小倉教授の悲哀1
「……さあ、迎えに来ましたよ。小倉教授」
体を覆っていた液体がなくなり、久方ぶりに空気に皮膚が晒された。
口の中の液体を吐き出すと、それにつられるように胃の中いっぱいに詰まっていた分が喉元までせり上がり、私はただ研究室の床にうずくまりしばらく嘔吐き続けた。
涙で滲む視界に映る自分の手は、記憶していたそれの半分もなく、今の悪夢のような状況を、嫌でも実感せずにいられなかった。
「ああ。かわいそうに、小倉教授。こんなにまあ、可愛らしい姿になってしまって」
相変わらずの腹立たしい狐のようなにやけ顔で、こちらを見下ろす男を涙目で睨みつける。
「……あなたは」
「お忘れかもしれませんが、貴女の愛しい恋人ですよ。小倉教授」
「気色悪い冗談はやめなさい。佐野。心の底から不愉快だわ」
「おや、記憶があるのですか。脳が若返ると同時に、記憶まで後退すると聞いていたのですが」
佐野から差し出されたタオルをひったくるように受け取り、濡れた体を乱暴に拭き取る。
「私自身が被検体になるというのに、そんな重大な欠陥を残しておくとでも? 私が、この研究の第一人者として名を残す為には、記憶と脳の状態を維持する必要があったのよ。そうじゃなければ、佐々木尊に功績を盗まれて終わりだもの。脳の状態や記憶を正常な状態のまま維持する為のサプリメントを、独自に開発して事前に接種してたに決まっているでしょう」
「………さすが、私の小倉教授。そうやって良かれと思ってやったことが、最悪の結果を招いている辺り、本当可愛らしい人ですね」
揶揄するような言葉に、きつく佐野を睨みつける。佐野はそんな私に、心底愛おしそうに微笑んだ。
「さぞ、恐ろしかったでしょう? 全てを正常に認知した状態のまま、ゆっくりと生が逆行していくのを体感していくのは。自分が胎児から受精卵に変わり、いずれは消滅するに至る未来を待つのは、気が狂いそうなほどの恐怖ではありませんでしたか?」
タオルを握る私の手は、未だ震えたままだった。
「………人をそんな馬鹿にしたような目で見るのは、やめなさい。私は、協力者である佐々木尊から裏切られる可能性だって、事前に想定していたわ。そして秘密裏に、内側から脱出できる仕組みもつけていたの」
「しかし、それを察知した佐々木尊から、見た目ではわからないような状態で事前に壊されていた?」
「……………」
「やっぱり、小倉教授。貴女は愚かですよ。愚かで可哀想で可愛い方だ」
機械から脱出した時から、ずっと震え続けている私の体を、佐野は優しく抱きしめた。
「………だから、私だけを信じれば良いって言ったんだ。佐々木尊なんて、笑顔の裏で何を企んでるのか分かりやしないんだから」
笑顔の裏で、何を企んでいるのか分からないのは、貴方でしょう。いつも胡散臭い笑みを貼り付けている癖に。
そう口にしたいのに、全身を包む佐野の体温が、私の言葉を封じた。
ああ、とうとう捕まってしまったのだと、そう思った。
20年も延々と逃げ続けた、この年下の胡散臭い男に、ついに。
「優秀」だと、言われ生きてきた。
「天才」だと、言われたことも少なくはない。
だけど、私は自分が「天才」ではないことをよく知っている。
どれほど努力を重ねようと、自分は本物の「天才」には敵わないのだということを。
博士課程を経て、助教、講師、准教授になるまでは、スムーズだった。寧ろ、同世代の男よりも早いスピードで、そのポストまでは行ったように思う。
「理工学界の期待の星」
「理系女子の希望」
そんな風に周囲から持ち上げられ、私もまんざらでもなかった。この時までは、私は自分のことを優秀だと信じて疑っていなかった。
しかし、私は准教授になってから燻った。どれほど研究を重ねても、成果を発表しても、なかなか教授になれない日々が続く。
単純に、ポストがなかなか空かなかったというのもある。しかし、ようやく空いたポストもすぐに別の准教授に奪われた。私の研究では、教授になるのに見合うだけの成果が出せていないというのが理由だった。
いくら頑張っても望む成果が出ない、研究の数々に疲れきっている私の耳に、弊大学の心理学教授の功績が次々飛び込んで来た。
10年前には既に教授の職を得て、「弊大学史上最年少の女教授」として高い名声を築きあげていた佐々木凛香の噂は、分野違いの理学棟にまで届いていた。
何故、何故。
何故、あの女ばかり認められる?
何故、私はあの女の立場にいないの?
悔しくて妬ましくて。
分野違いで理解ができないのは承知で、彼女の研究著者を買い漁った。そして、すぐそのことを後悔した。
分野違いの素人でも分かるくらい、佐々木凛香の研究著者は興味深くて分かりやすかったのだ。
着眼点も、研究手法も、考察も。著者のありとあらゆる部分が、佐々木凛香の非凡さを表していた。私にはけしてない、研究者としての非凡さを。
何故、どうして。
どうして、私はあの女じゃないのだろう。
どうして、私はあの女のように、特別な才能を持って生まれてこなかったのだろう。
どうして。どうして。
私は神を呪い、佐々木凛香を呪い、自分を呪った。
『僕、小倉教授の大ファンなんです』
--そんな時に現れたのが、私のゼミを選択した、大学生の佐野だった。




