第貳話 そう旨くは行かない
天文十七年三月十日(1548)
■武蔵國多西郡勝沼城
兄上に娘が生まれ名は笛と名付けられました。まだ赤ん坊ですが、既に美女になる要素がてんこ盛りです。しかし上杉謙信の小田原攻めまで十二年で三田家滅亡まで十五年のカウントダウンが始まり、うかうかしていられないんだけどねー。
よく転生者だと神様パワーとかスゲーチート技能とか有るんだけど、自分にはそんな神秘の技はありませんから、精々大学は史学学科で趣味で科学も囓っていて、ノンジャンルで本読みまくっていたぐらいだから、知識はあるんだけど実績が伴わないんだよなー。
独り言はさておき、鉄砲の作り方は知っているが、自分じゃ作れないから種子島のように刀鍛冶を雇って制作をさせなきゃ成らないんだが、関東の田舎では野鍛冶は居ても刀鍛冶は殆ど居ないんだー。一応瀧山城のお抱えの下原鍛冶衆や後北条配下の鎌倉雪ノ下の相州伝ならいるはずが、仮想敵國のお抱えなんか雇える訳無いし、仮に雇えても機密駄々漏れになる事請け合いじゃないか!
そう思ったら、瀧山城はまだ無い状態だった。有るのは近所の高月城で、大石氏の本城は由井城(浄福寺城)らしい。うろ覚えは危ないな。
火薬に関してだが硝石は以前趣味で調べた人工硝石の作り方を知っているからな。既に毛利元就が弘治三年(1557)に古い民家や厩の土から硝石生産を命じているぐらいだから、少しずつ知られていく最中かも知れないけど、関東では先駆者のはずだ。今なら怪しまれずに大量の硝石原料を集められるのでは無いだろうか。
それでも説得できるか何だよなー。何処からそんな方法を知ったと言われたら答えが出ないからな。古土法や鍾乳洞に溜まった蝙蝠の糞でも火薬が作れるというのは、旅の僧にでも聞いたとすれば、なんとかなるだろう。流石に硝石丘とか培養法とかは余りに斬新だからな。ヨモギに尿をかけてヨモギの根細菌による硝酸の蓄積を多くして、ヨモギを発酵させて硝酸を得る方法も有るんだけど、誰かが食べちゃいそうだしな。山ゴボウの根にも硝酸が多数含まれているから、この山岳地帯は硝石の宝庫なんだけどどうするべきか。
硝石原料の一つである蚕の糞については、青梅や羽村付近はこの頃でも養蚕が盛んだから幾らでも手に入るんだけど。火薬は作ろうと思えば、古土法以外でも培養法だろうが硝石丘法だろうが、五年もすれば大量生産が可能なのに、どう親父達に説明するかが問題なんだよ。
鉄砲だって、某学研の科学で見た鉄砲の話で、鉄板を斜め巻きしながら銃身を熱溶接で作る方式を知っているから、鍛冶師さえいれば何とか試作は可能なんだよな。それに我が家の領域の山はチャート質(燧石)に事欠かないから火縄式じゃなく燧石式鉄砲が可能なんだが、七歳の餓鬼が言ってもまともに取り上げられるわけが無いし、下手すりゃ気味悪がられるだけだしな。
それに側室の子で余り物の事など、余り気にかけて貰ってないし、下手扱けば北條への人質にされて、見捨てられた挙げ句にばっさりって可能性が有る。北條でも氏照は乗っ取った大石氏の義弟達を虐待とかしなかったけど、藤田家に行った氏邦は義弟達を騙し討ちして殺してるから、裏切った連中の人質はバッサリだろうな。
それに太田三楽齋の嫡男氏資が北條の娘を嫁に貰って、子供が出来た後で三船山合戦で戦死して氏政の子供が太田氏乗っ取っているから、氏資は合戦で討ち死にじゃなくて北條側に用済みだと殺られたんじゃ無いかと勘ぐるよなー。北條の場合家乗っ取って用済みを殺っている感じが強いから、人質なんてなったら最後の気がする。
三田氏じゃなくて由良氏で肝っ玉母さん妙印尼様の子供なら安心して居られたんだけど、世の中上手く行かないよ。あー困った困った。
まあ仕方ないもう少し考えてみよう。今簡単にできるのはセメントだな。奥多摩と言えば石灰石だし、初期型セメントなら粘土質石灰石を千度ほどで焼いて砕けば出来るから、此なら遊んでいる最中に偶然出来たとごまかせるかも知れないな。
鉄砲、大砲、地雷、手榴弾、セメント、硝石とか色々制作したいが、如何せん元手も無ければ手もないから、完全に絵に描いた餅状態。絵に描く自体和紙と墨と筆だから、書き辛いことったらありゃしない。ノートとシャーペンが懐かしい。あっそうだ、貝殻から作れる白墨と板に石粉末を入れた黒漆を塗った黒板を用意すれば良いんじゃないか。これぐらいの贅沢なら許されているから、早速造ってもらおう。
それと、意外や意外にも奥多摩の日原と奥秩父は山道でお互いに行き来しているんだよ。それでうちの勢力圏が秩父の奥地に及んでいる事が判明、しかも股の沢金山と秩父金山の付近まで手に入れられそうな状態。まあ下手に掘れば、お隣の武田さんが出てくる可能性が大なんですけどね。
黒川衆を雇えれば、金銀鉛とかが出るから戦力増強にはもってこいなんですが、地方政権の悲しき所で全く駄目な状態。黒川衆はお隣だし、武田家の直臣と言う訳でも無いらしいですけどね。武田家に秘密が漏れる可能性は非常に高いと言う訳だ。
けどなー、水銀アマルガム法は元より下手すれば灰吹き法すら知らない可能性の黒川衆にその方法を秘伝として伝授して、此方の金山の開発を頼んで上がりを折半すれば相当な資金源になるんだけど、今なら武田家も上田原の戦いで大敗したばかりだから此方まで目を向ける可能性は小さいはずなんだけど、昨年の小田井原の戦いで御主君 関東管領上杉憲政様が武田家とドンパチしてるから武田家に媚びうるわけにも行かないしな。
折角の知識も役に立たないんじゃどうしようもない。いっその事上杉謙信の元へ行って仕えるのも一つの手だが、彼処雪は深いし保守的だし、かといって怨敵北條に仕える気も無し、武田に仕えるのも面白いかも知れないけど、長篠で鉄砲の的には成りたくない。
あーーーどうしよう。いっそ出家でもして坊さんになるか。何でも俺のお付き野口金助の親父さん刑部少輔秀政の話だと最初親父は余り物の四男は寺に入れるとか言っていたらしいから、それに乗って海禅寺や天寧寺に入るのも一興か。
それとも西国へ行って自分を売り込むという事も考えられるけど、数え七歳じゃ動くに動けないからな。せめて金助の様に十二歳なら動けるんだけどね。寺で修行するよりは実験していたいんだよな。まあ親父が動いたらやばいけどね。その時はその時で考えるしかないや。ケセラセラ(成るように成れ)とも言うしね。
まあ元々三田家は京都の歌人とかとも付き合いのある家だから、京都で過ごすことも可能だろうけど、混乱している京都じゃなー。何時火事とかで死ぬか判らないし、戦乱の時代は堺とかじゃないと安心できないかも知れない。
まあ仕方ない、少しずつ行くかな。“小さな事からコツコツと”関西の大御所漫才師が言っていたじゃないか。取りあえず、黒板と白墨、ヨモギ硝石、古土法、セメントをやってみよう。金助の親父に頼めば融通してくれるから何とか成るさ。
「金助、一寸来て」
「若どうなさいました?」
「金助の親父殿に頼み事」
「はい、何でしょうか?」
「こういう物を作って欲しいんだ」
「此は?」
「前に市で会った、旅の僧に聞いたんだけど、こういう物が明では使われてるらしいんだ」
「ふむふむ、消したり出来る板とそれに書く道具ですな」
「そうそう、便利でしょう」
「判りました、父に伝えます」
「頼むね」
「はっ」
■勝沼城内 野口刑部少輔秀政の詰めの間
三田家重臣野口刑部少輔秀政が政務を行っていた時、息子金助がやって来た。
「父上」
「どうした、金助。お前は若様のお付きであろう」
「はい、若様よりこのような物を用意してくれと頼まれまして」
そう言いながら、息子金助の持って来た、余四郎様の書いた懇切手寧な設計図を見て、秀政は思わず唸ってしまった。確かに今まで貝殻の粉(胡粉)で筆により絵を描くことはされていたが、作成時間に数か月から数十年かかる代物であり、余四郎の示した様な貝殻を一度焼いて石臼で粉にして水を混ぜて固める方法は誰も考えついていなかった事と、黒板という板も始めて聞く品であった。
「うむ。此は」
「父上、如何でしょうか?」
「うむ、職人に試作させてみよう、それまでは若にお待ち頂くようにお伝えせよ」
「はい」
息子金助が帰った後、早速城下の職人に試作を命じに秀政は城を退出するのであった。
数日後、元々山國であり漆器生産も行われていたために、職人は手もなく黒板を作り上げたが、態々漆器をザラザラ状態にすることについては不思議がっていた。白墨はハマグリの貝殻を焼かせて制作させた。
試作品を使ってみて、秀政は唸ってしまった。使い勝手が筆に比べて遙かに良く、布で消して使う事が出来るために、紙のように大量に使う事が無く、経済的であることが判ったからである。漆自体屑漆を使っているためにそんなに金はかかっていないのであるし、白墨は捨てる貝殻を利用しているほどである。
「うむ、素晴らしい。此は殿にお知らせしなければ成らないな」
秀政は直ぐさま、試作品を持って、弾正少弼綱秀の元へと向かった。
「殿、宜しいでしょうか?」
「刑部か、どういたした?」
「此をご覧ください」
綱秀は秀政の差し出した黒板と白墨を不思議そうに見る。
「この盆は縁も無く仕上げも荒いの、よほどの安物であろう」
綱秀は完全に勘違いして素っ頓狂な返答をしている。
「殿、違いますぞ。此は字を書く道具に御座います」
「どの様に使うのだ?」
綱秀の質問に秀政は実演して見せた、その実演を見て綱秀が大いに驚く。
「素晴らしい、紙のように書いたら消せないのではなく、書いても書いても消せるのであれば、色々と役に立つであろう。此はいったい何処から求めたのか、唐の物か?」
「殿、これは城下にて制作させた物でございます」
「刑部、するとそちが作らせたと申すか?」
「職人に作らせましたのは私ですが、図面をお書きに成ったのは余四郎様に御座います」
余四郎が考えたと聞いて綱秀は驚いた。
「まさか、余四郎がその様な物を考えたと言うのか?」
「金助の話に因れば明では既に使われていると、旅の僧より教わったと」
「ふむ。聞いたにしても素晴らしい物だ、僅か七歳にて其処まで機転が利くとは」
「如何為さいますか?」
「うむ、寺に預けるのはやめにしよう。刑部、そちが守り役として見守ってくれ」
「はっ」
余四郎の知らない間に、出家フラグが折れたのであった。
多摩郡を多西郡へ変更
この時代多摩郡が多東郡と多西郡に分けられていました。