3 壁の染み 参
このアパートへ引っ越してきてからというもの、深夜の物音に悩まされていた。
壁を叩いているような音や、床に響くような走り回る音であった。
このような音を聞くと目が覚めて眠れないという日々が、ここ数ヶ月続いていたのだった。
幹博にとってはさらに恐怖を思い起こす音でもあった。
父親が幹博や母親に暴力を振るっている場面がフラッシュバックのように思い出されるのだった。
木製の椅子がフローリングの床の上にひっくり返るときに激しい物音がした。
食器の割れる甲高い音や母親の悲鳴と鳴き声が思い出された。
「俺は子供が産めない女がすきなんだよ!」
父親はそう母親を責めていた。
酒に酔うと乱暴になり、喧嘩っ早く態度横柄、反省や後悔をすることを知らなくなり、自己中心的で協調性が欠如する父親には会社の同僚も親戚も誰も諌める事ができなかった。
「警察を呼ぶよ」
あまりの横暴さに幹博が父親に向かって叫んだ。
「呼べ!」
父親は叫んだ。
幹博は何度も確認しても、父親は同じ言葉を叫ぶだけだった。
数分後、自宅に警察官が三人駆けつけてくれた。
父親は先ほどとはうって変わって大人しい温厚な振りをしていた。
口調も穏やかで甘い声色で話ており、童顔の顔がさらに人柄を柔らかい印象として相手に与えていた。
しかし、部屋の中にはアルコール度数二十五度の焼酎四リットルのペット空のペットボトルが三十本ほどあり、その他にもワインの空ボトルやウイスキーのからボトルや焼酎の紙パックなども散乱していた。
家の中だけではなく、玄関や外まで四リットルの空のペットボトルが散乱している始末であったのだ。
警察官に諌められた父親は大人しくしていた。
警察官が帰った後に再び、母親に襲い掛かる父親に対して、幹博は再度警察を呼んだ。
警察官が駆けつけるほんの数分前では、母親は父親に階段から突き落とされる寸前であったのだ。
父親は警察官たちの前では、大人しく物分かりの良い夫を演じていた。
数ヵ月後、母親の体調が悪化したため病院へ受診した。
母親は脳幹梗塞を数年前に患っており、その他にも糖尿病や高血圧、突発性心筋梗塞なども患っていた。
父親が病院代や生活を母親に入れてくれないことで一年以上通院していなかった。
今回の受診で母親は医師に注意された。
「小さな脳梗塞が何度も起きてましたね。いつ、再度、心筋梗塞や脳梗塞になって死んでもおかしくない状況です。糖尿病も悪化しており、目ももう失明しますよ」
医師に伝えられた内容に、母親は自分自身の体の状況を今まで理解していたような内容で悪化していたためにさらにがっかりした様子であった。
幹博は父親に電話をしたくないが、しぶしぶ電話をかけた。
「もしもし、お父さん?」
「何で電話してきた。金ならないぞ!」
まだ、何も言っていないのに父親はそう言った。
「お母さんなんだけど、今日病院で受診してきたら、いつ死ぬか分からない状況で、失明もするみたいなんだ」
「俺にどうすれってよ! 何で電話してきた!」
父親は煩わしそうに言った。
「一応……伝えておこうと思って……」
「話は聞いた! じゃあ電話切るぞ!」
「それでいいの?」
「俺にどうすれってよ? 死ぬんなら仕方がない! 神に祈れ!」
そう言って父親は電話を切った。
酒が切れていて機嫌が悪いのか、父親は苛立っていた。
そのようなことが次々の深夜の時間帯に思い出すことで、幹博は神経が高ぶってなかなか寝付けなかったのである。
壁に体当たりでもしているかのような激しい音がした。
床の上をのた打ち回るような、不快な音がした。
いろいろな音が幹博を責めるかのように、止むことなく響いていた。
「うるさいぞ! いい加減にしろ!」
幹博はベッドから体を起こして、壁の黒い染みのある方に向かって叫んだ。
隣人が深夜に騒いでいるのには、もう我慢ができなかった。
管理会社へ苦情の電話を入れることを決めた。
カーテンの隙間から朝日が差し込んできた。
いったいどれくらいの時間、睡眠がとれたか分からなかった。
気だるさと偏頭痛が酷かった。
時計を見ると十時を少し過ぎたことであった。
管理会社へ電話してみることにした。
「すみません。そちらの賃貸物件に住んでいる者なのですが……」
幹博は、ぎこちなく電話で話を進めた。
住んでいるアパート名や部屋番号を答えて、隣の部屋の深夜の騒音について説明した。
「そうですか……ですが、佐野様のお隣は空室となっているのです」
管理会社の電話対応者からそう伝えられた。
「上の階の人の騒音が、壁伝いに響いているんでしょうか?」
幹博は騒音の主が誰なのかはっきりしたかった。
しかし、管理会社の電話対応者からは上の階も空室だと伝えられた。
誰かが夜中に忍び込んで、住んでいるのではないかと幹博は言ってみたものの、そのような確証はなかった。
管理会社の電話対応者からも、アパートの担当者に確認させますと言われたたけで、根本的な解決は見送りとなった。
今日は託生が遊びに来る日なので、幹博は取りあえず部屋の片づけをすることにした。
気だるさと偏頭痛が動くたびに幹博を憂鬱にさせたが、それでも友人と遊ぶ楽しさに心を躍らせていた。




