第参拾捌話 損して得取れ
お待たせしました。調子がよいので書けましたが、今回は長いです。
感想返しはしばらくお待ち下さい。
弘治三年(1557)四月二十日
■摂津國和泉國 堺
堺はその名の通り摂津國と和泉國の堺に発展した商業都市である。その堺に本願寺訪問を終えた北條氏堯以下が到着した。その地には二日前に海路到着した渡邉孫八郎昌長、小川次郎左衛門直高達一行が待機していた。
「北條左衛門佐だ。遠路御苦労」
「北條新九郎氏政だ」
「北條新三郎綱重と申す」
「三田長四郎康秀と申します」
氏堯達の言葉に昌長以下の面々が頭を下げたあと挨拶を行う。
「それがし、渡邉孫八郎昌長でございます。左衛門佐様、御曹司様、久野様、三田様に拝顔を賜り恐悦至極に存じまする」
「それがし、小川次郎左衛門直高でございます。左衛門佐様、御曹司様、久野様、三田様に拝顔を賜り恐悦至極に存じまする」
元々の伊豆衆で北條家の直臣である昌長は知行百貫を喰むだけあり堂々とした挨拶だが、直臣となったばかりで未だ慣れない次郎左衛門は相変わらずの緊張したままの姿である。
「次郎左衛門そう堅くなるな。肩の力を抜くがよい」
「はっ」
そう言われても緊張の解けない次郎左衛門を見て、氏堯達は苦笑いする。
「そち達を呼んだのは他でもない、新三郎が是非にと名指ししたのでな」
「久野様がでございますか?」
皆を代表して昌長が質問してくる。
綱重が答えるが、実際は康秀からの受け売りである。
「遠路来て貰ったのは他でもない。此は他言無用だが、皆に西国へ使いに行って貰うつもりだ」
西国という声が出る。
「西国と申しますと、どちらへ行き、いったい何故でございますか?」
「明日、堺にて堺会合衆、博多年寄衆との会合が有る。その後、新三郎殿が正使となり、そち達は副使として博多衆と共に西国へ向かい各地の会合に参加して貰う」
「博多というと、九州でございますか?」
「その通りだ。此は北條家百年の計だ。苦労をかけると思うが宜しく頼む」
綱重が頭を下げる為、昌長達は慌てる。
「久野様、お頭をお上げ下さい。主命とあらば何処へも向かうが武士でございます」
「と言う訳だ。詳しきことは中食の後にいたそう」
氏堯が休憩を入れ、落ち着かせるようにした。
中食で島津忠貞親子が加わり、広間へ集まると、今度は康秀が説明係として話し始める。
「渡邉殿は、先祖は摂津渡邉党の出身、小川殿は武蔵西党の出身で間違いございませんでしょうか?」
康秀の質問に二人が肯定する。
「「その通りにございます」」
「明日の会合で、博多商人神屋紹策本人、嶋井茂久の使いが来ます。彼等は明、朝鮮、琉球、南蛮などとの貿易を手広く進めています」
貿易という言葉に、二人が自分達が何の役に立つのだろうかと言う顔をする。
「博多から、現在明は海禁をしています。大内氏が行っていた勘合貿易以外は皆密貿易として厳しく取り締まっているのですが、商人達は密貿易を行い、さらには倭寇と組んだりもしています。しかし成功すれば良いのですが、失敗すれば大損害です。
しかし世の中には抜け穴が有って、南蛮人は明の澳門という土地を手に入れ、明との貿易拠点としています。又、琉球は朝貢している関係で比較的楽に明の品が入ります。明や琉球へ行くには薩摩の坊津に寄港するのを常としているのですが、島津氏が琉球貿易の独占を狙っているのです。
永正十二年(1513)に備前の三宅和泉守國秀なる者が十二隻の商船を持って琉球貿易をしようと坊津へ寄港した際、島津忠隆が國秀を殺害しているのです。
更に島津は烏滸がましい事に、琉球に対して、島津の印判のない貿易船を締め出すように命じ、三宅を討ったは、三宅が琉球を侵略しようとしたからであると、嘘までついたのです」
康秀の話に、皆が驚きと共に島津が欲深いと感じ、家督を奪われた島津忠貞の境遇を聞いていた全員が、さも有らんと考えていた。
「しかし、三田様。それと我らがどう繋がりが?」
長々とした話で些か判らなく成っている昌直が質問する。
「現在、南蛮貿易は肥前平戸が主な湊です。その領主は松浦隆信嵯峨源氏渡邉党二十五代目だそうです」
「なるほど、それがしも嵯峨源氏渡邉党出身でございますれば、同族の誼を使えと言うことですか?」
「正に、その通りだ。利用するようで悪いが協力してくれ」
昌長にしてみれば、系譜が役に立つのであればそれでよいかという、譜代としての考えで快諾した。
「解りました。微力を尽くます」
「頼むぞ」
康秀は次いで次郎左衛門を見て話す。
「小川殿、小川殿のご先祖は吾妻鏡(鎌倉幕府の公認歴史書)に載る程の勇者でございましたな」
次郎左衛門は、その言葉に驚きを隠せない。些細なことまで知っているとはと。
「はっ、武皇嘯厚大禅門様(源頼朝)の元へ参りまして以来、九郎判官(源義経)蒲冠者様(源範頼)の旗下で壇ノ浦まで戦い続けました。承久の乱では佐々木左近衛将監と共に先陣を切りましてございます」
驚きながらも、先祖が賞められたことで気が良くなり、先祖の功績を一気に説明した。
「流石は、武蔵七党の西党ですね。宇治川合戦は血湧き肉躍りました」
「お褒め頂き恐悦至極に存じます」
「小川殿、承久の乱の恩賞で薩摩甑島地頭職を得て、分家が地頭として赴任していますね」
「はっ、確かに系譜には当時の当主太郎右衛門尉景直の従兄弟宮内右衛門尉季能の子息小太郎季直が甑島へ下向しております」
「その子孫が未だに甑島島主をしているそうです」
「真にございますか?」
康秀の言葉を聞き、次郎左衛門は、遠き地で未だに生き延びていたかと言う驚きと、よくぞ生き延びていたという喜びが沸き上がる。
「うむ、島津の干渉は受けてはいるが、それほどでは無いようだ」
「つまりそれがしも、渡邉殿と同じ様に、甑島との繋ぎですか?」
「正に、その通りだ。利用するようで悪いが協力してくれ」
次郎左衛門にしてみれば、陪臣の陪臣のあった自分を直臣として拾って下さった御本城様のお役に立てるならと快諾した。
「微力を尽くます」
「頼むぞ」
その後は宴会になった。
弘治三年(1557)四月二十一日
■摂津國堺北庄経堂
北条氏堯の頼みにより、堺へ来ていた博多の豪商神屋紹策と、嶋井茂久の代理で息子茂勝(嶋井宗室)が、堺会合衆の中で津田宗達がこれぞと思った人物五名と共に、会合衆の会合場所北庄経堂へ集まってきた。
「遠路遙々お越し頂きおおきに」
「こん度は、お呼び頂きありがとうやね」
堺衆と博多衆は貿易のライバル関係に有るが、商人はいつ何時何があるか判らないので、表面上は穏やかに挨拶し合っている。
雑談が終わる頃、今回の会合を呼びかけた天王寺屋の津田宗達が、北條家一行を案内してきた。
「北條左京大夫が四弟、北條左衛門佐氏堯と申す。この度はお集まり頂き真に忝ない」
「北條左京大夫が嫡男、北條新九郎氏政と申す」
「北條新三郎綱重と申します」
この時代、武士と商人の間に江戸期のような厳格な境が無く、呼んだ以上は氏堯達も丁重に挨拶を行うのである。
北條家側と堺会合衆が挨拶を行うと、続いて博多衆が挨拶を行う。
「神屋紹策と申するとよ」
「嶋井茂久が息、嶋井宗室と申するとよ」
博多弁で話す二人。
津田宗達が司会をする為に話し始める。
「さて、皆さんに集まって頂いたのは、我等と日ノ本の損を無くすが為に、北條様よりお話があると言う事でございます」
損とはなんじゃ?とかいう話し声が、集まった堺と博多の商人七人から聞こえる。その騒がしさを遮るように、宗達が北條側に説明を求める。
「静かに、静かに。北條様、ご説明をお願い致します」
話し始めるのは氏政で、康秀ともう一人今回やって来た人物が説明係として補佐に付く。氏政は康秀が教えたことを言っているだけである。
「皆さん。何故、唐人や南蛮人が金銀以外に我が国の銅塊を欲しがるか知っておいででしょうか?」
拍子抜けの話に商人達が呆れている。
「そんなの、銅銭の材料にでもするからやろう?」
その答えに氏政がニヤリとする。
「違いますな」
「ならなんやね?」
「我が国の銅には製錬技術の未熟から、銅の中に多量の金銀が含まれている状態なのです」
その言葉に多くの商人が驚く。
「なんやって、なら唐人や南蛮人はそれを精錬出来るって言う訳やな」
「そうなります。彼等は安い金額で銅塊を買い付け、其処から金銀を取り出し莫大な差益を得ているのです。だからこそ我が国へ次々に南蛮人や唐人が訪れるのです」
些か、違う点もあるが、銅塊に関しては正しい事である。
ざわめく、経堂。
「そなら、精錬技術があがらにゃ、丸損やないか」
「そやそや」
「皆さん、このまま捨て置けば、唐人と南蛮人にいいように富をもぎり取られてしまいます。其処で我が国でも精度の良い精錬を行おうと言う訳です」
その言葉に商人達が色めきだつ。
「北條様、北條様は精錬方法をご存じなのでっか?」
津田宗達が代表して聞く。
「無論、詳しくは此処に控える、大久保長安に説明させる」
大久保長安の名前に勘の良いものは気がつき期待に満ちた顔になる。
「大久保長門守長安と申します」
無論、彼は風魔者だが、康秀からの教育で確りと大久保長安という山師を演じている。
「神屋殿の祖父寿禎殿が石見銀山にて灰吹法を持って銀を作りましたが、それを応用する方法です。まず銅を鉛とともに溶かしてから徐々に冷却し、銅は固化するが鉛はまだ融解している温度に保ちます。すると銅は次第に結晶化して純度の高い固体となって上層に浮かび、金銀を溶かし込んだ鉛が下層に沈む事になります。この融解した状態の鉛を取り出して、あとは灰吹法にて金銀を取り出すわけです」
(此は南蛮吹と言い、天正十九年(1591)に、銅精錬商人蘇我理右衛門が泉州堺にて貴金属を多く含む粗銅の地金から金銀を取り出す応用法を南蛮人から伝授されたのが最初であるが、今回の伝授で実に三十年以上も前に実用化されることになり、日本の国富の海外流失を防ぐことになる。)
長安の説明に神屋紹策は元より堺衆も大いに驚き、そして儲け話が来たと喜びが顔からあふれ出るが、田中與四郎(千利休)だけは、この様な大事を独占せず、いとも簡単に教える北條家の意図を考えていたが、判らず質問する。
「北條様、何故この様な大事を我々にお教え下さるのでしょうか。通常であればそしらぬ顔で銅塊を集め、其処から出る莫大な富を独占なさるのでは?」
與四郎の言葉に、氏堯がニヤリと笑う。
「そう思うか、であろうな。当家としては独占しても世の為にはならぬと考えた。それに全ての銅塊を北條家が集めることも出来まい。唐人や南蛮人が濡れ手に粟で利益をむしり取るのが許せぬと言えばよいかな」
人を食ったような返答の氏堯を見て、参加者達が苦笑いする。
「判りました」
場が和むと、口々に唐人と南蛮人の話が出る。
「しかし、唐人も南蛮人も阿漕な稼ぎをしていた物よ」
「ほんまや、もうだまされまへん」
ある程度したところで、康秀が製作したカレーが振る舞われ、皆が恐ろしげに食したが、あまりの旨さに皆が驚き、調理法を聞く場面も見られた。この後値段は高いが、カレーは本願寺だけではなく堺と博多でも食べられるようになる。
食事後に、北條氏堯からの頼みが商人達に幾つか為された。
「皆にお願い致す。明や朝鮮より陶器、鉄作り、蚕育成、絹織物、木綿織物、漢方、馬の去勢術の職人を雇って連れて来て頂きたい。さらに南蛮馬、蒙古馬や豚などを繁殖用に大量に連れて来て頂きたい。なお動物は去勢されていない繁殖できる物をお願い致す」
商人達は大規模な話に驚くが面白いという商人魂に火が付いた。
「面白うございますな。神屋紹策お受けします」
神屋紹策の言葉に刺激され、儂も儂もと皆が協力を申し出てくれた。
「更に、お願い致す。聞くところに依ると九州では南蛮人が、我等の同胞を奴隷として海外へ売り飛ばしているとの事」
奴隷販売自体、戦国期にはごく普通に行われていたので、皆さほど驚かない。
「それがどうなさいましたか?」
「彼等はデウスとやらの教えを信じているらしいが、神の前では平等なる教義だそうだ。それなのに奴隷を作るとは以ての外と考え、北條家が資金を出す故、奴隷を買って関東へと送り届けて貰いたい」
デウスや南蛮人の話はよく判らないが、奴隷を北條領へ送ることに関しても快諾された。
「博多衆にお願い致す。筑後三池と言うところに燃える石が有るとの事。博多衆で掘りだし恒久的に関東へ送ってもらいたい」
此も、神屋紹策が責任を持って調査すると約束された。
それらの話の中で、平戸へ行く際には、松浦氏と同族の渡邉孫八郎昌長が北條新三郎綱重の副使として向かい話し合うこと、琉球や明へ向かう際、島津の妨害を防ぐ為に坊津に代わる仮泊地に甑島を使う為の副使に小川次郎左衛門直高が行くことになり、都どころか更に遠く九州の海の先まで向かうはめになった。
最後に最大級の願いが為された。
「神屋殿は王直殿をご存じかと思うが」
王直は倭寇の元締めで、この頃平戸や五島列島を根城にしていた。
王直まで知っているとはと、流石の神屋紹策も驚きを隠せない。
「はい、昵懇にしておりますが、王直殿に何か?」
「風の噂だが、王直殿に明より使者が来たとのことだが」
其処まで知っているのかと更に驚く。
「はい、明の浙江巡撫(浙江長官)胡宋憲より、帰国すれば海禁を緩和し貿易を許すと使者が参ったようで、王直殿は乗り気だそうです」
その話を聞き、氏堯の顔に皺が寄る。
「神屋殿、それは恐らく明側の謀略よ。昔から唐は強大な敵対者に対しては謀略を持って排除するのが臆面もなく行われてきた。王直殿がのこのこ帰れば、捕らえられるがおち」
「なんと、どうすれば」
「其処で、我が殿より王直殿への手紙を届けて頂きたい。そして帰国の危険性を知らせて欲しい」
神屋紹策にしても王直は知り合いであり、商売相手でも有る為、北條家の手伝いをすることにした。
「判りました。微力を尽くしましょう」
彼女とイチャイチャしていた綱重が数か月間九州へ単身赴任w
史実ではこの年1557年の後半に王直は話を信じ出頭した所捕らえられ、1559年に斬首されました。




