消えない狂気
人間は、必ず老いて、やがて死ぬ。
そういう風に、生まれた時から定められている生き物だ。
ならば、きっと、老いることにも、死ぬことにも、何かしらの意味があるのだろう。
若い頃より、皺も白髪も増え、疲労も感じやすくなって来たが、私は半世紀以上もの生を重ねた今の自分が嫌いてはない。
「……だいたい、もったいないだろう。閉経後の更年期女性の心理状態を実体験として考察できるようになり、ここから老年期に移り変わる上での心理状態の経過観察を楽しみにしていたというのに」
「……うん。母さんは、そういう人だよね」
なんだ、その呆れたような目は。
尊は大きくため息を吐くと、机につっぷした。
「あーあ。俺の研究で、母さんを若返らせることができたら、喜んでくれると思ったのになあ」
「俺のって……小倉教授の研究だろう」
「俺の助言があってこその成功だって、小倉教授も言ってたもん。小倉教授の名前でやってるけど、ほぼ共同研究だよ? 他のメンバーが知らない研究の核心部分、知ってるのは俺と小倉教授だけだし」
……全く、小倉教授のリップサービスを本気にとるとは。
院に入りたての学生が、どれだけ役に立つと思っているんだ? 自尊心を再構築する時、少しやり過ぎたか。
「尊……お前はもっと、自分を客観視することを覚えるべきだな」
「えー。これも信じてくれないの? 母さんが思っている以上に、俺は優秀で大人だと自負しているんだけど」
「本当に優秀な人は、自分で自分を優秀だなぞ軽々しく言わん。後、でかい図体して母さん母さん言っている奴の、どこが大人だ。いい加減自立して、母離れしろ」
「母さんを一人にすると心配だから無理だよ。まだまだ、親孝行し足りないし」
そう言って尊は、食べ終わった食器を私の分まで集めて、私から背を向けた。
「……最初に俺に手を差し伸べたのは、母さんだよ。拾って、懐かせたからには、責任とって傍にいてもらわなきゃ、ね?」
「……お前は捨て猫か、捨て犬か」
「捨て猫より惨めだったし、今は捨て犬よりよほど役に立つよ。……だから、また捨てたりしないでね?」
軽口を言いながら台所奥に消えていく尊に、ため息を吐く。
……本当に、育て方を間違えたかもしれない。
「じゃあ、俺、先行くけど、母さんも講義遅れないようにね。お弁当、ここに置いておくから」
「ああ。……ありがとう」
「うん。行って来ます。今日の夜は俺、バイトでいないから、悪いけど学食ででも食べててねー」
手を振りながら、一足早く家を出ていく尊を、玄関口で見送る。
「………ああ、行ってらっしゃい」
成長した尊の背中を見ていたら、不意に胸の中で温かいものがじわりと広がるのがわかった。
「これが、母親の情愛と言う奴か」
13年前の私なら、けして理解できない感情だ。
スタンフォード大学の監獄実験。
看守と囚人に役を分けられた一般人が、地下実験室でそれぞれの役を演じながら生活したところ、実際の人格が役割の影響を受けて変質してしまう。
今の私も、それと同じだ。13年間母親の役を演じているうちに、いつの間にか母親のような気持ちを抱くようになってしまった。
尊には、過去を忘れて幸せになって欲しい。
私の支配から離れ、一人で健全に生きて欲しい。
……そんな、馬鹿なことを思うまでに。
「ーーだけど足りない……それでも私は、満足していないんだ。尊、お前の犠牲があってなお、私は同じことを繰り返すんだ」
仮説立てたい(しりたい)
検証したい(しりたい)
考察したい(しりたい)
押さえつけている狂気は、日に日に強くなっていくばかりで、けして消えてくれない。
私は、玄関から背を向け、地下に続く階段を降りた。「ただの物置」と称して尊すら近づかせない、その地下室は、私の狂気の象徴だ。
南京錠を開くと、そこには、以前研究室で保管していた洗脳実験に関する資料と、柵で囲んだ「檻」が置かれている。
尊の精神ケアの過程を論文にまとめるには、精神科医による他の被虐待児の比較考察用データが必要だった。
ーーならば、尊の洗脳実験も、同じだ。
比較対象となる、被検体が必要となってくる。
「尊が独り立ちをしたら……私はここで新たな実験を始めるのだろうな」
今度は、自尊心の破壊すら、自らの手で行って。
定年退職がもうまもなくになった今、例え自らの虐待が露見して逮捕されることになったとしても、悔いはない。
それならば、精神を壊すところから、自らの手で行ってみたい。監禁して自尊心が破壊される状態に追い込み、その後優しく自尊心を再構築すれば、どれくらい洗脳効果が変わるのか、過去の尊の状態と比較してみたい。
ーー仮説立てたい(しりたい)!
ーー検証したい(しりたい)!
ーー考察したい(しりたい)!
私も、いい加減良い齢だ。子育てという名目で洗脳実験を行うなら、これが最後のチャンスだ。
たとえ、そのせいで犯罪者になったとしても、構わない。
牢に入れられたなら、牢の中で同じ環境にいる囚人達の心理分析を行うだけだ。それはそれで、興味深い。
「……だけど、私が犯罪者になったら、残された尊はどうなるんだ……? 社会生活を行う上で、支障はないのか……?」