仮面の裏側
「……本気で言っているのか? 小倉教授は50過ぎだぞ。尊とは30も離れている」
思わず、敬語を忘れた。
あり得ない。
そんな異常なこと、あってたまるか。
「恋愛に年齢は関係ないでしょう。実際私も、先日40を超えましたが、20年来にも続く10以上年上の相手への片恋は、枯れるどころかますます深まるばかりで」
「あなたの特殊恋愛事情はどうでもいい。興味がないから、勝手にやってくれ。私は、尊と小倉教授の話をしているんだ……!」
それに、10くらいの年齢差なら、まだ許容できる。
尊より10上なら、まだ32。生殖能力はまだ十分有している。
結婚して子どもをもうけて、幸せな家庭を築くことは可能だろう。尊が望む相手だと言うのなら、私は祝福する。
だが下手したら尊の実の母親より年上の小倉教授の恋慕は、どうやったって許容できない。
その特殊心理を普段のように興味深いと思うには、私の心理は、母親のそれに近づき過ぎた。
気持ち、悪い。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
ーー頼むから、そんな異常な感情を、私の息子に向けないでくれ……!
「そんな顔をなさらないで下さい。佐々木教授。小倉教授が、貴方の息子さんに向ける感情は、肉欲を伴うそれとは、また違ってますから」
「……どういう意味だ?」
「『崇拝』? 『利用』? それに伴う『独占欲』? ……いや、やっぱり少しは、肉欲も含んでいるんですかね。私は心理学の専門家ではないので、その辺りはよくわかりませんね。残念ながら」
「……何が言いたいんだ、お前は」
へらへら作り笑いを浮かべる佐野に、苛立ちはますますつのっていく。
思わせぶりな会話は、もううんざりだ。
この男は一体何を企んで、私にこんな気持ち悪い話を振ってくるんだ。いい加減単刀直入に話せ。
「佐々木尊は、小倉教授にとって、金の卵を産む鶏だと言う意味ですよ。……あれは、悔しいですが理工学の天才だ。いくら研究を重ねてもせいぜい秀才どまりの私じゃ、逆立ちしたって敵わない程の」
「……尊が?」
確かに、見せられた大学の成績通知はかなり好成績だったが、そこまでか?
小学生時代の四年の空白期間を一年で埋めるくらい、勉強熱心な子ではあるが、特別天才だなんて感じたことはないぞ。
ただ、少し理工学分野が得意なだけの、どこにでもいる普通な子だ。……私が知っている、尊は。
「まあ、佐々木教授が知らないのも無理はありませんがね。佐々木尊の才能に気づくなり、小倉教授がそれを周囲に知られないように、自らの手の内に囲い込みましたから。同じ研究室の学生でも、佐々木尊の本当の実力を知っているものは、恐らくいないでしょう。まして、貴女は理工学は研究分野外。解らなくて普通です」
「……………」
「しかし、今の小倉教授の……いや、ここ数年の研究は全て、佐々木尊が新たに構築した理論をもとにしたものです。……じゃなきゃ、今の日本の技術で『若返り』の機械なんて完成できるはずがない。小倉教授は、理工学の世界ではそれなりに有名ですが、あくまでそれなりですから。小倉教授の頭では、あれの完成は不可能です」
にわかには、信じられない話だ。
今朝、私の口もとについたパンくずを、幸福そうな顔で口に入れた男の話とはとても思えない。
……ああ、しかし。
『俺の助言があってこその成功だって、小倉教授も言ってたもん。小倉教授の名前でやってるけど、ほぼ共同研究だよ? 他のメンバーが知らない研究の核心部分、知ってるのは俺と小倉教授だけだし』
今朝の尊のあの言葉は……真実だったということか。
「……ちょっと待て、佐野准教授。お前は小倉教授とは別の研究室のはずだろう。何故、極秘で行われている研究内容を知っている。小倉教授は、同じ分野のライバルである、お前にだけは知られないようにしているはずだ」
「おや、やっぱり佐々木尊は、研究内容も貴女に話してましたか。思っていた通り、かなりのマザーコンプレックスですね。私としては、都合が良いですが」
「話を逸らすな。質問に答えろ」
「……単純な話しですよ。研究に関わっているメンバーに、小倉教授より私を慕う生徒が一人いるってだけです。小倉教授の佐々木尊贔屓はあからさまですから。不満を抱えた生徒の懐柔など容易いことでした」
……つまり、スパイということか。
「佐野准教授……お前が一体何を企んでいるのか、私は分からない。小倉教授を敬愛すると言っている一方で、スパイを使って情報をリークさせながら、小倉教授の頭脳では不可能な技術だと笑う。それなのに、小倉教授に偏愛されている、尊への敵意は隠そうとはしない。……意味が分からない。お前の言動は私には矛盾に満ちて感じる。一体何が嘘で、何が真実なんだ」
心理学用語で、自己の対外的な側面を仮面と呼ぶ。他人に見せる顔である仮面と、自己の内面に差異があるのは当たり前なことだ。
しかし大抵の場合は、仮面には何かしら綻びがあって、そこから真実を見抜くことができる。無意識の反射行動を抑えて、完全に自身を偽ることは、人間にはとても難しいことだから。
だが、佐野准教授は何が真実なのか、全く分からない。あまりにも仮面が分厚過ぎて、その裏側を察することができない。
「……私は何にも嘘なんか、ついてませんよ」
佐野准教授は、嗤う。
相変わらず本心が分からない、胡散臭い笑みで。
「私はただ、小倉教授を愛しているだけです。醜い部分も、欠落した部分も、全てを引っくるめて、彼女が愛おしい。……だからこそ、彼女の為に、佐々木尊を排除すべきか、利用すべきか判断に困って、貴女に近づいたまでです」