小倉教授の悲哀4
佐野ですら、「実用は不可能」だと断言した研究だった。
若返りの効果を発揮した実験用ラットの数は、全体の一割にも満たず、残りの個体は全て、何らかの原因で死亡していた。
--そんな状況が、佐々木尊の一言によって一変した。
「一般学生に過ぎない俺を、研究のメンバーに入れて下さり、嬉しいです……! ずっと俺は、若返りの機械を完成させることを夢見ていたんで」
佐々木尊は、理工学の天才だった。
そして、驚くほど理想的な研究パートナーだった。
容姿端麗かつ、性格は穏やかで真面目。
理工学の知事は豊富な反面、少し世間知らずで、自己顕示欲が薄い。
「俺は、研究が成功さえすれば、名誉なんてどうでもいいんです。若返りの機械を完成させることが、か……世の中の役に立てば、それで良いと思ってます」
幼少期に虐待を受けて育ったとは信じられないくらい、佐々木尊は真っ直ぐで純粋な性格をしていた。
あの、佐々木凛香の義理の息子だということだけが気にかかったが、それを除けば佐々木尊は完璧に理想の相手だった。
これが、この男が欲しい。
この男さえいれば……私は、佐野の狂気から解放される。
「--愚かだ、愚かだとは思ってましたが。あの佐々木尊を信用するとか、正気ですか? 本当、貴女の目は節穴なんですね」
不機嫌を隠そうともせず、佐野は吐き捨てた。
「あれは、確かに天才ですが、狂っています。あれは目的の為なら、人を殺すことだって躊躇わないでしょう。……悪いことは言いません。手遅れになる前に、あれから離れて下さい」
初めて見る、佐野の苦渋に満ちた表情に、歓喜した。
「……狂っているだなんて、貴方にだけは言われたくないでしょうね。佐々木尊も。佐野、貴方、嫉妬しているの? 良い年をした中年男の嫉妬はみっともないわよ」
「っ私は!」
「ああ、もう良いわ。何も言わないで。何も聞きたくないし、もう聞く必要もない。そうでしょう?」
私は佐野に向かって、これまでの雪辱をぶつけるように、歪んだ笑みを向けた。
「佐々木尊がいれば、お前はもう必要ない。……お前なんか、いらない」
佐野のこの表情を引き出せたと言うだけで、佐々木尊は十ニ分価値があると、心からそう思った。ただ、この男を、明確に拒絶して傷つけることができたというだけで。
普段の胡散臭い笑みも忘れて立ちすくむ佐野の胸元を押しやり、その脇を通り過ぎる。
「……本当、貴女は愚かだ……! 自ら、破滅の道へと進むのだから……っ」
後ろから聞こえた、余裕がない佐野の声が心地よかった。
「私だけを、信じていれば良いものを……せいぜい全てを失ってから、貴女には私しかいない事実に気がつけばいい……!」
ただの、負け惜しみだ。馬鹿馬鹿しい。
中年男の、片恋の末の呪詛など、耳に留める価値はない。
自然口元に笑みが浮かんだ。
「………先日の実験では、ラットの生存率と、若返りの成功率が、95%に至っていたわね。そろそろ人体実験に以降しても良い時期だわ」
となれば、研究の責任者として、私が真っ先に被検体になるべきだろう。何せ被験者の命がかかっている実験だ。簡単に協力は依頼できない。
「若返った私なら………佐々木尊と並んでも釣り合うでしょう」
そう思うと、自然胸が弾んだ。
勉強漬けのまま失われた青春を、取り戻したような気分だった。
佐々木尊は、金の卵を生む鶏だ。
若返って彼を夫にすることができれば、今まで積み上げてきた地位をそのままに、諦めていた女としての地位も得られる。
佐野の狂気に浸ることもなく。
それはあまりにも魅惑的な考えだった。
私が佐々木尊に抱く感情は、恋というにはあまりにも打算的で利己的な感情だった。
それでも私は確かに佐々木尊に好意を抱いていたし、その感情に相応の態度で佐々木尊に接していた。
そんな私を佐々木尊は、表向きは慕ってくれていた。
私は佐々木尊を信頼し、いくつかの保険を事前に用意はしていたものの、彼に裏切られる可能性などほとんど考えることもなく、彼と二人きりで私を被検体にした最初の人体実験を行った。
実験そのものは、ラット同様に問題なく成功した。
--しかし。
「--俺、小倉教授にはとても感謝しているんです。小倉教授がいてくださったおかげで、俺は夢に見ていた若返りの機械を完成させることができました。本当にありがとうございました」
「……でも、それはそれとして」
「俺が母さんを手に入れる為には貴女は邪魔なので、このまま消えて下さい」
反応しない内部の脱出ボタンを必死に押し続ける私に、佐々木尊は笑ってそう続けた。
細められた目の奥には、私が佐野に向けられているものとよく似た、狂気の色が滲んでいた。
ああ、結局は佐野が正しかった。
結局私は、人を見る目ですら、あの男には勝てなかったんだ。
次々にあふれる涙は、回りの液体に溶けて、その存在を確かめる術もないまま消えた。
ただ、受精卵に戻って消滅するしかない、未来が怖かった。
だが、その反面、安堵している私がいたのも確かだった。
これで、ようやく、私は。
ようやく私は、あの狂った男から……--。
『……さあ、迎えに来ましたよ。小倉教授』




