尊
「今のは私と一緒に行きたいと言ったのか? それとも、今のような惨めな状態から脱却し、まともに生きたいと言ったのか?」
「………あ………う………」
「ああ。言葉が上手く出て来ないなら、無理に答えなくてもいい。どっちにしろ、同じことだ」
なんにせよ、少年の決意の強さは、服ごしでも分かる彼の握った手の力が証明している。
よくもまあ、こんな細腕で、これだけの力が出せたものだ。
「ちょっと、少年。失礼するよ」
「っ」
私は少年の方に振り返ると、その場にしゃがみ込んで、彼の顔を隠す長い髪をかき分けた。
髪の間から現れた少年の顔は、汚らしい姿には似合わないほど愛らしいものだった。とは言え、愛玩用になりうる顔だったことを考えれば、まあ想定の範囲内と言えば想定の範囲内だ。
私は露わになった少年の顔を、じっと覗き込む。
「ふむ……従来の9歳児に比較すれば、表情筋は非常に衰えているようだが、それでも『混乱』や『恐怖』の徴候が、表情の端々から見てとれるな。ここから考察するに、恐らく君は私が先ほど伝えた言葉の意味を半分も理解できていないはずだ。にも関わらず、よく私にすがる気になれたものだな」
「…………」
「ああ、勘違いをしないでくれたまえ。少年。私は君を侮蔑しているのではなく、褒めているのだよ。例え、君の行動が動物的かつ原始的な直観に起因するものだとしても、君が選んだ道は現時点では間違いなく最善であるのだから。君は、自身の慧眼を誇っていい」
将来的な可能性として、私のように彼を実験物として扱わずに、全うな愛情を注いでくれるような里親に出会う可能性は0ではない。
だがしかし、そんなあるかもわからない未来の到来を待つ前に、彼が間接的な自殺を成功させる可能性の方がずっと高い。
目的はけして褒められたものでないことは自覚しているが、それでも今の時点で、彼が生きるのに最も最適な環境を与えられるのは、私だ。
彼の選択は正しい。
「安心してくれ、少年よ。私は約束は守る質だ。……君が失ったものを。そして、君が最初から得ることができなかったものを。君が望むだけ与えてあげると誓おう」
「…………」
「ーーまず、手始めに、君が最初から得られなかったものを、与えてあげようじゃないか」
ほとんど全ての人間が、生まれてすぐにもらうもの。
親から子どもに与えられる、最初の贈り物。
「『尊』ーー尊敬の尊と書いて、尊。それが、今日から君の名だ。君が今までの人生で、失ったものの名でもあるな」
人間としての尊厳を。
生きる為に必要な自尊心を。
彼は親から破壊されたのだから。
与えたのは、ただの名前だけ。……だけど、私はこれから長い年月をかけて、彼が失ったそれを、再構築してみせよう。
たっぷりの洗脳の種を、練り込みながら。
「よろしく。……尊」
「ーー……ただいま」
帰宅すると、尊はリビングで一心不乱に机に向かっていた。
せっかく学習机も部屋も与えてやったというのに、購入してから一年間全くそれを活用しない頑なさに、最近は呆れを通りこして、感心さえしてきた。ーーまあ、これも愛着障害の一部とも考えられるから、仕方ないと言えば仕方ない。これが、尊なりの甘え方なのだろう。
私の帰宅も気づかずに、鬼気迫る勢いで算数の問題集を解いていた尊だったが、私に気づくなり、それまでの機械のような無表情を一変させ、ぱあっと顔を輝かせた。
「か、かあ、さん! お、おかえり、なさい」
……うーむ。このチックと吃音ばかりは、なかなか治らんな。
「尊……何度も言っているが、無理に私のことを母などと呼ばなくても良いんだぞ。私を母さんと呼ぶ前と後で、まばたきの頻度が約2倍に増加したじゃないか」
尊を引き取ってから、一年と少し。
最初の頃のように、母親を連想する物事に反応して暴れたり、スイッチが切れたかのように無反応になることは、ほぼなくなった。
代わりに現れるようになった症状が、このチックと吃音だ。
一人でいる時はさほど問題はないのだが、誰かと対話をするとなると、尊は、異様なまでにまばたきを繰り返して、口端をぴくぴくと痙攣させながらどもる。
このような症状の原因は様々あるが、尊の場合は過去のトラウマによるストレス性のものだ。少しずつ、心の傷を癒して、経過を見ていくしかない。
「い、いい。ぼ、ぼくが、呼びたい、から」
「だがしかし、実際それが、お前のストレスを増加させているわけだからな……」
正直私は呼び方なぞ、どうでも良いのだから、尊が楽なようにさせたいのだが……。
「い、いいんだ! ぼ、ぼくの、母親は、か、かあさん、だけだから! か、かあさんを、かあさんと、よ、呼ぶのに、ストレスなんか、ない! あ、あるはず、ない!」
しかし、どれだけ言っても、尊自身がこう言い張るのだから、仕方がない。
「……お前がそう言うのなら、構わないが」
上下関係を教え込む為に、無理矢理呼び方を変えさせても良いのだが、何だかこのままにしておいた方が面白そうなので、放っておくことにする。
……しかし、また、ずいぶんと懐かれたものだな。一年少々で。