尊、22歳。マザコン
尊を、私の息子だと紹介すると、誰もが「素晴らしい息子さんだ」と尊のことを褒め讃える。どの顔にも「嫉妬」の影こそ見えても「媚び」や「嘘」の徴候が見えない為、恐らく本心からの言葉なのだろう。
尊は出会った当初のがりがりで汚らしかった頃から、顔立ちだけは整っていたが、成長するにつれてますます良い男になっていった。
身長は長身というほどではないが平均以上には伸びたし、大学に入学した辺りからはジムにも通うようになり、まだまだ薄っぺらいが、それなりに筋肉量も増えた。うちの研究室の女子生徒曰く、いわゆる「細マッチョ体系」らしい。
小学校に通えなかったブランクを取り戻すべく、必死に勉強に励んだ少年期の経験は、尊に勉強への執着を身につけさせたようで、弊大学の理工学部に入学後も、成績は上位をずっとキープしている。
一番心配だった対人コミュニケーションも、かつての不安定な状態が嘘のように、容易にこなし、柔和な態度と親切かつ紳士的な言動で皆に慕われている……らしい。
正直、最後ばかりは本人の自己申告故に、尊の昔をよく知る私としては疑いを禁じ得ない。禁じ得ないが、たまに大学で尊を見ると、常に男女問わず誰かしらに囲まれている為、信じざるを得ない。信じざるを得ないのに、やっぱりあの尊がと思うと、とても信じられない。……定時制の高校に通っている間に、一体何があったんだ。私が知らないところで。
「……母さんったら。また、考えごとして、手が止まってるよ? ほらほら。トースト熱いうちに食べてよ」
「あ、ああ」
困ったように笑う尊に促されるがままに、皿の上のトーストを囓った。
トーストには、既に尊によってバターが適量塗られてあり、焼き加減もちょうど、私好みの状態になっている。
「……尊。別にバターまで塗って貰わなくても、私は自分で塗るぞ。と言うか、お前に朝食を用意されなくても、私は好きに食べるから、構わないでいいと何度言えば分かる」
「だから駄目だって、俺も何度も言ってるでしょ。母さんに任せたら、栄養バランス考えないであるもの適当に食べるに決まってるんだから……はい。サラダと、野菜スープ。ちゃんと全部食べてね」
「失敬な。……誰の料理で、お前は成長したと思ってる。お前を育てる上で、ちゃんと栄養についても、勉強したんだぞ。私は」
身体の健康と精神状態には互換性があると考えた為、できる限り尊の健康面を良好な状態に保つべく、握ったこともなかった包丁を使い、料理本を睨みつけながら、毎日料理をして来たのだ。
料理くらい、その気になれば、手先があまり器用でない私だってできるということを、私は自らの体験で証明したんだ。自分の分くらい、何とでも用意できる。
「その点に関してはとても感謝してるけど……でもさ、あれ、俺の分だけだったよね。母さんは、俺の隣でいつも栄養バランスとか関係なく、適当なもの食べてたの、俺はちゃんと覚えてるよ。自分の分は面倒だからって、言ってさ」
「……いいんだよ。私は大人なんだから、必要なカロリー量さえ、ちゃんと摂れば」
「そんなことしたら、体壊すから駄目だって。………もちろん、俺も都合があるから、毎日朝夕作るのは無理だけど、できる時くらいはやらせてよ。今までの恩返しも兼ねてさ」
そう言われたら、これ以上拒絶も出来ず、私は黙ってスープを口に運んだ。
……実際、尊の料理は美味しいし、尊の料理を食べるようになってから、体の調子が良くなったことも確かだ。
病気で倒れない程度の栄養バランスで十分だと思っていたが、今の方が疲労感等の観点から考えると、より研究に集中できる時間が長くなったことを踏まえて、今後は食事の摂り方を改善すべきかもしれない。
……しかし、最初は包丁を見ただけで、過去のトラウマで悲鳴をあげていたというのに、精神状態が改善し過ぎではないか。
いつの間に、私より器用に包丁を使いこなせるようになったんだ。ずっと観察して来たのに、決定的な瞬間はよくわからんものだな。
そんなことを思いながら、再びトーストを囓る。
「あ、母さん」
「うん?」
呼びかけられて顔をあげると、尊の手が私の方に伸びて来た。
「パンくず、口の端についてたよ」
そして当たり前のように、取ったパンくずを自分の口に入れたのだった。
ーー先程、私は、尊のことを「健全」で「真人間」に成長したと認識したな。これは、自らの意識を、訂正しておく必要がありそうだ。
「病的なまでにマザーコンプレックス」でありながらも、「対外的には」「健全」で、「真人間」に成長した、と言うべきだな。うん。
……と言うか、改めて考えると、私は尊に舐められていないか? 最近では、ついつい尊のペースに乗せられてしまっているが、これでは尊より上位の立場を維持できていないも同然ではないか。
ちょっとこの辺りで上下関係を、改めて尊に理解させる必要があるのではないだろうか。
そう思い、さっそく先程の尊の行動を冷たく非難しようと、口を開く。
「……もう。母さんったら仕方ないなあ」
しかし、そう言って幸福そうに微笑む尊の姿を見ていたら、言葉が喉から出て来なかった。
ーーこの笑みだ。この笑みが、いけない。
尊にこの笑みを浮かべられると、私は実験の検証を、うまく行えなくなる。
「……尊。そういった行為は、恋人に対してやりなさい。60も近い母親に、成人した男性が行うのは、周囲から見れば異常でしかないぞ」
結局、口にできたのは、そんな呆れたような言葉だけだった。
もっと尊が傷ついて、暫く立ち直れなくなるような拒絶の言葉を、口にするはずだったのに。