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三田一族の意地を見よ  作者: 三田弾正
第六章 畿内動乱編
133/140

第百三十一話 困惑

相続の件が一段落したので、以前書きかけのままだった物を修正して完成させました。

ペースが上がるかわかりませんが、久々の投稿です。よろしくお願いいたします。

永禄元(1558)年十月十日


■近江国浅井郡小谷城 浅井教政あざいのりまさ


観音寺での戦いから一月以上が過ぎた、しかしあっと言う間の一月だった。良く言われる”人間忙しいと月日は早く過ぎるのだ”と言う事が実感できているのだから。


しかし俺らが六角親子の首級を上げて凱旋した時に、あたりの風景は稲刈りも終わった田は刈り終わった茎の茶色と黒々とした土色の地面を見せていたのだが、今は既に白く雪が舞っているのだから。


「若、今回の呼び出しは何でしょうね?」

「大方、観音寺でやった悪さがばれたのでは無いですか?」

「藤左衛門でも有るまいし、悪さなどしてはおらん」


「確かにそうですな、食い意地の張った藤左衛門の様に、塩川屋によって最近売り出された小鮎飴煮を旨いからと買い占めてしまった様な事はしてないからな」

「いやそれは、淡海の名物と言えばあの臭い鮒寿司しかなかったのがあれほど旨いものが出来たのだ。確りと確かめて皆に勧めようと思っただけだ」


全く藤左衛門にも困ったものだな。しかしあの戦以来、俺は喜右衛門(遠藤直経)を筆頭宿老に新三郎(新庄直頼)、孫五郎(阿閉貞大)、藤左衛門(野村直隆)などを引き連れて、親父殿の命で接収した観音寺城を拠点に六角残党の討伐と国衆への寝返りの差配を任されている。


あの時、いきなりの元服と初陣で戸惑いはしたが、心が落ち着いて敵を討つことが出来たが、まつりごとは戦と違って一気呵成にやれば済むと言う訳では無く試行錯誤の連続だ。


それにしても人手が足らん、元々我が浅井は近江の土豪であったゆえ譜代が少ないからな、親父殿には好きにやれと言われている以上は、六角旧臣や浪人、土豪なども積極的に召し抱えることを考えねばならんな、丁度よい親父殿に相談するか。



永禄元(1558)年十月十日


■近江国浅井郡小谷城 浅井教政あざいのりまさ


「若もいよいよ嫁取りにございますな」

「真、目出度い」

「これだけ多いと選ぶのに大変ですな」

「若、選り取り見取りですぞ、いやいっそ全員娶るということは」


喜右衛門、新三郎、孫五郎、藤左衛門が好き勝手言っておるが、親父殿の用とは儂の嫁取りの話であった。美濃斉藤に甲斐武田、公家の数家、国衆、更に江北の真宗の寺からも来た、更に驚いたのは三好からも養女を是非にと言われたことだ。


親父殿は朝倉から嫁を貰いたかったようだが朝倉からは打診が無かったことで渋い顔であったな、やはり朝倉はまだまだ当家を下に見ているようだ。それにして『誰を選ぶかどの家を選ぶかはお前に任せる』と言われても困ってしまう。楽天的な藤左衛門が羨ましいわ。


しかし、平井の小夜殿は……



永禄元(1558)年十二月二十六日  


■相模国西郡小田原 三田康秀


昨日はシュールストレミングでひどい目にあったが、まあ大丈夫かな。まあそれは置いといて、七月に起こった伊達&岩城の東北連合VS北條&佐竹の関東連合と言う何処ぞの暴走族どうしの戦いのような戦は近代兵器と新戦術を駆使した我ら関東連合の勝利に終わったわけだが、その際に伊達家では当主伊達晴宗が討ち死にし、跡継ぎの伊達輝宗が行方不明になったせいで、天文の乱の敗戦で晴宗により強制隠居させられていた先代伊達稙宗が復権を懸けて動き始めた。


ある意味仕方が無いとは言えるんだよな。折角伊達家が数世代にかけて最上、芦名、大崎、葛西、相馬とかの一癖も二癖もある連中を支配下に置いていたのが、壮大な親子げんかである天文の乱によって独立されて、伊達家の勢力が見るも無惨に落ちぶれてしまった。


稙宗にしてみれば『チクショメー! 巫山戯んなクソ息子』と叫びたい状態だっただろうから、晴宗死亡、輝宗行方不明で万々歳な状態、強制隠居だしハッチャケたんだろうな。此によって、近隣の大名や国衆を巻き込んで米沢の伊達家と信夫の伊達家との仁義なき戦いが勃発した訳だ。


しかし、俺が原因とは言え、伊達家でまた内乱が起こるとは、平沼騏一郎が『欧州情勢は複雑怪奇』と言ったが、今の俺に言わせれば駄洒落だけど奥州情勢は複雑怪奇という感じだよな。東北に関しては親戚筋の相馬家との関係を強化しつつある程度静観か……といいながら忍者送って人材確保と不信の火付けをしまくりますぜケッケッケ。


近江では、塩川屋が予想以上の活躍をしてくれたお蔭で、浅井家が六角家にパーフェクト勝利を得て、六角家がほぼ壊滅、此により近江では浅井家による覇権がほぼ確定、まあいきなり大きくなったので人的物的不足が甚だしくて対外拡張は出来ない状態なので各地の勢力固めに力を入れているそうだ。


そんな赤丸急上昇中の浅井家では嫡男長政、もとい教政に対して多くの縁談話が舞い込んでいるそうだ。そんな中でも元々の同盟国朝倉家は浅井を格下の従属国という感覚なのか、婚姻話は全くないそうだが、それ以外では、先ず手を上げたのは美濃斎藤家、元々斎藤義龍の奥方が浅井久政の兄妹で有る関係もあるが、それ以外に浅井の寄親たる朝倉家と斎藤家の関係がかなり険悪でそれを考えると浅井を朝倉から寝返らそうと考え更なる関係強化を計画している模様だ。


次いで、甲斐武田家、意外に思うかも知れないが、武田家は信濃だけではなく飛騨、東美濃にも勢力を進めようとしている最中で、数年前から織田家の縁戚でもある東美濃の遠山家はかなり武田寄りになっている。だからこそ秋山虎繁を仲介にして織田信長との音信を続けているとも言えるんだが、怪しさ大爆発なんだよな信玄ダボハゼはさ。


それは置いておくとして、美濃攻めをしている織田と、出来れば東美濃を手に入れたい武田が協力して美濃攻めをする必要上、武田からも打診があるようだ。それにしても信玄の娘は長女が氏政、次女が穴山梅雪、三女が木曾義昌、四女以下がまだ幼女か生まれたばかりで年の合う娘が居ないからな、養女でも取るのか果たしてどうなるやら、ただ親族に年の合う娘がいそうに無いのが問題かも?


公家達も秋波を送っているっぽくって何家かが水面下で打診しているぽい。


そんな中、叡山に絶賛雪隠詰め中の将軍義輝家臣に元北近江守護京極高吉が仕えているからなのか『浅井家は六角家を討った謀反人ではあるが、直ぐさま兵を率いて坂本まで参り謝罪すれば、罪一等を減じ近江守護代に任じる。近江を京極高吉に返還し、三好征伐に馳せ参ぜよ』などという、世迷い言を書いた御内書を送ったそうだがのらりくらりと黙殺されたらしい。


それに対して朝廷は、浅井家に朽木家を介して飛鳥井殿が勅使として下向し、浅井久政を従五位上近江守に任じ子息の教政を正六位下近江介に任じた。この事は完全にあの事なかれ主義、平衡感覚外交の朝廷が将軍を見捨てたとみて良いほどの事件と言えるな。


朝廷としても年がら年中、三好と戦をしては都を逃げて何年も朽木に引きこもったりする将軍にはあきれていたから危機感を持てと言うことらしい。


まあ、都の三郎殿(池朝氏)からの話じゃ、明智十兵衛をお供に今にも死にそうな顔の細川藤孝殿が目の下に隈を作って教えてくれたそうだが、今回の仕儀に対しては将軍と一部側近は相当頭にきているそうだが、何とかしようにも兵力も僅か五千ほどしかなく、麓を囲む三好勢は二万近くもいるので、完全な籠城状態だ。士気もガタガタで欠け落ちが相次いでいるそうだ。


あんまりにも時間がかかってるうえに冬で『寒いし眠いし面倒くさい』ので『叡山ごと焼いてしまえば一石二鳥だ』と三好三人衆あたりが言い始めたようだが、流石に松永弾正久秀ボンバーマン殿も三好長慶殿からの命令が無い限りは叡山焼き討ちはしないように説得していると、で時たま検非違使の実質的な指揮官たる三郎殿や公家衆と会合がてら茶会や歌会をしながら優雅にすごしているそうだ。


弾正殿曰く『殿の名誉にも関わりますので、万人恐怖様(足利義教)の様な事はできません。それに燃やせば燃やしたで後片付けが大変ですからな』と笑っているのこと。


ただ、藤孝殿の話では、焦った一部側近が大樹を蔑ろにする帝など要らないので天台座主尭尊法親王を担ぎ上げて新帝にしようと気勢を上げているそうだが、かつて後醍醐天皇に対して足利尊氏が北朝の光明天皇を立てた時とおんなじ状態じゃん。完全に足利家のお家芸、”勝手に帝”だよな。


此の話が一部家臣の妄想なら良いんだが、『大樹まで話に乗ったら困る』と藤孝殿は敢えて三郎殿に伝えてきた訳だ。彼にしてみれば出来の悪い弟分を……因みに細川藤孝は足利義晴の御落胤説があるからな。何とか宥めて将軍として大人しくして欲しいという感覚なんだろうな。


三好と将軍がにらみ合っている近江の現状は南近江の蒲生郡、甲賀郡に六角次郎が当主の残存勢力が、北近江と中近江、高島郡などが浅井、高島郡の朽木領五千石ほどが朝廷との音信を通じるために高度な政治的な理由による取引で武装中立となり、本来なら延暦寺領同然の南近江の滋賀郡などが三好の勢力圏になっている。


更に、六角の衰退に乗じて伊賀、北伊勢には北畠殿が勢力を拡大することに成功、それにはあのデブ殿(北畠具房)が大活躍したそうで、デブ殿の親父殿(北畠具教)から『典厩殿が後押ししてくれたお蔭で息子は見違えるようになりましたぞ』と感謝の書状との三条銘の2尺5寸8分5厘の太刀が送られた来た。


いやー、京都でもお目に掛かれなかった三条宗近の太刀だから俺としては興奮しまくりだわ。そんなに発破かけた気がしないけど思わぬプレゼントに懇切丁寧なお礼状と、定番調味料にマヨネーズなどの新作調味料、缶詰、壺詰めとかの食材とかを送ったよ。そしたら暫くして、デブ殿からマヨネーズをもっと送ってくれと書状が来た、いやー完全にマヨラーの誕生だね。


それはともあれ、それにしても戦国の世だよな、具教殿の奥方でデブ殿の母上であるお方は六角定頼の娘で、浅井教政が討ち取った義賢、この世界じゃあ出家して承禎と名乗る前にほんまもんの仏様になった方の妹なんだけど、斜陽の六角家を支援することもせず『そんなの関係ねえ!』とばかりに勢力拡大をしたわけだ。


この辺だと考えれば、六角の血を引くと言う事で自分の子を後釜に据えるかも知れないな、まあ”水に落ちた犬は打て“が普通の世の中じゃ仕方が無いということだな。

浅井教政視線と康秀の視線です。

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― 新着の感想 ―
[一言] 更新ありがとうございます。次回も楽しみにしてます。
[一言] 更新お待ちしていました。 久しぶりでしたので、また最初から読み直して、やっぱり面白いと再確認しました。 無理をせず、これからもよろしくお願いします。
[一言] 歴史物って少し変わるだけでも、設定大変だよね。
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