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三田一族の意地を見よ  作者: 三田弾正
第壱章 青梅編
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第参話 模倣への道

お待たせしました。久々のUPです。


二十七日が引越の前の荷物整理を業者に頼んでいたはずが、予約日を二十八日と勘違いしていたために、時間が出来たので書けました。


多摩郡を多西郡へ変更しました。この時代は多摩郡が多東、多西両郡に分かれていたそうです。

天文十八年八月九日(1549)


■武蔵國多西郡勝沼城


「んー、やはり紙が悪い」

「どうなさいましたか?」

「いや、紙に羽筆が引っかかって破けるんだよ」


「羽筆ですか。若様は何時もながら面白い物をお作りになりますね。どの様な物なのですか?」

「最近博多や堺に来ているらしい、唐天竺より遠い南蛮から来たと言う者達が使う筆記道具で、雁の羽の根の部分を削って鋭くして其処に割れ目を入れて、インクという墨のような物に浸けて紙に書くものだ」


金助が不思議そうに見てくるが、そりゃ羽ペンなんて見たことも聞いたこともないだろうし。しかし和紙だと引っかかって書き辛いことありゃしない。全く洋紙が恋しいな。


「しかし、御城下に南蛮人などが来たとは聞きませんが、それもやはり何時ぞやの旅の僧からお聞きになったのですか?」


済まんな、金助よ。俺の生前の記憶からだが、此処は騙されておいてくれや。


「そうだよ。忘れていたが思い出したから作ってみた」

「インクという物までお作りになったのですか?」

「ああ。大したことじゃないよ、炭を研いで出来たものだから、墨と殆ど変わらないからね」


まあこの知識もジュール・○ェルヌの『十五○年漂流記』からの受け売りだけどね。


「凄いですね、して何をお書きになっているのですか?」

「これかい、うちの領域は多摩川がかなり下を流れているから水田が霞川沿いにしかないじゃないか。それだから殆どの土地が畑作か雑木林じゃないか。其処へ水を引けば水田や畑に出来る土地は未だ未だあるから、その為の灌漑水車を設計しているのさ」


「水車で灌漑ですか?」

「そうさ、日本でも桓武天皇かんむてんのうの皇子良岑安世が作っていたらしいし、唐伝来の竜骨車だって使われているんだから、我々だって作れるはずだ。改良さえ出来れば一気に増産可能だよ」

「はあ」


「まあ、取りあえず小型で実験してみるから、又親父殿に頼んでくれ」

「はい、父にお伝えします」


んー金助には難しかったか、ハテナマークが思いっきり頭の上に出て居る状態に見えるや。


しかし、和紙の紙質は引っかかりまくりだわ。早いところ洋紙に近い紙を製造しないと駄目だな。んー木材パルプは、蚕の餌である桑の枝は余剰物だからそれから紙を作る土地もあるようだし、さほど難しい事も無いだろう。樹皮を取り去って内側だけを細かくして大鍋で煮てドロドロにすれば良いわけだし、実験してみる甲斐はあるはずだ。


しかし、和紙と墨ではまともに設計図もかけないな。昔の日本の設計図らしき物が結構大雑把だったのはこの書き辛さが要因の一つなのかも知れないな。


しかし実際金助にああは言ったが、確か最大クラスの水車でも直径二十mで一分間に九十五リットルか。少なすぎるな。此処は玉川上水を作るのが良いのだろう。資金六千両超えではあるが、流路も判っているから、家の財政なら何とか成るだろうけど。問題は羽村はうちの領地だが、それ以降の流域はうちの領地じゃ無いから、他家と共同開発するのは良いが、メリットがうちには殆ど無いから、資金提供して貰えないだろうな。


んー悩んでも仕方ない、出来ることからして行くしかない。思うに鉄砲にしても我が家は一丁も持ってないし、『鉄砲何それ?』状態だからな。思い出したが永禄六年滅亡時でも所持鉄砲がなんと一丁だけだったと言う笑えない事実もあったし。しかもそれも家で買ったのではなく、伊勢神宮のお札を売っていた人から日ごろの感謝だと貰ったそうだから、近代兵器に対する理解率が余りにも酷すぎるやい。


同じ頃、織田信長は鉄砲と弓合わせて五百丁とか単独で五百丁どっちかだけど、数百丁の鉄砲を所持していたことだけはたしかなんだよな。今年には確か近江の国友村に火縄銃五百丁を注文したらしいし、うちも国産出来ないからって一丁はないだろう。だから三田家は鎌倉以来の古くさい軍政だと馬鹿にされるんだよ。


此処は軍政改革が必要だよな。うちの領地高が石高で言うなら大体壱万石強で、その他に漆、木材等の山ならではの特産物があるから、資金的にはなんとかなるんだから、最低でも槍を長柄にして、鉄砲も百丁単位で欲しい物だが、生産地がないんだよな。


設計図は引けるから、製造できる鍛冶師さえ居れば作らせられるんだが、相変わらずの八方塞がり状態だし。いっその事、鍛造銃身を諦めて、うちの所領羽村の二大鋳物師、渡辺・桜井氏を使って銃身を青銅の砂型鋳物で作成して見るのも一考かも知れない。


大日本帝国陸軍の二十八センチ要塞砲だって青銅砲だったし青銅銃自体中国とかで製造されていたから出来るはずなんだよ。鋳鉄鋳物で銃身作れば強度問題でバラバラになりそうだから、比較的安定している青銅なら千度ほどで流動化出来るから、何とか成るはずだ。


大学時代の友人の実家が鋳物で有名な川口の鋳物工場だった関係で鋳物工場へ遊びに行っては結構遊んでいたからな。そのせいで砂型鋳物なら出来るし、この時代でも石膏も蜜蝋も手に入るから、ロストワックス工法も可能だから、上手くすれば先込滑空式火縄銃マッチロックではなく、後装式線条燧石銃フリントロックライフルが出来る可能性もある。


ボルトアクションライフルは無理だが、トラップドア式ならやり様はある。早合を改良して底部のみ真鍮で薬莢状の物を作って押し付ける形にすれば、後方へのガスの流失は最低限に出来るはずだ。ゴムが手に入らないのでシャスポー小銃のようにゴムパッキンでガス漏れを防ぐことは出来ないが、鞣し革とかを使えば何とか出来ると思う。


材料の青銅は鐚銭を鋳潰せば結構手に入るしこの頃は通貨に関する法律なんか有って無いようなものだからな。永楽銭一枚に鐚銭四枚ほどだったから、少数なら鋳潰しで何とか出来るはずだ。しかし今のように貨幣流通量が圧倒的に少ない状態では、やはり秩父鉱山から銅の採掘をするしか無いし。或いは足尾銅山開発をあの辺の領主と共同で行うとか。けど出来ないんだよな。どう考えても足尾に銅山があると判れば、草刈り場になるからな。


此処はやはり秩父鉱山を掘るしかないが、悲しき事に未だに黒川衆との接点ができん。小菅の領主小菅遠江守に話を通して貰うにしても、怖い武田晴信が出てくるからな。黒川金山の楠家とか土岐舩木家とかと個人的に連絡が出来れば良いんだが、子飼いの忍びもいない状態じゃどうにもならん。


楠家はあの有名な楠木正成くすのき まさしげの子孫だそうで、河内から土岐一族の中でも南朝側として戦った舩木一族と共に落ち延びてきて、楠木家伝来の鉱山技術で黒川金山を開発したらしいんだが。今は接点がないから要らない情報だが、何時か必要になるだろう。


やはり、先立つものは資金だが、砂金は取りあえず多摩川でも取れるから多少は手に入るんだ。鉄も砂鉄が取れるし福生ではそれを原料にして蹈鞴製鉄を行ってるし。城下の青梅は元々市が立つぐらいだから、信長のように楽市楽座で運上金で儲けるのも手だが、地方だから余り上手く行くとも思えないんだよな。


しかし、最大の問題は自分の立ち位置だよな。余四郎で余り物だから、うちの運営には口を挟めないのがな。精々金助の親父殿に頼んで照査して貰い意見して貰うしか無いんだが、斬新な政策は大半が却下される。鎌倉以来の名門の矜持か何かしらんが、古くさい政策ばかりなんだよな。


年貢も怨敵後北條の様に四公六民じゃないからな。下手すりゃ領民が北條に統治して欲しいと言いかねないぞ。只でさえ南隣の小宮氏の領土の南隣は何れは北條ほうじょう源三げんぞう氏照うじてるの所領に成るのだから、良くない状態になりかねない。


曾爺さんや爺さん達が寺社を修理しまくったけど、今はそれどころじゃないからな。その金があればどれだけ近代化が出来たか判らないが、三田氏は滅んだが美術品の保護に力を入れたと本とかには出てるけどね、家自体消えたらどうしようも無いんだがね。


そう言えば、この時代でも銅線や鉄線は製造可能なんだよな。銅線や鉄線があれば結構色々使い道が有るんだよね。硫黄と硝石を燃やしてその水蒸気を冷やすと硫酸ができるから、それを素焼きの壺に入れて銅板と亜鉛版を入れて銅線で繋げばボルタ電池の出来上がりだが、使い道がハッキリ言って無い。


太平洋戦争中は銅線に紙巻いてラッカー塗りで電線作ったから、ラッカーの代わりに漆塗りでも出来るはずなんだよな。それでも精々猿除けとかしか使えない状態だけど。火薬を防水できる壺に入れて鉄片、釘とか入れて地雷を作って、それを電気を流して爆破する電気信管の代わりに出来るはずだが、研究の余地があるよな。


うむー考えれば考える程やることが多すぎるな。しかもこの時代では余りに突拍子もない物ばかりだし、その手の技術者も居ない、此が江戸時代なら平賀源内ひらが げんないとか江川太郎左衛門えがわ たろうざえもんとかがいるから相談のって貰えそうなんだが、今の状態じゃ信長に会えたとしても胡乱な奴と怪しまれそうだよ。


セメントもだが、最初は漆喰で御茶を濁すしか無いかな。余り目立ちすぎても北條に目を付けられかねないからな。硝石の生産も始められないし、困った困った。



■勝沼城内 野口刑部少輔秀政の詰めの間


三田家重臣野口刑部少輔秀政が政務を行っていた時、今日も息子金助がやって来た。


「父上」

「どうした、金助。お前は若様のお付きであろう」

「はい、今回も若様よりこのような物を作りたいと頼まれまして」


金助の持って来た図面を見ながら定政は唸ってしまう。

「うむ、水車とは此も又若のお考えか」

「その様にお伺いしています」


「儂だけではどうにもならんから、殿に伝えよう」

「はい」


息子を送り出した後、秀政はマジマジと図面を見ながら三田家には過ぎたる人物が生まれたかと益々思い始めていた。その後、綱秀に話をし、小型のもので有れば水車を作って良いとのお墨付きを得た結果、小さな水車が霞川の塩船観音の付近に制作され、余四郎の言う様に水を揚水できることが判るのが、約一年後のことであった。


この事が、小田原の北條氏康の耳に入ることになった為、三田氏と余四郎の未来が激変することになるのであるが、この時本人は制作許可が下りたと喜んでいるだけであった。




天文十九年五月二十八日(1550)


■相模國足柄下郡小田原城


戦国大名北條氏第三代当主北條氏康は風魔を使い関東各地の情報を仕入れていた。その中に最近再度臣従してきた勝沼三田氏において面白い発明をする小童がいる事を見つけた。


「どうされたかな左京殿」

伯父であり箱根権現別当職にもある北條幻庵ほうじょう げんあんがにこやかに話しかけてくる。

「伯父御、いやな三田に面白き事をする小童が居るようでな」


「ほー、幾つじゃ?」

「未だ八つよ」

「ほう、藤菊丸(氏照)より二歳も下ではないか、それで居てどの様な事をしているのじゃ?」


幻庵に読んでいた物を渡し、返答を待った。

「此は、どれも此もとても八歳児の童の物と思えんぞ」

「それで、感心しております」


「ふむ、左京殿はどうなさるおつもりかな?」

「此だけの事をする人物、鄙に置いておくのも勿体ないのではと」

「成るほどの、確かにそうじゃ。多摩川の水を引いて武蔵野の大地を開拓しようとは中々考えられぬ事じゃ。まるで唐の皇帝の様な考えよの」


「それに、三田は臣従して間もない為、人質として次男か三男を送ってくる話でしたが、此処はこの小童を呼んでみたいかと」

「ふむ、呼んで資質を見極めるつもりか」


「はい、新九郎の馬廻りとして仕えさせるのも一興かと思いまして」

「ふむ、して資質が良い場合は、儂が仕込んでも良いぞ」

「伯父上がですか」


「子育ても終わっておるし丁度暇じゃからな」

「では良き資質の場合はお願い致します」

「悪ければ、返せば良いだけじゃ」



やり過ぎた結果目立って人質フラグが立った余四郎であった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 電気信号起爆地雷(適当)が出来れば天下統一出来るちゃう笑。(敵司令官、街道や山道を爆殺・封鎖出来る)
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