マラソン大会
その後、生徒たちはグラウンドに整列。教員によるあいさつと軽い準備運動が行われたあと、走る距離の短い女子からマラソンがスタートとなる。
団子状態になった女子生徒の群れが校門から飛び出していく。
悠己たちはしばらく待ち時間になった。
「いやしかし小牧には参ったよなぁ~」
悠己の隣で、慶太郎が大げさに語尾を伸ばす。ずっとその話題の繰り返し。
参ったと口ではいいながらも浮かれている。
「でもその兄貴って実際どんな奴なんだ? 妹がアレだとかなりヤバそうじゃね?」
慶太郎が想像している方向とは真逆だろう。
しきりに話を振ってくるが、悠己は話半分に相手をする。膝を曲げて足の筋を伸ばしていると、眼鏡の男子生徒が近寄ってきた。園田だ。
「さっきから何の話だい? ずいぶん楽しそうじゃないか」
「ん? そりゃもちろんクリスマスのことだよクリスマス。おやおや園田クンはクリスマス何も予定ないのかな? かわいそ~」
待ってましたとばかりに慶太郎が園田を煽っていく。かくいう本人も、今日の朝まで何も予定のないかわいそうな子だったはずだ。
慶太郎が聞かれてもいないことを話し出すと、園田は訝しげに眉をひそめる。
「……なに? クリスマスに小牧くるみと遊園地デート? 何かの冗談だろうそれは」
「何かの冗談であってるよ」
悠己が横から口を出す。
クリスマスクリスマスというが、予定の日は十一月の末。クリスマス当日までだいぶ猶予があり、厳密にはクリスマスデートではない。
「いやいやそうは言うけどさ、嫌いなやつは誘わんじゃん? さすがに。むしろ気があるだろこれ」
すかさず慶太郎がどこかの誰かと似たようなことを言う。
嫌われてはいないのだろうが、悠己のときと同じくただそのときそこにいたから、だとかそんな理由の気がしてならない。
「あんなんだけど、ぶっちゃけ見た目はかわいいじゃん? 黙ってさえいれば」
「ふん、何を言うか。あのツンデレ具合がいいんだろう? わかってないな」
「そこまでツンデレか? まぁドM野郎にはちょうどいいんだろうが……」
いつもの小競り合いが始まる。しかし園田は分が悪いのかどうでもよくなったのか、すぐに反論をやめた。慶太郎が俄然勢いづいて、悠己を振り返る。
「これでもしオレがガチで小牧落としたらやばくね? クラスの王じゃん?」
「おぉ~」
「だろ?」
「おぉー」
慶太郎は楽しげに高笑いする。王を拾ってくれなかった。
「今の拾えないんじゃ無理っぽいね」
「何がだよ? オレも夏休みのときから成長したからな、わけが違うぜ? まぁ見とけって」
きっとダシに使われる以外の何者でもないだろうが、本人が楽しそうならそれでいいだろう。
三人で駄弁っているうちに、男子の順番がやってくる。グラウンドに立てられた「東成陽マラソン大会」の横断幕の下に集合。
先頭に陣取っていたガチ勢とは違い、悠己たちは後方からのスタートとなる。合図が鳴っても、周りがわちゃわちゃとしていてなかなか走り出せない。
校門から出たあともしばらく歩道を走る形になる。追い抜き追い越されたりをする余裕はなく、周りにペースに合わせざるを得ない。
隣で慶太郎が「まぁまぁゆっくり行こうぜ」と、いつの間にか一緒に走ることになっている。おまけに園田もその横にくっついてきた。
「ていうか雨とか降ったらどうすんだ? 雨天決行か? 行き先変更?」
走り出したというのに慶太郎はまた話題をぶり返す。マラソンよりも遊園地デートのことが気になって仕方ないらしい。尋ねられても悠己も詳しいことは何も知らない。答えずにいると、代わりに園田があいづちを入れる。
「しかしもうクリスマスか……」
「お前今回やけにおとなしいじゃん。完全に人生あきらめモードか?」
「いや、学園祭が終わってからなんというか……燃え尽きてしまったよ。結局エモエモも隣の席キラーもはやらんかったしなぁ~」
園田は感慨深げに言うと、手で軽く眼鏡の位置を直す。
「来年は受験生だし、僕もそろそろ本腰を入れていかなければいけないし……いつまでもバカなことをやっている場合でもない。時間は有限なのだよ。まあ君らとバカをやった時間も、悪くなかったよ」
「なんだお前死ぬのか? 急に真面目な顔で」
「ふっ、僕は一足早く行かせてもらうよ、次のステージへ」
園田はニヤリと笑みを作ってみせるが、「何を偉そうに」と慶太郎に一蹴される。
すると園田は今度は何か言いたげに、悠己に視線を送ってきた。
「一つ気がかりとしては……正直僕としてはね、グズグズしとらんではよ決めんかい、という感じなのだが」
「まあ待てよ園田、成戸先生にもお考えがあるんだよ。ここぞってところで決めてくれるさ」
ぺちゃくちゃと話をする二人をよそに、悠己はただ前で揺れる生徒の頭を見ていた。
一団は路地を進んだのち、やがて大きな橋にさしかかる。それを渡ると、川に沿って河川敷を走るコースとなる。ここにきてようやく視界が開けてきて、群れがバラけだした。悠己は徐々に走りを自分のペースに戻していく。
「ちょ、ちょっとペース落とさないかい? はぁ、ひぃ……」
さっそく園田の息が上がり始めている。すでに雑談しながら走るようなペースではなくなっていた。前を走る生徒たちを、どんどん追い抜いていく。
隣を並走する慶太郎も、すぐ同じように非難の声を上げる。
「はぁ、はぁ……だいぶペース速くねえか? なあ? 聞いてるか? 一緒に走ろうぜからの裏切りみたいなネタやめろよ」
そうは言うが向こうが勝手についてきているだけで、悠己から一緒に走ろうと言った覚えはない。
それから数分もしないうちに園田の姿が見えなくなった。脱落したようだ。慶太郎はそっちがその気なら、と負けん気を出してか、食らいついてくる。
「まぁでも園田の言うとおりだよ。いい加減決めてくれるんだろうな? 成戸さんよ」
「どいつもこいつも勝手なことを……」
「なんだかんだ言ってお前もさ……わかってんだろ?」
「さあね」
「なんだよ、怒ってんのか? 珍しいな」
さらに突き放すように腕を振り、足を大きく前へ。そんなやりとりを最後に、慶太郎の荒い呼吸も声も聞こえなくなった。
ときおり右へ左へ身をかわし、先を行く影をぐんぐん追い抜いていく。やがて群れて走っている生徒の姿は、前に見当たらなくなった。
呼吸をリズムよく刻み、ただ無心で走る。冷たい空気が頬を撫で、通り抜けていく。周囲の景色が流れていくにつれ、徐々に気分が高揚してくる。
マラソン自体は体育の授業でもやっているが、距離が段違いだ。いつもは同じところをぐるぐる回るだけで味気がない。
河川敷を抜けると、コースは農道にさしかかる。見晴らしのよい分岐路にはところどころ教員が立っていて、目印をしていた。
悠己はペースを落とすことなく何人か追い抜くと、折り返し地点となる公園へ。ここでも教員が多数待ち構えていて、入り口で生徒の手のひらにチェックを入れている。
公園に入っていくと、マジックペンを手にした教員が一目散に近づいてきた。担任の小川だった。
「すごい成戸さん、いいペースですよ! 頑張って!」
早い段階で悠己が姿を見せたのが意外だったのか、小川は興奮気味に悠己の手にチェックを入れる。
手を叩いてはしゃぐ小川に見送られ、公園のジョギングコースへ。
こころなしか体は軽くなっていた。呼吸もさほど苦しさを感じない。
その感覚に、どこか懐かしさを覚えていた。いつだったか、そんなふうに声をかけられたのを思い出した。
――成戸くん、すごいわね! 顔色変えずに走って。先生が見た感じ、これは才能あるわね。
生まれて初めて、褒められたような気がした。
道具も何もいらない。走るだけ。そんな理由で選んだ部活だった。
――部活疲れたでしょ? 先にお風呂入っちゃいなさい。
母はいつも暖かく迎えてくれた。自分のことを見てくれている。応援してくれている。期待に応えられていると思った。
けれども、長くは続かなかった。部活が終わって家に帰れば、部屋は寒くて、暗かった。
妹のベッドの布団の小さな膨らみは、まるで呼吸をしていないように見えた。
――やめる? もったいないと思うけど……残念ね。
雑念を振り払うように、呼吸に意識を集中させる。
公園からさらに緑の深いほうへ。枯れ葉の散らばる土を踏みしめ、木漏れ日をたどるように走る。雑木林を抜けて道を折れると、広いアスファルトが見えて視界がひらける。
ゴールは学校のグラウンド。最後の緩やかな登り坂にさしかかると、遠目に校舎が見えてきた。坂の途中で何人か追い抜く。徐々に呼吸が乱れてきた。けれどもまだまだ走れそうな気がする。もっと走っていたいとすら思った。
スパートをかけることなく、ペースを保ったまま校門を抜けてグラウンドへ。最後は抜かれも抜きもせず、走りを終えた。ゴールの先で、番号の書かれた紙を渡される。だけど順位はどうでもよかった。数字はろくに見ずに、手のひらの中で紙を丸めた。呼吸を整えながら、うつむきがちに一人校庭のトラックを歩く。
「ずいぶん速かったわね? すごいじゃないの、驚いたわ」
突然何者かに声をかけられた。
なぜかぎくりとして、つい相手の顔を凝視した。凛央だった。髪を縛って短くまとめていて、一瞬別人のように見えた。
そういう凛央も相当早くゴールしていたに違いない。途中まだ走っている女子の姿もちらほら見受けられた。凛央は微笑を浮かべながら尋ねてくる。
「走ってくるとこ、ちょうど見てたわ。長距離やってたの? 私も小学生のときに勝手に選ばれて、ちょっとやってたからわかるの」
それには答えず歩き続ける。隣に並んだ凛央が、怪訝そうな顔をした。
「ねえ聞いてる?」
「いや別に……なんだっていいでしょ」
「ただの雑談でしょ? なんだっていいでしょって返しはどうなの?」
若干呆れたような声。
構わず歩いていると、凛央は進行方向を塞ぐように立ちふさがって、腕組みを始めた。
内心ため息を吐きつつ、いつもの口調で言う。
「なにどしたの急に。ボス戦やめてよ、体力回復してないのに」
「私は真面目に聞いてるの。そうやって大事なとこもはぐらかすのは、よくないと思うけども」
「今これ大事なとこ? どこが? だいたい早く走れたところで、何かあるわけじゃないし」
「じゃあゆっくり走ればよかったんじゃない?」
切れ長の瞳がまっすぐ射抜いてくる。目に力がある。
けれども悠己が無言で見つめ返すと、凛央は困ったように目線をそらした。
「私、成戸くんのこと誤解してたかもしれないから。だって自分のこと、全然話してくれないし……」
「だから別にたいしたことじゃないよ。単純に、俺に根性がなかっただけだよ」
口にしたとおり、本当にたいしたことではない。ただそれだけのことだ。
回れ右をして、歩みを再開する。グラウンドには、走り終えて雑談を交わす生徒たちの群れがそこかしこに見られた。その間を避けるように抜けて、悠己はひとり校舎に向かった。
こりずにまた二章のけつにぶちこんでます。