魔王の言い分
少女は、森の中を躊躇うことなく進んでいく。たとえ日が落ち薄暗くなっても、まるですべてを見通しているかのような迷いのない足取りで。
ディル―――魔王ジェラルドは、もやもやとした思考の霧に飲み込まれそうな自分をなんとか奮い立たせ、少女の背を追いかけた。今は熟考などをする暇はない。自分一人ではないのだから、なおさら周りに気を配らねばならない。どこぞの馬鹿のせいで異常に悪目立ちしてしまったことも災いしている。頭が良い癖して、時々馬鹿らしいような手段を使うから嫌になるのだ、あの男は。自分達は、現在王城を選挙している者達が躍起になって探している人物であることを把握しているのだろうか。
脳裏にあの食えない笑みがチラチラと浮かんで、彼は反射的に舌打ちをした。するとエセルがくるりと振り返り、「どうしました?」と問う。
「……いや、なんでもない」
緩く首を振ると、そうですか?とエセルは首を傾げて再び前を向いた。細い体。森を進む彼女は確かにそこらの娘よりも大層機敏ではあるが、気配を殺す方法も、人を傷つける方法も、きっと知らないだろう。
(……やはり、巻き込むわけにはいかないな)
自分の為に、今までどれだけの人間が犠牲になっただろう。
人望など、無いに等しかった。必要なかったし、好き勝手に悪評を流されることにも特に頓着はしなかった。僅かながらも確かに理解者はいて、何よりも、自分は『束ねる者』ではなく『影に生きる者』であるはずだった。だから、それだけで十分であるはずだった。
けれど、運命は何と皮肉なものだろう。輝かしき王冠を手に、より良き未来を切り拓いていくはずの王は、片手で足りるほどの年月でその短い治世に幕を閉じた。残されたのは、その存在すらほとんど知られていなかった、人望もなく悪評ばかり伝わる愚鈍な王弟。
それでも無理やり玉座に据えられたジェラルドは、その状況に心から絶望していた。自らの滑稽な姿を嘲りながらも、自らの私利私欲を満たすため、お飾りの彼を玉座に縛り付けて離さない貴族達。日毎強くなる陰口。兄の輝かしき姿を無理やり重ねようとして、勝手に期待し勝手に失望する側近。歯車は狂いに狂い、それでも貴族達に抗い、国を本来あるべき姿にしようとした結果。―――それが、貴族達の反乱である。
数少ない理解者達は、それでも彼を支えようと尽力していたにもかかわらず、みっともなく王城から逃げ出すこととなった。彼らが無事逃げ延びたのか、それを知る術は今のジェラルドにはない。
ふと、彼は足を止めた。少女はしばらく気がつかずに歩いていたが、途中で慌てて引き返してくる。
「どうしたんですか?」
ジェラルドは、わずかに目を細めた。少女が歩くのに合わせて、大地の気がさざめく。―――森に、いや精霊に愛された少女。
彼女相手なら、恐らくは。
《血を厭う精霊達よ。どうか私の声を聞いてくれ。その衣の裾に、そなたらの愛した娘を匿ってくれ》
「ディル、何を……」
エセルは怪訝そうに眉をひそめた。それから、辺りに視線を走らせ、口を開こうとする。
彼女が、精霊魔術を使う者だと少し前に聞いた。しかし、利はこちらにある。
《森の魔導師の元へ、どうか彼女を……》
「……待っ、何で……!」
強い風が吹き抜け、少女の姿がふっと掻き消えた。どうやら精霊達はジェラルドの要望通り、彼女を守ってくれるらしい。血を厭う精霊達が、自らの愛し子をみすみす汚れた戦場に置いていくことを良しとしないという、ジェラルドの読みが当たったのだ。
「……さぁ、ここから先は俺の幸運が試されるな。運命の女神よ、貴方がどちらに微笑むのかが楽しみだ」
自らを奮い立たせるようにそう呟いて、ジェラルドは腰に吊っていた剣を引き抜いた。遠くから、足音が聞こえる。自らの味方と呼べる存在の数を考えると、追っ手と考えるのが適当だろう。
『貴方の心が、冥界に下ることを……死ぬことを望んでいる』
あぁそうだ。いつだって死を望んでいた。死による開放を、誰よりも待ち望んでいた。周りに、自分に絶望し、希望など欠片も存在しなかった。
けれど、久しぶりに自分に救いの手を差し伸べてくれる者を見た。勇者に追い詰められ、逃げ場などない自分のところへ、命をかけて駆けつけてくれた者がいたからこそ、落城が可能となった。正体に勘付きながらも治療を施し、協力を申し出てくれる者もいた。
薄闇の中に、人影が現れた。二つ、三つ、……いや五つ。怪我を抱えた状態で相手にするには少々苦し人数ではあるが、ジェラルドはにやり、とかつて悪魔の笑みと呼ばれた壮絶な笑みを浮かべ、剣を構える。
「さぁ、掛かってこい。……残念ながら、そう簡単に殺されてやる気はないぞ?」
死んでもいいと、死にたいと、思っていた。けれど今、体の中から込み上げてくるこの感情はなんだろう。
(もし、生き残ることができたのならば……その時は)
彼らと共に、もう一度。
この理不尽な運命に、立ち向かいたい。