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マッドサイコロジストの誤算

「だって、そうだろう? 君は、今このような劣悪な環境で、自ら食事を取ろうとすることもせず、不衛生な体を放置して……いや、ますます不衛生にして、ただただ時が過ぎるに身を任せているんだ。私からすれば、君はわざと自身に病気を誘発させ、間接的に自殺を図っているようにしか思えない。……もし君が、ミュンヒハウゼン症候群だと言うのなら、また別の話だがね」


 ふと思いついて口にしてはみたが、まあまずその可能性はないだろうと、一人自己完結する。

 ミュンヒハウゼン症候群は即ち、周囲の人間の関心を集めたいあまりに、病を装ったり、自傷行為を行う精神疾患の一種だ。周囲に心配されたいが為に、死ぬ気もないのにリストカットを行う人間も、これに含まれている。

 もし少年がそうやって周囲の関心を集めることを望んでいるとするなら……あまりにもそれは、無意味な行為だ。

 彼がどれほど苦しみを露わにしようが、今の彼の状態を見る限り、この施設の人間が彼を気にかけることはまずないだろう。完全に、厄介者としか思われていないのだから。

 この少年だって、それくらいは恐らく理解しているはずだ。だからこそ、彼は「母親」に関すること以外には何も反応しない程に、心を閉ざしてしまっているのだろう。

 他人に対して何の希望を抱くことすら、できないからこそ。


「まあ、君が何も考えたくない気持ちも、分からなくもないがね。……どれほど前向きに生きようとしても、今の状態では、君の未来はあまりにも明るい希望がないからな。そもそも、生き方の選択肢すらない。本能的に死を恐れながらも、それ以上に辛い生を恐れても仕方ない」


 9歳まで戸籍すら与えられず、義務教育さえも受けることができなかった彼の未来は、金銭的に余裕がある支援者でも現れない限り、かなり絶望的なものだろう。

 その上、彼は虐待によるトラウマで、対人能力が著しく低下している。精神疾患も、まだ明確な名前が明らかになっていないだけで、すでにどれだけ抱えていることか。

 将来に悲観し、自暴自棄になる気持ちはよく理解できる。

 

 ーーだからこそ、私は彼に提案してあげるのだ。


「だけど私なら、君に明るい未来を与えてあげられるよ。君が、今まで培えなかった分も知識を貯える環境と機会を与え、将来的に一人でも生きることができるようにしてあげられる。君が9年間で失ったものを……そしてどれだけ望んでも得れなかったものも、私が君に全部与えてあげよう。君は私を、ただ都合良く利用すればいい。生きる為に、私を利用するんだ。人間不信な君でも、それくらいならできるだろう?」


 私の言葉に、少年は相変わらず長い前髪と腕の隙間から、ただじっとこちらを見つめているだけで、何の反応も示さない。


「……見返りがない善意を恐れているのかい? 何、心配しなくても良い。私は心理学者だ。君の精神状態を観察する機会が得られるだけで、私には万金にも値する価値があるんだ。君を助けることで、私にも利益があるんだよ。だから、安心して私の手を取るといいーー君が生きたいのならば」


 そう言ってしばらく少年の出方を待ったが、ここまで言ってもなお、少年は何の反応も示さないままだった。

 ……やはり、ここまで心を閉ざしてしまった状態では一筋縄にはいかないか。

 そう思ってから、ふと一つの可能性に気がついた。


「……もしかしなくても、私の話は全くこの少年に伝わっていないのか?」


 児童の発達心理学は一応学んだのだが、私が今まで研究していた分野とは、畑違いと言えば畑違いな分野ではある。心理学ならどんな分野でもきちんと理解しているつもりだったが、自身を買いかぶり過ぎていたかもしれない。

 そもそも、私は、今までの研究に子どもを被験者として使ったことすらない。まともに言葉を交わしたこと自体、何十年ぶりかもしれない。

 言ってしまえば、私にとって子どもという存在は、知識の上でしか生態を知らない、未知の生命体なのだ。


「ふむ……これは一度帰宅して、対策を練る必要がありそうだな」


 口調や表情、仕草をどうするかばかりに気を取られていたが、肝心な言葉が伝わっていないなら意味がない。

 9歳にもなれば、これくらいの簡単な話は理解できると想定したのだが……よくよく考えなくても、彼はまともな教育を受けることができずに育ったのだ。想定年齢を5歳ほど引き下げるべきだろう。

 今回は、事前準備があまりに足りな過ぎた。……だがしかし、少年の実態を知れたと言うだけで、ここに来た意義はあった。彼が、理想的な被検体であることが確信できたので、今日はそれで良しにしよう。

 帰ったら、大学の図書館によって、児童との接し方の本をいくつか借りてみるとするか。……ふむ。そうやって少年の懐柔を目的に、仮説を構築していくのも、なかなか面白そうだな。次回の検証が楽しみだ。


「……それじゃあ、少年。私は一度帰るが、次に会う時までに、私と共に生きることを考えておいてくれ」


 そう言って、少年から背を向け、その場を立ち去ろうとした、その時。


「………ま…………って………」


 少年の痩せた手が、私の服を掴んだ。


「………い……か………な、い……で………」


 絞り出すような、掠れた声だった。

 一体彼は、どれほどぶりに声を出したのだろうか。

 俯いたまま、私の服を掴む少年の顔は長い髪に隠れて見えない。

 それでも、彼は確かにこう口にしたのだった。


「……ぼ、く……は…………い、き……た……い………」


 


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