わたしは本物2
萌絵が帰宅すると、家の中はがらんとしていた。
両親はまだ仕事から帰ってきていなかった。通勤時間が伸びたせいで、その分以前より帰りが遅い。
同居している叔母は、施設に祖母を迎えに行ったのだろう。世間話をしているのか、いつもなかなか帰ってこない。
賃貸マンションから大きな家に戻ってきて、一人になる時間が増えた。
広い庭付きの、平屋。庭は手入れをする者が不在のためか、不格好な庭木や落ち葉があちこち目立つ。
薄暗い廊下を歩いて、奥の自分の部屋へ向かう。
その途中、かすかに線香の香りが漂う和室を通りかかって、足が止まった。
まだ新しい仏壇。その脇の棚の上で額縁に入った写真が、漏れ入る光を反射している。
小さいときは、ずっと祖父が遊び相手だった。
友達のいなかった萌絵の、一番身近で唯一の遊び相手。
いつも萌絵のとりとめのない話に耳を傾けて、多少のわがままを言っても、笑顔で頷いてくれる。今思えば、とても甘やかされていた。大好きなおじいちゃんだった。
家では何でもかんでも話すぶん、外ではずっとだんまり。
そんなだから友達と呼べるような相手は、小学校に上がってからも一人もできなかった。
家に帰ればおじいちゃんがいるから。そう思って、必要性を感じていなかったのかもしれない。
そんな萌絵にも変化が起きた。それは小学校に入って間もない頃だったか。
誕生日プレゼント。両親にはダメと言われても、萌絵の誕生日には、祖父はいつも欲しい物を買ってくれた。
だから自分もお返しに、祖父の誕生日に、何かあげたいと思った。
なにか欲しいものはないかと聞くと、
「今はこれといって欲しいものはないかなぁ。でも、萌絵が友達を連れてきたら、うれしいなぁ」
とそんなことを言われた。
どうしたらいいかわからなくて、途方に暮れた。困った。
そして困った末、「おじいちゃんに、友達連れてきてほしいって言われた」。
教室で隣の席に座っていた女の子に、勇気を出してそう言った。
その子は当時の萌絵とは正反対の、活発でみんなを引っ張っていくような人気者タイプ。
萌絵からは一度も話しかけたことがなくて、まったく脈絡もなしに第一声でそんなことを言った。
けれどもその素直な物言いが、気に入られたのかもしれない。彼女は笑って、快く引き受けてくれた。
彼女を家に連れて行ったときの、そのときの祖父の喜びようといったらなかった。
それからというもの、自分から人に声をかけていくのに抵抗がなくなった。見境なくクラスメイトに話しかけては、遊びにおいでよと誘って、家に連れて行った。
そのたびに祖父は喜んでくれた。そうしているうちにいつしか内向的な性格ではなくなり、どんな相手にも物怖じしなくなっていた。
「萌絵は誰とでも仲良くできるいい子だね」その祖父の言葉が、後押しになっていた。
けれど、それで何もかもうまくはいかなかった。
また別の子を家に連れて行ったあるとき、祖父は「この前の子はどうしたの?」と怪訝そうな顔をした。萌絵の話を聞いてくれて、一番最初に家に来てくれた子のことだった。
実はその子とは、少し前に注意を受けて口論になり、喧嘩をした。萌絵の奔放な態度に腹を据えかねたのか、細かいことの積み重ねだった。
祖父にはなんて答えたか、はっきり覚えていない。
「あの子はわたしのこと悪く言うから。友達いっぱいいるから、もういいの」
そんなふうに、答えた気がする。
覚えていないのは、とっさに出たでまかせだったからかもしれない。強がりだったからかもしれない。だけど、そのあと祖父に言われたことは、はっきり覚えている。
「友達なら悪いところが見えるのは当たり前だよ。人を注意するのは、とても勇気がいること。いい友達だね。ちゃんと仲直りするんだよ」
それでも、萌絵は言うとおりにしなかった。
耳の痛いことを、ずけずけと言ってくるのが嫌で、仲直りもせずにそのまま遠ざけた。
「そうやって意地悪言うおじいちゃんなんて嫌い!」
それどころか萌絵は反発した。
祖父は何があっても自分の味方だと思っていたのに、裏切られた気持ちだった。
それ以来、家にはうるさいおじいちゃんがいるから、と言って友達を家に連れて行くのはやめた。
もともと萌絵が無理矢理に誘っただけで、また遊びに行きたい、という子はほとんど皆無だった。だけどそのときはまだ、気づいていなかった。
その後、父の仕事の都合で引っ越しをすることになった。
引っ越してからはそれまでの友達とも連絡を取らなくなって、人間関係もほぼ一からやり直しだった。けれど、さほど問題とは思わなかった。友達なんてすぐに作れるという自負があった。
クラスで目立つグループとも仲がいいし、そうでない子にも積極的に話しかける。
決まったグループには入らず、クラスメイト全員と接するようにした。
だって自分は、誰とでも仲良くなれるのだから。
高校生になっても、萌絵は変わらずその調子だった。
二年生になって初めての席替えで隣の席になったのは、とてもおとなしめの女の子。
鈴木紗絵という名前の子で、名前似てるねと言って、萌絵は隣になったその日から「紗絵ちゃん」と呼んでいた。
紗絵にはクラスに友達がいる様子がなかった。誰かと話しているのも見たことがない。
それならと思って、萌絵はいつにもまして、積極的に働きかけた。
席替えから一月もしないうちに、紗絵が学校を休みがちになった。
そのうちぱったり来なくなって、一週間。
萌絵が連絡先を聞こうとして、そのアプリは入れてないと言われ、嘘だ信じられない、だとかそんな話をしたのが最後だったと思う。
担任の教師に、どうして紗絵が休んでいるか直接聞きに行った。
最初は答えてくれなかったが、それでもしつこく尋ねると、
「鈴木さん、ちょっと疲れちゃったみたい。距離感って人それぞれあるからね」
やんわりとそう言われた。最初は意味がわからなかった。でも家に持って帰って考えているうちに、疑念が生まれた。
それから萌絵も学校を休みがちになった。
一日、二日、三日。
体調が悪いと言って、ずるずる休んだ。体調が優れないのは事実だった。
そのうちに担任の教師から、紗絵も学校に来るようになったから、と電話があった。
そして次に学校に行ったときには、萌絵の席は変わっていた。席替えがあったのだという。
紗絵とは露骨なまでに席が離されていた。席替えは担任の作ったくじ引きで、休んでいた萌絵の席は余った席になった、という話だった。
それ以来、紗絵とはもう言葉をかわすことがなかった。ついに萌絵は一度も名前を……名字すら呼ばれたことがなかった。
もうなんて声をかけたらいいか、わからなくなっていた。
紗絵に謝るべきか迷った。しかし萌絵が悪いのだと、直接言われたわけではない。すべて自分の想像でしかないのかもしれない。
それに自分だって、悪気があってやったことではない。ただ、仲良くしようとしていただけ。そんな思いが、根底にあった。結局何一つ変化のないまま、一学期が終わった。
夏休みに入ってすぐ、祖父が亡くなった。突然の訃報だった。
庭仕事をしているときに脚立から落ちて、打ちどころが悪かったのだという。
萌絵が物心ついたときから体の悪かった祖母とは違って、まだまだ元気なはずだった。日頃から自分は長生きすると言っていた。
結局その都合で、父の実家であるこの家に戻ることになった。
たまの帰省も、理由をつけて断っていて、祖父とはほとんど顔を合わせず、ろくに口も聞かずじまいだった。
けれども祖父は、折に触れては萌絵のことを心配していたと、そう聞かされた。
線香の匂いから逃げるように廊下を通りすぎて、自分の部屋へ。
ベッドに体を投げ出し、スマホを取り出して、唯李とのラインをたどる。
何度も何度も見返したやりとり。メッセージを打とうとして、手が止まる。
転校した先で再会した、見知った顔。
見たとたん、ぎくりとした。顔を見るまで、ほとんど忘れていたのに、まるでフラッシュバックするように、記憶が蘇った。。
なぜなら唯李は、紗絵と似ていた。おとなしくて、目立たなくて……それに何より、萌絵が話しかけたときの、あの笑い方が。無理やりに取り繕ったような笑顔が。
けれども唯李は、その頃とはまるで別人のようだった。
見違えるように明るくなっていて、萌絵のことなど、きっとろくに覚えていないに違いない。
前回あんなことになったのも、たまたまだ。
自分は嫌われてなんてないはず。ちゃんと、仲良くなれるはず。そう思っていた。
通話アプリを消して、代わりにメモアプリを立ち上げる。
『好きなもので仲良くなる。得意なもので盛り上がる。おそろいにする。スキンシップ。冗談を言う。一緒に何かをやり遂げる……』
たくさん調べて、ずらずらと打ち連ねてあったメモを、まるごと消す。
考えて、悩んで、必死に仲良くなろうと頑張ったつもりでいたけど、やっぱりダメだった。
それどころか、今までどうやって友達と付き合ってきたのかすら、わからなくなっていた。
もともと自分が好き勝手振る舞っていただけで、仲良くなる方法だとか、考えたことがなかった。
そもそもが一方的に友達と思っていただけで、みんな友達ではなかったのかもしれない。
唯李のことを聞いて回っているうちに、彼女が「隣の席キラー」なんて呼ばれていることを知る。
あの唯李がそんなふうに呼ばれているなんて信じがたかったし、きっと何かの勘違いだろうと思っていた。
打つ手がなくなって、試しに自分も隣の席キラーだ、なんて言ってみたら、案外反応が良くていい感じ。
バトルなんて言って一緒にふざけて、ようやく唯李にも変化があって……楽しかった。
こっちの方向で行けば仲良くなれそうな気がして、うまくいくかもしれないと思ったその矢先。
――あたし、本当は隣の席キラーとかじゃないの。だから、そういうおふざけももうやめよう?
唯李はこれまで見たことのない、真剣な顔だった。
また、嫌われてしまった。いや、ずっと嫌われていたのだ。
それを気づかないふりをして、ごまかしていただけ。
自分は今までどおりやればいいはずだった。それで友達いっぱい。この前は、たまたま運が悪かっただけ。だって間違っていたのは、祖父のはずで、自分を悪く言った友達のはずで……。
(ちがう。悪いのは、間違ってたのは、全部……)
隣の席キラーなんていうのは、唯李と仲良くなるための、ただのおふざけのつもりだったけども。
願いを聞いてくれた隣の席の子を裏切って、そしてあるときは追いやって……謝りもせず、自分はまだのうのうとしている。そして今もまた、懲りずに傷つける。
そんな人間には、まさにおあつらえむきな呼び名。
だって自分は文字通り、本当の……。
(わたしは……隣の席キラーなんだ)