生きて、今も彼女のことを、見ている。見守っている。
けれどもしかしたら今は……母の生まれた今日は、特別な時なのかもしれない。
ならば母は自分にもそうやって、語りかけてくれるだろうか。何か言葉をかけてくれるだろうか。
すがるようにじっと写真を見つめる。母は笑っている。明るい照明に照らされた母の笑顔は、普段よりきれいに見えた。
――お父さんをサポートしてあげて。瑞奈には優しくね、お兄ちゃん。
声は、いつもと変わらなかった。
悠己の中で母は、同じ言葉を繰り返すだけだった。