マッドサイエンティストはマッドサイコロジストの夢を見る
陽の光が一切入らない暗い地下室の檻に閉じ込められ、排泄と用意された軽食を摂ることしか許されずに、一人放置されているこの時間が、私はたまらなく嫌いだ。
この時間に比べれば、まだ、嬲られている時間の方がましだと心から思う。あれは様々な種類の苦痛は伴うが、まだ新たな発見があった。私の知的好奇心を、満たしてくれた。
「ああ、外に出たい……せめて、本が欲しい」
私をここに閉じ込めている「父」は、それをけして許してはくれないのだけど。
やることもないので、思考は結局いつもの自己分析に向かう。
ーー「父」からここに閉じ込められる以前の記憶はないが、基本的な常識や知識は有している。
ーー身体年齢は10歳程度。だが、精神的には奇妙なほど老成している。
ーー驚くほど死や苦痛に対する恐怖心や忌避感が欠如している一方で、知的好奇心だけは異常に強い。
何度考えても、通常の人間から逸脱した異質な存在だと思うが、一方で、どれほど考えてもそれ以上の情報が増えない自分自身にあまり興味が持てないのも事実だ。
この異常性が、閉じ込められ、定期的に虐待を受けたことに起因するなら興味は持てるが、一番古い記憶の時点で、私はこうだったので、元々こうであった可能性も捨てきれない。
情報が増えない疑問は、いくら考えても結論が出ないから、実につまらない。
「ああつまらない……つまらないから、いっそ死んでしまおうか」
私が自死を決断するとは思っていないのか、それともそういう事態を想定すらしていないのか、この檻の中の自殺防止対策は薄い。だから、死のうと思えば、簡単に死ねるはずだ。
死に対する恐怖心は、ない。死は、ただの自然の摂理だ。遅かれ早かれ、誰でも経験することだ。
だから、死によって、ここから逃げるのも悪くはない。
悪くはないのだが。
「……私はまだ、あれを、『しって』いない」
胸の中から湧き上がる「しりたい」という渇望だけが、私を退屈なばかりな生に縛りつけている。
「ーーただいま。凛香」
暗い地下室に、灯りがともる。
「父」が、帰ってきた。
ーーああ、やっと。やっと帰って来てくれた。
ただひたすら、この瞬間だけを、待っていた。
「おかえりなさい。お父さん」
口調は努めて、実際のそれよりも幼く聞こえるようにしている。
こうすることで、この男の機嫌が良くなることを、私は経験則で知っている。その方が、私にとっては都合が良い。
「遅くなってごめんね。凛香。……良い子にしてたかい?」
檻の中に自ら入り、抱き締めてくる父の手は、どこまでも、優しい。
……先日まで、「こうしないと、駄目なんだ……こうしないと、母さんは手に入らない。ごめんね。ごめんね」と泣いて謝りながら、私を殴りつけていた手と同じとは思えないほどに。
「うん、わたし、よいこにしてたよ。よいこで、お父さんのこと、待ってた」
「そっか。良い子な凛香には、今度何かお土産買って来ないとな。何のお菓子がいい?」
「ううん。おかしは、いらないかな。昨日、たくさん、もらったから。おみやげなら、わたし、おかしよりも、お話がいいな」
「お話?」
「うん! お父さんの、お話」
父の胸元に頭をこすりつけながら、無邪気さを装った甘えた口調で、欲しいものを強請る。
「わたし、お父さんのことだいすきだから、もっとお父さんのこと、しりたいんだ! お父さんのこと、もっと教えて」
ーー私が、最も渇望する、父の情報を。
「……何で、変わらないのかな」
ああ、だがしかし。私の精一杯の策略は失敗したらしい。
次の瞬間、笑みを浮かべていた父の顔は失望に染まっていた。
「こんな所に閉じ込めてさ……不本意な虐待だって、色々試したのに………何で母さんは変わらないの? 何で、俺だけを想ってくれないの?」
そう言って父は、今にも泣きそうな様子で、私の胸元に顔を埋めたのだった。
「……母さんの論文が間違ってたの? それとも、俺の機械が、おかしかったの? ……わからない。わからないよ。母さん」
「………」
「こんなに試したのに、母さんは何で俺を愛してくれないの……?」
……泣きそうというか、泣いているな。最早。胸元が濡れている。
おそらく成人しているであろう男が、娘と称する10歳ほどの少女の胸に縋り、子どものように泣く様は、どうしようもなく歪で滑稽だ。
そうだ。私の父を称するこの男は、私以上に、どこまでも異常なのだ。
私を泣いて虐待する一方で、普段はまるで恋人のように溺愛する。その癖、私の望みは食事以外は、一切叶えてくれない。
私を「娘」と言いながら、時おり性的な暴行をも与え、「母」と呼びながら、子どものように縋る。
記憶はなくとも、倫理観や一般常識は残っている私からすれば、最早狂人のようにしか思えない。
なんて、異常なのだろう。
なんて、歪んでいるのだろう。
「……なかないで、お父さん」
ーーだからこそ、どうしようもなく、惹きつけられる。
私は、胸元に縋る父の体を、抱き締めた。
しりたい
しりたい
しりたい
この人を、しりたい。
ーーただ、その欲求だけが、私を生かす。
「わたし、お父さんのこと……ちゃんと愛してるよ?」
残存する一般常識に照らし合わせて、なお、私は「愛」と言う感情が、どんなものか、理解できない。
理解できないからこそ、思う。
これだけ、父を「しりたい」と思う感情は、「愛」と一体何が違うのだろうかと。
私の世界は、父だけで。
私の関心の対象も父だけで。
私の心を揺らすのも、父だけだ。
それが、父が意図的に作り出した環境故だとしても、それが通常の「愛」と、何が違うのか私にはわからないのだ。
「……そっか……そうだよね。これが、母さんにとっては、一番の愛し方なんだよね」
先ほどより、幾分か回復した調子で、父は再び私を抱き締めなおした。
涙で、赤くなった瞳には、暗い決意の色が浮かんでいた。
「……それに、俺の機械があれば、何度だってやり直せる。何度だって、仮説と検証と考察を、繰り返せるんだ。母さんだけじゃなく、俺だって若返れるんだから、その気になれば永遠に。……今は、これでも良いけど、耐えきれなくなったら、また実験を始めよう」
父は一人そう言って、私の頭を撫でた。
「……ね? 母さんも、その方が嬉しいでしょう。比較対象が増えて、自分の論文が高い精度で完成することを、望んでいるんでしょう? 何十回でも、何百回でも比較実験して、母さんが最初に立てた仮説を俺が検証してあげるよ。母さんが、俺の理想の状態になるまで。……母さんの夢を、俺が母さんで叶えるんだ。嬉しい?」
父が告げた言葉の意味は、解らない。
解らないが、何故かそれは、私にはたまらなく魅力的なことのように思えたので、私は微笑みながら頷いたのだった。