5 死者の棲む家
雷を伴った激しい雨が降り続けていた。
陽は暮れて外は闇色の雲のベールで覆われている。屋根に降り注いだ雨水が集まり雨樋の終端から地面へと流しだしている。
託生は自宅の外扉の前に立って扉の鍵を解錠した。
外扉を開けいつもどおりに玄関で靴を脱ぎ内扉を開けるという一連の動作を終え、灯りの消えた居間へ向かった。
窓側で閉ざされた厚い遮光カーテンが家の中を更に閉ざされた空間として圧迫感を与えた。
「誰もいない」
誰に伝えるわけでもなく、託生は心細さから呟いていた。
照明もつけるまでもなく暗闇に目が慣れてきた。
自宅の二階へと続く中階段を上がり暗い自分の部屋へと入った。部屋に入り照明のスイッチを入れても灯りは部屋を照らしてはくれない。
照明器具の接触不良か何かと考え、そのままベッドに背中をあずけて床の上に座った。
フローリングの床材から伝わる冷たさも木目調の手触りも感じられない。
託生は夢の中にいるのだ。
現実ではない世界をいままで現実だと思い込んでいたほど細部まで現実的だった。夢だと解ったなら自分の意思で目覚めることもできる。
だが、それを許さない状況が夢の中で起きたのだ。
託生の視線の先にはフローリングの床材の上に黒色の革靴があるのだ。恐るおそる視線を上方へ移動させていく。そこには全身黒色のスーツ姿がある。
顔を確認するまでもなくあの男だという確信はあった。
その確信を確実なものにするためなのか男の顔を見ずにはいられない衝動に駆られた。
託生は絶句した。
そこにあるはずの男の顔がないのである。
白い靄のような暈しが入った顔は目鼻はなく顔のキャンパスにはあの鮮血のような深紅の唇があるだけなのだ。
もう見たくない!託生は混乱し、男の顔から必死に視線を逸らそうとするのだが男の顔が視界から外れない。
それどころか自分の意思とは真逆に食い入るように見詰めてしまう。
もうたくさんだ!託生は既に夢と現実の区別が認識できない。
男は託生の顔に目鼻のない顔が触れるであろう距離まで一気に近づけた。
耐え難い恐怖が雷の轟きの如く託生の精神を撃った。
そこで夢から解放されることとなったのだ。
ゆっくり瞼を開きスマートフォンに手を伸ばす。液晶画面のデジタル表示の時計には四時四十四分を告げていた。
暫くの間ベッドの上で再び眠りにつこうと睡魔と折り合いをつけようとしたが眠りに墜ちることはなかった。眠ることを諦めると、意外と気持ちが楽になった。
冷静さを取り戻した託生は何故このような夢を見たのか自分なりに納得がいく理由を求め、己の考えに耽った。
昨日は学校帰りに昌也の家へ行った。
あのエスカレーターにも乗ったが何も起こらなかった。
家へ訪問すると母親が昌也が風邪をひいて寝込んでいると言っていた。
風邪で体調を崩し過剰な神経質になっていると何か困惑した表情で言った。
いろいろな事が絡み合った結果がこの夢の原因だと無理矢理自分を納得させた。
部屋の扉が音もなくゆっくりと少し開いた。
部屋の隣が壁を隔てて階段があるのだが、階段上段から下段へ向けてテニスボールが弾みながら転がり落ちていくような音がした。
託生は部屋の扉を開き階段から階下の方に視線を向けると、昨年亡くなったはずのパピヨン犬の姿が一瞬見えた。
愛犬が階段を降りる時の音が先程の音であったのを思い出す。
狐に摘ままれたような感覚で愛犬の姿を求めて階段を降りた。
居間には照明の灯りに満たされていた。
居間には犬の姿はなかった。
居間の座卓の所に作業着を着ている男は託生に背を向けて胡座をかいて座っていた。ここにいるはずのない父親の後ろ姿だった。
「お父さん……」
声をかけてみたが、気づいていないかのように何の反応もなかった。
恐るおそるもう一度、声をかけてみた。
だが、蝋で作られる彫刻の精巧な人形でもあるかのように微動だにしないのだった。
「お父さん!」
託生は父親の左腕を掴んで声をかけた。
すると先程まで背を向けて身動き一つしなかった父親の首だけが、機械仕掛けのからくり人形のようにゆっくりと振り向く。
それと同時に居間の照明の灯りは消え、顔を見ることのないまま父親の姿も消えていた。




