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自尊心が崩壊した少年

 ……ひどい臭いだな。

 室内に入った瞬間、漂う悪臭に思わず顔を顰めた。

 糞便と、汗や垢が入り混じったその臭いは、明らかに少年から発っせられたものだった。

 どうやらろくにシャワーを浴びさせることもなく、排泄もオムツに垂れ流しにさせられているようだ。

 まるで罪人や奴隷のような扱いに、改めて、この施設の劣悪さを再確認する。

 ……まあ、しかし。糞便の臭いはともかく、私も研究に没頭すると何日も風呂に入らなかったりもするので、これくらいの悪臭はどうってことはないと言えば、どうってことはないのだが。悪臭なんて、暫く嗅いでれば鼻が慣れる。

 私が室内に入っても、少年はぴくりとも動かず、ただ膝を抱えてうずくまっているだけだった。


「ーーやあ、少年。始めまして」


 近付いて声をかけてみても、顔すらあげようともしない。

 ……ふむ。がりがりに痩せて縮こまっているからずいぶんと小さく見えたが、こうして間近で見ると、一般的な9歳児にはとても及ばないが、存外上背があるな。戸籍がないということは赤ん坊の頃から、間接的虐待はあったにしろ、食事まで与えられなくなったのは最近だったのかもしれない。

 女装させられて育てられていたことを考えると……原因は『これ以上大きくなったら、可愛くないと思った』といったところだろうか。

 幼いうちは人形や愛玩動物のように、気まぐれに可愛がられていたのかもしれない。……まあ、だからこそ虐待下でも9歳まで生き延びられていたとも考えられるな。

 理不尽な虐待の中で気まぐれに見せられる優しさは、何も与えられないよりも、いっそ残酷かもしれない。飴と鞭と同じで、被虐待児はより強く加害者に縛りつけられることになるのだから。

 そんなことを考えながら、私は少年の前に屈み込んだ。

 幼子の警戒心を解くには、まず視線の位置を合わせるのが基本だ。心理学的にも、効果が証明されている。


「私の名前は、佐々木凛香。……君の母親になりたくて、ここに来たんだ」


 その言葉を口にした途端、一切無反応だった少年が初めて反応を示した。


「うわあああああああ!!!」


 それは、獣のような、咆哮だった。

 そして次の瞬間、少年は私に向かって飛びかかって来た。


「……おっと、危ない」


 人間の骨格と、心理学的効果の互換性を研究するうえで、専門分野外ではあるが、人体の構造を一通り学んでおいてよかった。

 少年が痩せていることもあり、何とか私も少年も無傷のまま、彼を確保することに成功した。


「……人体の構造を把握しているとは言え、基本的に私は非力なんだ。心理学の資料よりも重いものを持ったことがない。すまないが、あまり暴れないでくれないか?」


「あーっ! あーっ! あーっ!」


「ああ、悪かったよ。せっかく君が、生存権を勝ち取ったというのに、君を害してきた女の肩書などを口にして。私の考えが、つくづく足りなかった。謝る」


 私に捉えられながらも、獣のような声をあげながら手足をバタバタ振り回して暴れる少年を、ため息交じりに宥める。どうやら、私は彼にとっての禁句を口にしてしまったらしい。

 基本的に人形のように動かない彼が暴れだすトリガーは「母親」

 彼を虐げ続けた彼女を連想するものを口にしてはいけなかったらしい。


「訂正しよう。……私は、君の『庇護者』になりたくて、ここに来たんだ」


 途端、少年はぴたりと暴れるのをやめた。

 そして、私が手を離すと同時に、糸が切れた操り人形のように弛緩し、先ほどまでのようにまたうずくまりだす。

 私はそんな彼の様子を、興味深く観察をしていた。


 ……「母親」という単語を取り消した途端、暴れるのをやめたところを見ると、彼が暴れるのは自らの自尊心ゆえではなさそうだ。

 言うならば、あれは生物的な防衛反応。自らの命を危険にさらしていた存在の記憶に、本能的に体が動いたというところか。

 それ以外では完全に無反応な時点で、彼の自尊心は、明らかに崩壊させられているように見える。

 興奮で乾いた自らの唇を、舌で舐めて濡らした。


 ーーなんて、私の実験に最適な存在なのだろうか。


「少年よ。君には下手に誤魔化しても意味がなさそうだから、単刀直入に尋ねよう……君は、人生を変えたくはないか?」


 先ほど暴れたことで、殺しているはずの心がわずかにでも浮上したのか。

 少年の体が、ピクリと反応を示した。


「おめでとう、少年。君は、君を最も死にいたしめる可能性があった人間から解放されたんだ。危険人物から離れ、こうして施設に保護されたことで、君は生きられる。9歳以降も生を続けることができる。生きて遺伝子を残すことが求められる生物の一員としては、死の危機を乗り越えたというだけで、一種の偉業を成したと同等だ。素晴らしい」


 芝居のようにはっきりした口調で、私は少年に語りかける。

 まるで、民衆の心を掌握しようとする独裁者のように、抑揚をつけて、大げさに。

 閉ざされた彼の心に入りこむかのように、優しい笑みを浮かべながら。


「だけど、その後がいけない。全く持っていけない。……だって、君はせっかく命が助かったのに、今は自らの手で、ゆっくり死に行こうとしているのだから」


 少年の顔が、ほんのわずかに上がった。

 

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