仲良し兄妹2
同じくその日の晩、小夜のもとに悠己からラインで花火大会の誘いが来た。
プールのときと同じメンツで行けたら、ということらしい。
実を言えば小夜自身、前回のプールの帰り瑞奈を誘って花火に行くかどうか迷っていて、それでも誘いきれずにいたので快くOKをした。
つい嬉しくなって、瑞奈にもその旨ラインを送る。
『じゃあさよも一緒だね』
とても返信が早い。瑞奈はスマホで文字を打つのが速いと言っていたが本当のようだ。
何度かやり取りをしているうちにこちらの返信が遅いのが申し訳なくなって、途中お願いをして電話に切り替える。
「最初はゆいちゃんが誘ってくれたんだよ」
受話口の向こうで瑞奈の弾んだ声がして、頬が緩む。
ただ、「ゆいちゃん」という単語が耳に入るなり、小夜は眉をひそめた。
そして不用意にもつい口走っていた。
「あの人には、気を許したらダメですよ」
「どうしてそんなこと言うの?」
聞き返されて、どう答えるべきか迷った。
ただここは、一度確かめておきたいと思っていたことだ。
「……知らないんですか? あの人が、隣の席キラーだってこと」
「なにそれ? そんなの知らない」
案の定だった。兄が誰にどこまで話しているのか不明だが、この調子だと悠己もそのことを知らないのでは。
「表向きフレンドリーでも、腹の底では何を考えているのか……」
「ゆいちゃんのことそうやって言わないで」
瑞奈が突然厳しい口調になって、はっとする。
この前のように、勢いで言い返されたのではない。はっきりと怒っている。
これこそ、瑞奈がこんなふうに怒ったのは初めてかもしれない。
「ご、ごめんなさい……」
「超つまんないときも超うざいときもあるけど、瑞奈はゆいちゃんのこと大好きだから。ゆいちゃんになら老後を任せてもいいかなって」
どんな手を使ったのか、隣の席キラーはすでに外堀を埋めつくしているらしい。
きっと騙されているのだ。悠己だけでなく瑞奈も。
「ゆいちゃんがゆうきくんを好きなのバレバレだからね。でもあの感じだと、もしかしてゆいちゃん花火のときに告白とかするつもりなのかなぁ~? ついに」
またしてもはっとさせられる。
隣の席キラーのほうが好意を持っていて告白、というのもおかしな話だ。
悠己のことはお遊びではなく、本気、とでも言うのだろうか。
ただ悠己が一筋縄ではいかない相手だと兄も言っていた。
それで今回、唯李も何らかの強硬手段に出るつもりなのかもしれない。
いずれにせよ、その本意を、真偽を見極めなければ。
「……みなっちはいいの? もし告白されたとして、例えばその……悠己さんが……お兄ちゃんが変わってしまったら」
「ふふふーん。そんなことないよ、だってゆうきくん言ってたもん。『俺はずっと、瑞奈のお兄ちゃんだから』って」
「そんなふうに思っていた時期がわたしにもありました」
「なに? それ」
ついそのまま吐き出しそうになったのをぐっとこらえる。
今ここで瑞奈に向かってするような話ではない。
まだ気持ちの整理がついていないのだ。言い出せば、爆発してしまいそうだったから。
(本当にどうだってよくなれば、いずれは……)
「とにかくゆうきくんと瑞奈は仲良しだから。……仲良しのほうがいいよ?」
「そうですね、それは……」
その言葉にぎゅっと胸が詰まる。
それからは瑞奈の話にただあいまいに頷くことだけして、小夜は電話を切った。
(仲良し兄妹……)
親、親戚、近所、友人……かつて周りからは、口を揃えてそうやって言われていた。
そして小夜自身、そう思っていた。きっとそれは、兄も同じだったはず。
兄が大好きだった。
優しくて、真面目な人だった。
困ったことがあれば、話を聞いてくれて、答えてくれて。
お互い何でも話をして、相談しあえるような仲。
小夜が不用意な発言のせいで誰かを怒らせてしまうようなことがあれば、代わりに頭を下げて、その場を収めてくれる。
決してスマートなやり方ではなかったけども、彼なりに小夜を守ってくれて、助けてくれた。
つい失言をしてしまうのは物心ついたときから。
だけどそれは今思い返せば、小夜が毒を吐くたびに、兄が面白がって笑ってくれたから、なのかもしれない。
さんざん二人して母親に叱られたあと、「鬼殺しババア」とこぼした小夜を、「そんなこと言ったらダメだって」と笑ってなだめてくれたのが最初だったと思う。
そんな兄が、ある日学校から帰ってくるなり、興奮気味に小夜に向かってまくしたてた。
「隣の席になった子がさ、すごくかわいくてさ! それにめちゃくちゃいい子なんだよ!」
なんでも話し合うような仲ではあったが、兄が異性のことでそういった話をするのは初めてのことだった。
だから最初はとにかく驚いた。
「オレ、告白しようと思う!」
さらに数日後そんなことを言い出していよいよ戸惑うが、小夜も何か的確なアドバイスができるような経験があったわけでもなく。
兄が言うには、いつも笑顔で向こうから話しかけてきてすごくノリが良くて、とにかく周りの女子とはまったく違うらしい。
かたやそのときの兄は見た目も地味であまり目立たず、ひいき目に見ても決して女子からモテるようなタイプではない。
だから恋愛沙汰、などというものにもまるで縁がなかった。
「で、でも席替えしたばっかりだよね? まだちょっと早いんじゃ……」
「向こうも楽しそうにしてるんだよ本当に! オレとしゃべってるとき!」
だけどそれだけ言うのだから、もしかしたら……。
そう思って送り出した次の日。
浮かない顔をして帰ってきた兄は、まっすぐに部屋に閉じこもった。
心配になって様子を見に行くと、椅子にもたれてうなだれていた兄は、頭を上げて力なく笑った。
「はは、ダメだったよ……。一人で舞い上がって、バカだよな……」
その姿に、まるで自分のことのように胸が締め付けられる。
なんとか元気づけてあげたかったが、かける言葉が見つからなくて、なんて言ったらわからなくて、とっさに口走った。
「で、でもその人、隣の席になったばっかりで、あっという間に惚れさせちゃうなんて……まるで隣の席キラーだね!」
どうにかして兄を慰めようとして出た一言だった。
いつもの毒舌……とまではいかないが、それがそのときの小夜にできる精一杯だった。
「なんだよそれ……はは。隣の席キラー……そっか! 隣の席キラーか! あはは……してやられたなぁ!」
でも兄は笑ってくれた。
その言葉で元気になってくれて、ひとまずはほっと胸をなでおろした。
なんにせよこれで無事に……だけど、そう思ったのも最初だけだった。
その日を境に、兄はだんだんと変わっていった。
急にファッション雑誌を買ってきたり、子供のときからずっと行っていた床屋をやめて美容室に行くと言い出したり。
二人で遊びに行ったり、部屋で一緒にゲームをしたりすることもなくなった。
小夜と一緒の部屋だったのを分けろと言い出して、しまいには「妹と遊びに行くとかダサい」だとか、そんなことを言うようになった。
理由を聞いても、適当にはぐらかすばかりで取り合ってくれなかった。
露骨に避けられているのがわかった。
そんな調子で中学を卒業する頃には、兄はすっかり別人になっていた。
それどころか見た目も、中身も、まったく真逆に人間になってしまったかのようだった。
どうやったらモテるか、そんなことばかり気にするようになって、以前の真面目で優しかった兄は見る影もない。
いつしかすっかり疎遠になって、家で顔を合わせてもお互いろくに口も利かなくなっていた。
そして小夜が中学二年の夏休みに入った矢先――ついこの前のことだった。
珍しく兄のほうから話しかけてきたかと思えば、「友達の妹が遊び相手を探している、お前もどうせ友達いないんだろ」という話をされた。
のちに名前を聞いて、この友達というのが前々から気になっていたクラスの女子……瑞奈の兄だと知るのだが、その口ぶりが気に食わなくて最初は一言目ですっぱりと断った。
だが兄は「結構面白いやつなんだよ」と言って妙に食い下がってくる。
そして、
「今そいつが、隣の席キラーの隣なんだよ」
何を言い出すのかと思えば、いきなりそんなことを言った。
隣の席キラー。
言い出した小夜自身、そのことはすっかり忘れていた。
初めて小夜がその単語を口にしたあの日以来、お互いそのことに触れることはなかったから。
だから突然その言葉が出てきたときには驚いた。
隣の席キラーなんていうのは、そもそもが兄を慰めるために、小夜が口からこぼしたただの戯言。
その当人のことは、会ったこともなければ見たこともない。実際のところは、何も知りはしないのだ。
今思えば、本当にくだらないことを言った。
そう思って、まだそんなバカなことを口にする兄に向かって、皮肉交じりに返した。
「……前にその人に、告白して振られたんだよね」
「ちげえよ、隣の席キラーは隣の男子を惚れさせるゲームをしてたんだって! 狙った獲物は絶対逃さねえってな。そりゃあオレもやられるわな、そんなことされたら」
けれども、兄の口から返ってきたのは衝撃の言葉だった。
隣の席になった男子を、惚れさせるゲーム。
彼女は相手を惚れさせるような言動をして告白されては振る、を繰り返して、結局今に至るまで、誰とも付き合っていないという。
「なんで、そんな……」
「だからマジもんなんだよ、隣の席キラーは!」
そうは言われても、とっさに理解ができなかった。
さらに理解できなかったのが、そのことをさも愉快そうに笑う兄だった。
唖然として、しばらく何も言葉が出なかった。
「……そんなことされて、どうして……そうやって笑ってられるの?」
「ああ? そんな昔のこといつまでも気にしたってしょうがねーだろ。オレはもうあのころのウジウジ野郎とは違うんだよ。まあ惚れさせゲームなんてやられたらそりゃ落ちるわな~」
何を話しても無駄だった。
だって今の兄は、あのときの兄とはもう別の人間なのだ。
惚れさせゲーム。
そんな突拍子もないことを言われて、にわかには信じがたかった。兄が嘘を言っている可能性も考えた。
そもそもなぜ、今になってそんなことを言いだしたのか。
やはり兄はそのことを、ずっと前から知っていたのかもしれない。
振られた直後にその事実を知って、口に出せなくて……今でこそ時効と思ったのかもしれない。
それを尋ねたところで、まともに答えてくれはしないだろう。
これまでだって「どうして?」という小夜の問いにまともに答えてくれたことはなかった。
いくら尋ねても、適当にはぐらかしてごまかすに決まっている。
だってこの人はもう、自分の知っている兄とは違うのだから。
――ダメだったよ……あはは……。
泣き出すのをこらえて、頬を引きつらせて笑ってみせた顔が、今でも忘れられない。
あのとき兄は本気で、初めて人を好きになって、告白したはずなのだ。
そして実際がどうであろうと、あの出来事を境に、兄が変わってしまったのは疑いようのない事実。
ただ振られたというのなら、それは仕方のないこと。相手に非はない。
だけど、それは違った。ただのお遊びだった。兄の純粋な気持ちを、踏みにじる行為。
お遊びで隣の席キラーに振られたことを知って、それが情けなくて、悔しくて……兄は自分を変えようと思った。変えずにはいられなかった。きっとそうに違いないのだ。
(でも、変わる必要なんて……)
何一つなかった。そのままで、小夜にとっては最高の兄だった。
だけどその兄は、もうどこにもいない。
隣の席キラーが、優しかった兄を殺した。
だから、自分から兄を奪った隣の席キラーを……。
(絶対に……)
許すことはできない。