悠己と萌絵
教室の中は電気もついておらず、薄暗かった。
普段から空き教室で使われていないのか、立ち入ったことがない場所だ。壁にそっていくつも積まれたダンボールが部屋を圧迫している。
どこかのクラスが教室を空けるために持ってきたのか、部屋中央にはずらりと机と椅子が並んでいた。
萌絵はその窓際にいた。静かに中庭を見下ろしていた。
うっすらと西日が差していて、ここだけ少し明るい。
「元気ない?」
ゆっくりと近づいて、萌絵の背中に向かって声をかけるが、返事はなかった。
「もうそろそろ終わりだってね。唯李はバトルだって、まだ張り切ってたけど」
再度声をかけるが、萌絵は身じろぎ一つしなかった。
「唯李と、ケンカでもした?」
そう言うと、萌絵はぴくりとして、わずかに顔を上げた。
そして窓に向かって言った。
「ケンカなんて、してない」
「じゃあ、どうしたの?」
すぐにそう聞き返すと、萌絵はまた黙った。
悠己が何も言わずにいると、ゆっくりと振り向いた萌絵は、顔をうつむかせたまま静かに口を開いた。
「……わたしは唯李ちゃんと、バトルなんてしたくないの。唯李ちゃんは、無理してわたしに気を遣ってくれてるだけだから。みんなの前でも、ああやってふざけて……」
萌絵も気づいていたらしい。
唯李は萌絵が元気のないのを見て取って、ということなのだろうが、そもそもどうしてそんなことになったのか。そこが悠己にはわからない。
「この前は隣の席キラーバトルだなんだって、楽しそうにしてたじゃん」
「あれは違う。隣の席キラーとか、そんなの全部嘘だから」
「なんでそんな嘘を?」
尋ねるが、萌絵はうつむいたまま答えてくれない。一番長い沈黙。
やはり質問を変えようかと思った矢先に、萌絵はひとり言のようにつぶやき始めた。
「わたし……昔唯李ちゃんに、ひどいことしたの。ううん、唯李ちゃんだけじゃなくて、もっといろんな子にも。だから本当は唯李ちゃんにも謝りたいって思ってて……でも、怖くて言い出せなくて……。唯李ちゃんは昔のことなんか忘れてて、もしかしたら気にしてないのかもって、なんにもなかったことにして、仲良くなれるかもって、ずるいこと考えたりして……。でも何したってやっぱり唯李ちゃんは、わたしのこと嫌いなんだって……避けられてるの、わかってたから」
萌絵はそこで言葉を止めると、ぐっと唇を噛みしめる。
その口元は、かすかに震えていた。
「唯李ちゃんに、『あたしは隣の席キラーなんかじゃない、勘違いされてるだけ』って言われて、わたし結局謝りもせずに、もうダメだって……唯李ちゃんを突き放したのに。だけど……唯李ちゃんは優しくて! わたしのためにバトルだって言ってあんなことして……だからもう嫌なの! もうわたしのことなんか、放っておいてくれていいのに!」
萌絵の叫びが室内にこだまする。
それは今まで溜め込んでいたものを、爆発させるような響きだった。
けれども、飲まれてはいけない。悠己はあくまで冷静に、いつもの口調で語りかける。
「俺さっきまで一緒にいたけど……唯李も、なんだかんだで学園祭楽しそうにしてたからさ。そこまで無理して……ってわけでもないと思うよ。それに隣の席キラーバトルで大喜利やってたときも、楽しそうだったし」
「それはゆっきーが勝手に思ってることでしょ!? ゆっきーも唯李ちゃんのこと隣の席キラーなんて言うの、もうやめなよ! 唯李ちゃんだって本当は嫌なのに……無理して強がってるだけかもしれないじゃない! ううん、そうに決まってる! わたしは唯李ちゃんのことよく知ってるの! いつも一人でおとなしくて、話しかけても声がちっちゃくて聞こえなくて、なにかあるとごめんごめん、ってすぐ謝ってきて……ゆっきーのほうこそ、唯李ちゃんのことなんにもわかってないでしょ!?」
――あのね瑞奈ちゃん。昔はあたしもね、友達全然いなくって。つまんなくてうじうじしてて、もうお前いらんわっていうノーマルのハズレキャラだったの。
そう言われて、ふと思い出した。唯李がそんなことを言っていたのを。
――隣の席キラーは相手を落とすためなら、どんな嘘だってつくから。手段は選ばないんだよ。
――……友達から嫌われるなんて、あたしだって嫌だよ。あたしの場合はそうならないように、無意識にバカやってご機嫌取ろうとしちゃうっていうか……。
――ふはは、こちとら天下無敵の隣の席キラー様ぞ? ひれ伏せひれ伏せ!
たぶん、わかっていたんだと思う。だけど、彼女が望むなら……いや、いつしか自分がそう望むようになっていた。
今の関係のまま、二人一緒にいられることを。
「唯李は、俺の憧れなんだ」
「へ?」
「唯李は強くて、優しい子だから……きっと大丈夫だよ。悪いことしちゃったって思ってるなら……面と向かってごめんって、謝ればいいと思うよ」
「謝ったって……。唯李ちゃんは……唯李ちゃんは優しいから、そんなの全然気にしてないよって言うに決まってる! それじゃダメなの! わたしは……わたしが! ずっと間違ってたんだから!」
謝って、たとえ許してもらったとしても……自分で、自分を許せない。
萌絵がなぜそんなにも深くこだわるのか、理解が及ばなかった。それは悠己が思っていた以上に、ずっと根深い問題なのかもしれない。
声を荒らげる萌絵に対して、何も返す言葉が出なかった。その代わり、強く拳を握りしめていた。これが自分の限界なんだと、思い知らされた気がした。
「とりあえず、戻ろう。みんな心配してるから……」
そう言って萌絵の腕に、手を伸ばそうとしたとき。
入り口で、戸口が勢いよく開け放たれる音がした。