小倉教授の悲劇
「そんなことの……そんなことの為に、お前は理工学を学んだのか」
今の日本の技術では、おおよそ不可能だった「若返り」の機械。
歴史に名が残るであろう、大発明。
それを……ただ「私と共に生きたい」というだけの理由で、尊は作り出したというのか。
「ーーそんなこと? 俺にとっては何より大切な願いだよ。だって俺、母さん以外に大事なものなんてないもの。人間未満の惨めな存在だった俺を、救いあげて、ここまで育ててくれた母さんだけが、俺の全てなんだもの」
「…………」
「……愛してるんだ。世界でただ一人、母さんだけを」
窓に額を当てて、尊は、熱のこもった目を私に向ける。
「義理とは言え、母親を異性として愛するだなんておかしいと思って、他の子と付き合ったこともあったよ。でも、無理だった。可愛いとは思ったけど、それだけだった。笑ってようが、泣いてようが、怒ってようが、どうでもよくて。相手のこと、全然興味持てないんだ。……母さんなら、ちょっとしたことでも、すごく心が動かされるのにさ」
「………それは、私がお前をそういう風に洗脳したからだろう」
「そうかもね。……でもさ、原因はどうであれ、俺にとってはそれが全てなんだよね。今さら、この感覚から抜け出せるとも思えないし、抜け出したいとも思えない。だって、これが俺だもの。……だから俺、開き直って母さんへの愛の為だけに生きることにしたんだ。そうしたらね、すっごく気持ちが楽になった。勉強は大変だったけど、母さんと生きる未来の為だと思ったら、全然苦じゃなかったよ」
照れくさそうに語られる愛の言葉は、どこまでも異常だ。
何故、自分が洗脳されていたと知ってなお、私のことを愛しているなどと口にすることができるのだろう。
何故、こんな異常な状況でなお、尊は変わらないままなのであろう。
騙されていた?
私が見ていたのは、尊の仮面に過ぎなかった?
否。違う。
私が見ていたのも、確かに偽りのない、尊の姿だったのだろう。
ただ、それが、尊の一部にしか過ぎなかったというだけで。
私がただ、尊がこんな一面を持っていたことに気づかなかった。それだけなのだ。
ーーだって私が知らない胸のうちを語る尊は、私がよく知る尊そのものなのだから。
私は、数少ない現存する稼働器官である舌で、乾いた唇を舐めた。
緊張で唇が乾くくらいには、首から上はまだ生理的機能は維持しているようだ。
液体で首の上まで浸かってしまう前に、私は……確かめなければ、ならない。
「尊……お前の目的を、小倉教授は知っていたのか?」
私の脳が、まだ、正常に機能し続けるうちに。
「もちろん、知らないよ。だって、小倉教授、母さんのこと好きじゃなかったし。多分知られたら、協力してくれなさそうだと思って、隠してた。それに、小倉教授、俺のことちょっと異性として意識してたみたいだから、俺も小倉教授に気がある素振りでいた方が、色々利用しやすいかなあって」
「……尊、お前、さらりとひどいことを言うな。ということは、今の私の状態は、尊の独断と言うわけだな」
50を過ぎて、22の尊を異性として意識していた小倉教授を、気持ち悪いと思っていたが、尊に利用されていただけだと知った今は、少し哀れにも思う。
むしろ今の尊の様子を見る限り、小倉教授が抱いた好意すら、尊に誘発されたものだったのではないかとさえ思えてきた。
小倉教授は尊を自分の研究に利用するつもりで、利用されていたと考えると、同性としてだけではなく、同じ研究者としても同情を禁じ得ない。
「独断と言うか、引き継いだと言うか。……小倉教授、もう、研究なんかできる状態じゃないからなあ」
「? どういう意……っ」
尋ねかけてから、先ほどの尊の言葉を思い出した。
『もう、二、三体、人体実験が成功してから、安全性もしっかり確かめた万全な態勢で、母さんにしてもらう予定だったのに、佐野准教授がよけいなことするからさあ。……でも大丈夫だよ。小倉教授だけでも、理論はほとんど証明されてるから』
ーー『小倉教授だけでも、』
「だって、俺が最後に見た時は小倉教授10歳くらいで、母さん連れてここに戻って来た時には、機械の中は液体だけだったからなあ。佐野准教授が救出に来てなければ、普通に考えてそのまま液体に溶けちゃったんじゃない? ラットで実験した時はそうだったし」
何でもないことのようにそう言って、尊は笑ったのだった。
「まあ、でも十中八九、佐野准教授から救出されてるけどねー。あの人も大概、小倉教授のストーカーだし。俺を研究室から引き離す為に、わざわざ俺に盗聴器で会話聞かせて来たんだろうし」
「……尊、何で、お前、そんなに平気そうなんだ?」
「だって、佐野准教授、邪魔しないって言ってたでしょう? じゃあ、まあいいかなって。本当は、小倉教授には消えてもらった方が研究の詳細を知る人いなくなって都合が良かったんだけど、それはそれで佐野准教授が面倒くさそうだし。救出された小倉教授が何かしようにも、脳も10歳未満に戻ってるはずだから、さほど問題はないかなって」
「……そうじゃ、ない」
唇が、震えた。
「……何で人を一人を消したかもしれないのに、そんなに平気そうにしているんだ……?」