3 這い上がってくる魔物
帰宅したその日の夜にそれはやって来た。
早々に就寝した託生は本能のような鋭い感覚で何かの訪問を感じ取り瞬時に目を覚ました。
何か来る!切迫した感覚が警告を発している。
得体の知れない何かがベッドで寝ている無防備な託生を襲おうとしているのだ。
静寂が支配する部屋の中で突然、金属が軋むような音で耳鳴りがしだした。
その金属音は次第に大きな音へと変化し恐怖心も比例して大きなものへと膨らんでいく。
この場から一刻も早く抜け出したい。
救いを求めるように母親を呼び続けた。
しかし、言葉にならない言葉だけが口から発せられていた。
思い通りに言葉が発せられない絶望感に追い討ちをかけるように体もまったく動かなくなった。
手足の自由さえも奪われ成す術がなかった。
仰向けの姿勢で金縛りの状態となった託生の足元から何かが上半身の方へと向かって這い上がってくる感覚と重みを体感した。
這い上がってくる何かのその重みで実際に掛け布団が沈み込んでいるのが分かった。
来ないでくれ!必死にそう叫んでいるはずなのだがその言葉さえも声として発せられていなかった。
託生は恐怖から目を開けることさえできず固く瞼を閉ざし続けた。
もし、今の現状を打破することができる勇気を持ち合わせており、瞼を開けたそのときに目にする恐怖に立ち向かうことができたなら迷うことなくその正体を確認しただろう。
だが、それはしてはならないことだと内なる自分がそう告げている。
ベッドの上で横になっている託生の足元から徐々に這い上がってくる何かは、足元から腰へと忍び寄ってくる。
それが胸元へと恐怖を伴って近づいてきたときには、絶望が託生の体中から溢れ出ていた。
そして、託生の首筋へその得体の知れない何かが迫り来る。目を開けなくてもそれが、這い上がってきたものの顔だということが容易に想像できた。
無抵抗な託生にそれは覆いかぶさるような状態であり、必死に体を反らしても身動き一つできず、恐怖から逃れることはできない。
得体の知れない恐怖だけが全身を駆け巡った。
首筋へと押し付けられた顔からは体温などの温もりは感じないが、獣のような荒い息だけははっきりと感じとることができ首筋から頭の先まで悪寒がした。
自分の力だけでは抗えない。
身を引き裂かれるような恐怖に必死に耐えるしかなかった。
得体の知れないその顔らしきものが、託生の右耳へと口元を近づけてくるのが荒い息から感じた。
「……生きるものは……死ぬ……」
男の低い唸り声でそれは囁いた。
託生は全身から血の気が引くような凄まじい恐怖で、魂の最深部までもが凍りつきそうであった。
それでも託生は必死に恐怖と闘っていた。
「早く去ってくれ!」
何度も心の中で繰り返し叫んだ。
暫くすると、託生の体に圧し掛かかっていた重みは消え呪縛から開放された。
それと同時にその得体のしれないものの気配も消え去っていた。
固く瞼を閉じていたことを思い出す。
ゆっくりと瞼を開くとぼやけた視界が広がった。
真っ暗な部屋の中には静寂がこの空間の主であるかのよう静まり返っており、先程までの恐怖との死闘は存在しなかったかのようであった。
暗順応で暗闇に目が慣れ始め、部屋の隅々まで見渡せるようになった。
ベッドから上体を起こすと、部屋の中は信じられないくらいに冷え込んでいた。
意識ははっきりしていたが、現実の出来事であったのかそれとも寝惚けていたいたのか冷静に考えてみた。
汗を吸い込んだ衣類は徐々に冷え、託生の体温を奪っていく。
寒さに耐えかねて、再びベッドへ横になり冷たくなった体を布団で包んだ。
安堵感が心を満たしたが、それよりも脱力感と恐怖心が勝り気持ちが高ぶっていた。
その夜は一睡もできずに朝を迎えた。