小倉教授の悲哀2
佐野は、奇妙な男だった。
高校卒業と同時にアメリカへと発ち、理工学の権威と言われている大学を優秀な成績で卒業したにも関わらず、弊大学に院生としてではなく、通常の学生として入学してきた変わり種。
一年生に課せられる、理工学の基礎中の基礎とも言える講義を、他の誰よりも熱心に聞いていた彼の姿は、私を落ち着かなくさせた。
--この男は、何を企んでいるんだ。
熱心に受講しているふりをして、この程度の講義しかできない私を馬鹿にしているのか。
日が経つごとに疑心暗鬼が膨らんでいた私を前に、佐野は狐のようにつり上がった切れ長の目を更に細め、そんな言葉を口にしたのだった。
「……残念ながら、私はまだ教授ではないわ。小倉准教授と、ちゃんと呼びなさい」
「ああ、そうでした。そうでした。すみません。日本の大学の役職を、まだきちんと把握していなくて」
これは、まだ教授になれていない私への嫌みなのだろうか。
思わず鋭くなる視線を、佐野はものともせず、話を続けた。
「小倉准教授は覚えていないかもしれませんが、僕はアメリカで一度准教授をお見かけしているんです。僕が卒業した大学で主催した理工学会で」
「……そんなこともあったかしら。さすがに、一生徒のことまでは覚えていないわ」
嘘だ。
覚えている。
一介の学生でしかないはずの佐野は、世界的に有名な理工学教授の発表の助手をしており、そのうえ研究の核心部に携わっていた。私より10も年下の日本人の男性が、そんな立場にいるのに、目が行かないはずがない。
「あの時、自身の研究発表をしている小倉准教授の凜とした姿に、すっかりファンになってしまって。本当は向こうの大学の院に進もうと思っていたのですが、卒業と同時に日本に戻ることに決めたんです」
「そう……ありがとう」
腹が読めない男だ。そんな、見え透いたおべんちゃらを私に言って、何を企んでいるというのか。
胸の奥に湧き上がる不快感に耐えながら、軽く佐野の言葉を流してその場を去ろうとした時だった。
「--あの時発表されていた研究ですけどね。ドイツのM.デトロフ教授が昨年発表した研究を応用すれば、より精度が高く効率的な機械が完成しますよ」
すれ違いざまに小声で耳打ちされた言葉に、足が止まった。
目を見開いて振り返る私に、佐野は変わらぬ笑みを向けた。
「僕に小倉准教授の研究のお手伝いをさせて下さい。……きっと、貴女が満足する結果を提供してみせますよ」
--佐野は、素晴らしい研究助手だった。
私にはない、画期的で実用的なアイデアと、私では把握しきれない、膨大な知識。
佐野のアドバイス一つで、今までは試作の段階で実用不可能だと結論づけていた機械すら、実用化できるようになった。
月日が流れるにつれ、私の名声は勝手に高まっていく。
だが、それはとても恐ろしいことでもあった。
佐野は、私の研究に自身の名を残すことを望まなかった。
何の見返りも求めず、ただ研究が終わる度、いつものあの笑みを浮かべて、私に聞くのだった。
「僕は、貴女の役に立てましたか?」、と。
「--貴方は一体何を望んでいるの?」
私が教授の職を得た時、佐野は助教として大学に残ることが決まっていた。
「私を舞い上がらせるだけ、舞い上がらせてから、全ての功績は自分のものだと世間に公表して絶望させたいの?」
「……そんなこと、私は望んでいませんよ」
「……ああ、そう、分かったわ! 貴方の手助けがなくなって、ろくな成果も出せなくなっていく私を嘲りたいのね!」
「いいえ。小倉教授。貴女の地位は、これからも何も変わりません。小倉教授が望むのなら、私はこれからも小倉教授の研究についてアドバイスをさせて頂きます」
「……じゃあ、どうして!」
変わらない笑みを見せる佐野が、怖かった。
「じゃあ、どうして大学に残ることを決めたの……!? 同じ理工学の研究を続けるの!? ……何故いつもいつも私を、見張っているの!?」
佐野のアドバイスなしで、研究が出来なくなってしまうのが怖くて、佐野を研究チームから外して秘密裏に研究を行ったこともあった。
だが、佐野は何故かいつも私の研究の詳細を知っていて、何かしらの形でアドバイスを伝えてきた。
そして、一度佐野のアドバイスを耳にしてしまえば、私はもう、それを拒絶できなくなっていた。
佐野の言葉は、まるで、麻薬のようだった。
与えられる賞賛や、名声が心地良くて、思わず甘受し溺れそうになる。
だが、忘れてはいけない。それは、本当は佐野のものなのだ。
理工学教授としてどれだけ高い地位を得ても、結局のところ私は佐野の考えをアウトプットするだけの、傀儡にしか過ぎない。
佐野の気持ち一つで、簡単に破滅する、ただのはりぼてだ。
「何故って……愛する人の傍にいたいと思うのは当然でしょう? 私はただ、愛する人の役に立ち、愛する人を深く知りたいだけです。そして、その行為が、愛する人を私に縛りつけるなら、なおいい」
佐野は私の手を取り、まるで騎士か何かのように優しく甲に口付けた。
「愛してますよ。小倉教授。これからも、私は貴女が望む地位と名声を与えてあげます。……だから、どうか私のものになって下さい」
理解できなかった。
向けられる感情の意味も、その理由も。
佐野は、意味も理由もないと言った。
ただ、愛したのだと。
一目見た瞬間、貴女以外考えられなくなったのだと、繰り返し愛を囁いた。
私はそんな佐野が、化け物のように思えて仕方なかった。
私は、容姿が特別美しいわけでもない。
佐野よりも10も上で、天才的な理工学の才もない。
性格だって、そう良くもない。
そんな女に、どうしてこんな狂気的な愛情を向けらるというのだ。